第三十話 閉鎖区画・前編
ベルガンド中央区は、朝から人の流れが絶えなかった。
荷車と人が行き交う大通り。
だが、そこから一本外れた途端、喧騒が遠のいた。
旧議場裏手。
その一角だけが、街から切り離されたように静まり返っている。
錆びた柵が道を塞ぎ、古びた看板には、かすれた立入禁止の文字。
柵の向こうには、使われていない管理棟と閉ざされた搬入口があるだけに見えた。
だが、警備はいる。
ただの見張りではない。
こちらを眺める目に、隙がなかった。
「ここか」
無双が柵の向こうを見た。
布武は周囲へ視線を走らせる。
「鴉羽の言葉を信じるならね」
継真は脇腹をかばうように、静かに息を整えた。
「無茶はしないでね」
無双は右腕を軽く回す。
宿を出る前、継真が折れた骨をつないでくれた。
痛みはほとんどない。
それでも、治したばかりの違和感が腕の奥に残っている。
「分かってる」
「本当?」
「本当だって」
継真は少し困ったように無双を見る。
「骨はつないだけど、もう何しても大丈夫ってわけじゃないからね」
「分かってるって」
そう答える無双とは対照的に、継真自身はまだ脇腹へ手を添えていた。
布武が小さく息を吐く。
「今から相手にするのは法原よ。無理しない程度に無理しなさい」
「それ、どっちだよ」
「倒れるまでやるなってこと」
「布武、たまにやべぇこと言うよな」
正面から行けば、間違いなく止められる。
裏へ回っても、警備の目はある。
継真が声を落とした。
「どうする? 無理に入ったら、騒ぎになりそうだよ」
「めんどくせぇから、正面から行こう」
布武と継真が同時に無双を見る。
「馬鹿なの?」
「話、聞いてた?」
「まだ何もしてねぇだろ」
「しようとしたから言ってるのよ」
その時だった。
「中へ入りたいのか」
しわがれた声が、すぐ後ろから聞こえた。
三人が同時に振り返る。
老人が立っていた。
長い耳。
だが、左耳だけは半ばから先が欠けている。
あご髭を蓄えた顔つきは穏やかだった。
それなのに――誰一人、老人がそこへ来るまで気づかなかった。
布武の目が細くなる。
継真もわずかに息を呑む。
無双でさえ、すぐには言葉を返せなかった。
老人はまっすぐ立っていた。
肩にも、足元にも力みはない。
それでも、不思議なほど隙が見えなかった。
無双が老人を見上げる。
「じいさん、俺たち、あの中に入りたいんだ。警備の人に頼んでくれないか」
「無双!」
布武の拳が無双の頭に落ちた。
「いってぇ!」
「何を普通に頼んでるのよ!」
「冗談だって。半分くらい」
「半分本気じゃない」
老人の口元が、わずかに緩んだ。
「いいぞ」
三人の動きが止まる。
「できるのか!?」
「頼んだのはお前だろう」
「いや、そうだけど」
老人はそれ以上何も言わず、門へ向かって歩き出した。
布武はその背中を見つめる。
「……怪しすぎるわね」
「うん。いつ後ろに来たのか、全然分からなかった」
「罠かもしれないわ」
「でも、無理に突破するよりは――」
継真が言いかけて、止まった。
「……無双は?」
二人が振り向く。
無双はもう、老人の後ろを歩いていた。
「無双!」
「何してんだよ。行くんだろ?」
「少しは疑いなさい!」
「通してくれるって言ってるぞ」
「それが怪しいのよ!」
老人は振り返らなかった。
ただ、その肩がわずかに揺れた。
門の前で、老人が片手を上げる。
それだけで門番たちは何も問わず、錆びた門を開いた。
三人は老人に続いて閉鎖区画へ入る。
中には、外から見えていた通りの古い管理棟と搬入口。
老人はどちらにも向かわず、その脇を抜けて奥へ進んだ。
やがて、ひび割れた壁の前まで来る。
「……行き止まりよ」
布武が言った。
老人は構わず、その壁へ一歩踏み出した。
姿が水面の向こうへ沈むように揺れ――消えた。
「え?」
無双が目を見開く。
継真がそっと手を伸ばす。
指先が触れる直前、壁の景色が波打った。
「……壁じゃない」
無双はすぐに腕を差し入れる。
「通れるぞ」
「だから先に行かないで」
布武に睨まれながら、無双は境界を越えた。
視界が一瞬だけ歪む。
「……うわ」
その先に、白い研究棟がそびえていた。
見上げても頂上が分からないほど高い。
外から見えていた古びた景色そのものが、この建物を覆い隠していたのだ。
布武と継真も境界を抜ける。
「……こんなものが、あそこから見えなかったの?」
無双は研究棟を見上げた。
「すげぇな」
老人はすでに入口へ向かっている。
「置いてかれるぞ」
三人はその後を追った。
白い扉が音もなく開く。
中は、どこを見ても白かった。
明るすぎる照明が影を薄くし、薬品と消毒液の匂いが鼻をつく。
廊下を行き交う白衣の者たちが振り向く。
だが、老人を見るなり足を止めた。
老人が軽く片手を上げる。
それだけで誰も声をかけず、静かに頭を下げて道を空けた。
布武の目が細くなる。
無双たちが何者なのかさえ、誰も尋ねない。
「あの老人、本当に何者なの」
老人は答えず、そのまま歩き続けた。
やがて、銀色の扉が並ぶ場所で足を止める。
壁の小さなボタンを指した。
「これを押せ」
無双が押すと、銀色の扉が左右へ開いた。
中には、人が数人入れるほどの狭い空間。
壁には、一から九十七まで数字の書かれたボタンが並んでいる。
「なんだ、これ」
「昇降機だ。数字を押せば、その階まで自動で運んでくれる」
「……これが勝手に?」
「ああ」
継真は中を覗き込み、少し不安そうに眉を下げた。
「途中で止まったり、落ちたりしないよね……?」
「俺に聞くなよ」
「二人とも、乗るわよ」
布武に促され、三人は中へ入った。
無双が老人を見る。
「ありがとう、じいさん!」
老人は片手を上げただけだった。
扉が閉じる。
無双は壁一面の数字を見上げた。
その横に、小さな案内板がある。
下層には、受付、資料保管、一般研究区画。
さらに上へ視線を移す。
九十一階から九十七階――特別研究区画。
「特別研究区画……」
無双の目が、一番上の数字で止まった。
「じゃあ、九十七」
迷わず指を伸ばす。
「ちょっと。どうして一番上なのよ」
「どうせ行くなら、一番上だろ」
「相変わらず雑ね」
継真も案内板を見る。
「……でも、一階ずつ探すよりはいいかもね」
無双が九十七のボタンを押した。
低い機械音とともに、足元がわずかに揺れる。
「お、動いた」
継真は反射的に壁へ手をついた。
「……本当に大丈夫かな」
「もう動いてるんだから諦めなさい」
数字が静かに上がっていく。
九十五。
九十六。
九十七。
機械音が止まり、銀色の扉がゆっくりと開いた。
下の階とは、空気が違った。
人の姿はない。
奥から、機械の低い唸りだけが響いている。
「……誰もいないの?」
布武が声を落とす。
無双は答えず、廊下の奥を見る。
継真も目を凝らした。
「奥に、何かあるね」
三人は足音を抑えながら進んだ。
廊下の先。
開けた研究室に、いくつもの端末と、液体で満たされた槽が並んでいた。
その中央に、一人の女がいる。
紫の差し色が入った黒髪。
薬液で汚れた白衣の下には、黒を基調とした短い服装。
整った顔立ちに似合わず、その目だけが鋭い。
女が振り返った。
「……は?」
三人を見るなり、眉間に皺が寄る。
「なんでガキがここにいる」
無双が一歩前へ出た。
「法原はどこだ」
「質問してんのは、こっちだ」
女の目が細くなる。
「お前ら、誰だ」
「天下無双だ」
その名を聞いた瞬間、女の表情が変わった。
「……無双?」
無双を上から下まで見る。
「法原博士から聞いてる名だ」
その視線が、布武、継真へと移る。
数秒の沈黙。
「なるほどな」
女は白衣のポケットへ手を突っ込んだ。
「お前らが、レッドオーガか」
無双が眉を寄せる。
「だったらなんだ」
女は鼻で笑った。
「別に」
そして、無双たちを真っ直ぐ見据える。
「ただ、あたしの名前くらいは覚えとけ」
白衣の裾が、わずかに揺れた。
「灰谷玲那」
一拍置く。
「法原博士の一番弟子だよ」
(第三十話・終)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回掲載日は翌日の2026年09月07日 20時00分です。
続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




