第二十九話 誓い
「昨日ぶりやね~」
鴉羽真楼は、廊下に立って笑っていた。
袴姿。腰には刀。片手を軽く上げた姿は、まるで友人の家にでも遊びに来たようだった。
扉を開けた無双は、その場で鴉羽を見据えた。
左拳を握る。
「探す手間が省けたな」
目が鋭くなる。
「昨日の続きをやるか?」
次の瞬間、布武の拳骨が無双の頭に落ちた。
「痛っ」
「今この状況で挑発しないで」
布武はそのまま無双の左肩を掴んだ。
「下がって」
有無を言わせず、無双を扉口から一歩、室内へ引き戻す。
「おい」
「昨日の今日でしょう」
無双が言い返すより早く、フィエルナが二人の横を抜けた。
そのまま扉口に立つ。
廊下の鴉羽と、室内にいる無双たちの間を、自分の身体で塞ぐ位置だった。
布武はフィエルナの一歩後ろに残り、無双と継真を庇える位置を取る。
鴉羽はその一連の動きを眺めた。
「ははっ。威勢ええなぁ。腕一本やられた翌朝とは思えへんわ」
その視線が、フィエルナ越しに部屋の中をなぞる。
無双は布武の後ろ。
継真はベッドの上で息を整えている。
朱里は部屋の脇で、ハンカチを握ったまま固まっていた。
ここで戦闘は避けたい。
フィエルナは鴉羽から目を離さなかった。
宿の壁は薄い。
隣室には客がいる。
階下からは食器の触れ合う音。湯を沸かす音。朝食を待つ人々の声。
鴉羽が刀を抜けば、廊下は一瞬で戦場になる。
そして、フィエルナが本気で踏み込んでも同じだった。
「そんな構えんでええよ。君らに会いに来ただけやから」
「どういうこと?」
布武の声が、フィエルナの後ろから飛ぶ。
「まぁ、待ちな~。差し入れ持ってきたんや」
鴉羽の両手に白炎が灯った。
フィエルナの重心が、すっと沈む。
布武も無双と継真の前で構えた。
「何をする気?」
「だから、差し入れやって」
鴉羽は悪びれもせず、両手の白炎を膨らませる。
「待ってください」
継真の声が、それを止めた。
フィエルナが視線だけを向ける。
「継真くん?」
継真は鴉羽の両手を見ていた。
「攻撃用の気力の流れじゃないです」
「よう見とるなぁ」
鴉羽は両手を合わせた。
白炎が重なり、すっと消える。
「番内――【空蔵】」
次の瞬間。
鴉羽の目の前に、黒い裂け目のような空間が開いた。
部屋の空気がわずかに揺れる。
鴉羽はその中へ片手を入れ、小さな箱を取り出した。
裂け目は、すぐに閉じた。
「プリンは好き?」
誰も答えなかった。
階下から、宿の人間の声が聞こえた。
フィエルナは短く息を吐く。
「……中に入りなさい」
「ええの?」
「廊下で気術を使われる方が迷惑よ」
フィエルナは一歩だけ室内へ下がった。
鴉羽へ正面を向けたまま、進路を空ける。
だが、無双たちへ続く道は譲らない。
「入るなら、あたしの前から勝手に動かないで」
「お、入れてくれるんや。優しいなぁ」
「勘違いしないで」
フィエルナの声は冷たい。
「妙な動きをしたら、すぐに止めるわ」
「はいはい」
鴉羽が敷居を越える。
フィエルナも同じだけ後ろへ下がり、無双たちとの間に立ち続けた。
「お邪魔しまーす」
誰も返事をしなかった。
鴉羽は気にした様子もなく、部屋の中を見回す。
「へえ。ええ部屋やね」
「余計なことは言わなくていいわ」
「分かった分かった」
鴉羽は朱里へ視線を向け、箱を差し出した。
フィエルナの身体がわずかに強張る。
鴉羽はその場から動かず、腕だけを伸ばした。
「はい」
「え」
「プリン。あとでみんなで食べてな」
朱里は困惑したまま、近くの机へハンカチを置き、両手で箱を受け取った。
その一瞬。
鴉羽の視線が、机の上へ落ちる。
「……ありがとう」
朱里は言ってから、自分で固まった。
「あ、いや、だって渡されたから」
「お礼を言えるのはええことや」
朱里は箱を持ったまま、困ったようにフィエルナを見た。
フィエルナは一瞬だけ朱里を見る。
朱里の表情が変わった。
「……あ、私、ちょっと用事思い出した」
フィエルナは静かに頷く。
「お願い」
「うん」
朱里は箱を机へ置いた。
鴉羽から距離を取るように壁際を回り、扉へ向かう。
鴉羽は道を塞がなかった。
「止めないのね」
布武が低く言う。
「止めたら揉めるやろ」
鴉羽は肩をすくめた。
「今日は揉めに来たんちゃうし」
朱里が部屋を出ていく。
廊下を駆ける足音が、すぐに遠ざかった。
机の上には、場違いな菓子の箱と、小さなハンカチだけが残る。
「さっきの質問に答えて」
布武が言った。
「あなた、何をしに来たの」
鴉羽はハンカチへ視線を向けた。
「探し物や」
「探し物?」
継真が聞き返す。
「大事なもんを落としてなぁ」
フィエルナの目が細くなる。
「それを、あたしたちが持っていると?」
「今、見えたしなぁ」
鴉羽は軽く肩をすくめる。
「それ、俺のや」
布武の目がさらに鋭くなる。
「ここに来る前から、そう思っていたの?」
「まあね。旧水路に落としたんは分かっとった。でも、あそこはもうギルドが押さえとるやろ?」
「今はギルドと揉めたらあかんしなぁ」
「揉めたら、ですって?」
フィエルナの声が低くなる。
「そうそう。上で決まったんよ。しばらくギルドと君らには手ぇ出すなって」
「上?」
無双が聞く。
「学府会の上の連中やね。会長も来たし、俺も何かと忙しいんよ」
「昨日は好きに暴れて、今日は命令で大人しくするのね」
「せやね」
鴉羽はあっさり答えた。
「どうして、この宿が分かったの」
布武が問う。
鴉羽の口元がわずかに上がった。
「俺ら――幻成学府会の情報網、なめたらあかんで」
布武の目が細くなる。
「昨日、旧水路から二人運び出されたやろ?」
鴉羽は何でもないことのように続ける。
「ギルドが夜中にあれだけ人を動かしたら、誰がどこへ運ばれたかくらい辿れるわ」
「ずっと見張っていたってこと?」
フィエルナが問う。
「そこまでは言わんけどなぁ」
鴉羽は肩をすくめる。
「誰がどこへ動いたか。それくらい拾える目ぇは持っとるってことや」
ギルドは昨夜、法原たちを追うために大勢を動かした。
その動きそのものを、学府会側にも見られていた。
「で、話戻すけど」
鴉羽の視線がフィエルナへ向く。
「あの場で拾いそうなんは、俺と一番近くでやり合っとった君やと思ったんよ」
「それだけで、ここまで来たの?」
「大事なもんやからね」
鴉羽はハンカチを示した。
「それ、返してもらいに来たんよ」
フィエルナはハンカチを見る。
白地に薄い模様が入った、小さな布。
端には裂けた跡がある。
ただの布にしては、確かに丁寧に畳まれていた。
だが、相手は鴉羽だ。
昨日、朱里を斬ろうとした男。
フィエルナが手を伸ばすより早く、布武が言った。
「返す理由がないわ」
「あるで。俺のやから」
「ただで返すほど、こちらも甘くないわ」
「思ってへんよ」
「せやから、お願いしに来たんや」
その会話の途中で、無双が左手を伸ばした。
机の上のハンカチを取る。
「無双?」
布武が声を上げるより早く、無双はそれを鴉羽へ差し出した。
「ほら」
フィエルナが目を見開く。
継真も言葉を失った。
「バカ! 何を勝手なことしてるの!?」
無双は振り返る。
「昨日のことは忘れてねぇ」
それから、鴉羽を見る。
「でも、それとこれとは別だろ」
「相手は鴉羽よ!」
「分かってる」
無双はハンカチを差し出したまま言う。
「でも、大事なものなんだろ」
鴉羽は、少しだけ瞬きをした。
「……へえ」
いつもの表情に戻るまで、一拍あった。
「君、変わっとるなぁ」
無双は眉を寄せる。
「変か?」
「変やね」
鴉羽はハンカチを受け取った。
その指先が、ほんの少しだけ丁寧に布の端を撫でる。
「返してもらえるとは思ってへんかったわ」
ハンカチを懐へしまう。
「こっちは、それ返してもらう代わりに、法原の居場所でも教えたろ思って来たんやけどな」
布武の目つきが変わった。
「……法原の居場所?」
継真も顔を上げる。
「法原が、どこにいるか分かるんですか」
無双は鴉羽を見た。
「知ってるなら教えろ」
「ええよ。そういうつもりで来たし」
鴉羽は軽く指を立てる。
「ただし、別に君らを助けたいわけやないで」
声は軽い。
「そこは勘違いせんといてな」
無双たちを順に見る。
「法原に会いたいんやろ? なら行けばええ」
「道を教えるだけや」
そして続けた。
「その先で死ぬかどうかは、君らの問題やろ」
布武は黙って鴉羽を見ていた。
無双の左手が、わずかに握られる。
「場所は」
布武が言った。
「中央区の旧議場」
「旧議場?」
継真が聞き返す。
「昔のお偉いさんらが使っとった場所や。今は閉じとる」
「そこに、法原がいるのね」
「おるで。たぶんな」
布武の目が細くなる。
「たぶん?」
「俺が聞いとるんはそこまでや」
鴉羽は肩をすくめる。
「あとは行って確かめたらええやろ」
無双は鴉羽を見たまま黙っていた。
信じていい相手ではない。
それは分かっている。
だが、法原の情報は必要だった。
次の解除キーへ辿り着く道。
眠っている仲間。
その言葉が、無双の胸の奥に残っている。
「鴉羽」
「ん?」
「その話は本当だと、永遠に誓えるか?」
鴉羽の表情が、一瞬だけ止まった。
フィエルナも、布武も、継真も無双を見る。
鴉羽はゆっくり目を細める。
「……君、本当におもしろいねぇ」
「あー、分かった」
懐にしまったハンカチの上から、軽く胸元を叩く。
「今のは、少し混ぜた」
布武の視線が鋭くなる。
「やっぱり嘘だったのね」
「全部やないで」
「旧議場は本当や」
鴉羽の声が少しだけ低くなる。
「でも、法原がおる場所は、正面の議場やない」
継真が息を呑む。
「裏手の閉鎖区画。昔の議員控室が並んどる棟や」
「そこに法原がいるんですか」
「法原はそこから、会長のところへ出入りしとる」
鴉羽は即答した。
「そこまでは永遠様に誓える」
「その先は」
無双が聞く。
「知らん」
「君らが無事に会えるか。罠があるかないか。着いた時にまだ法原がおるか」
肩をすくめる。
「そこまでは誓わんよ」
「……十分だ」
無双は言った。
継真は静かに息を吐く。
「旧議場の、裏手の閉鎖区画……」
「法原が、そこに」
布武の表情が変わる。
フィエルナが鴉羽を見据えた。
「情報を話したからといって、このまま帰すと思う?」
「思ってへんよ」
「けど、君らここで暴れるわけにはいかないやろ」
布武の目が細くなる。
「だからといって、逃がすわけにはいかないわ」
「ええよ」
鴉羽はあっさり言った。
「やるなら、やればええ」
刀の柄には触れていない。
「俺からは手ぇ出さんように言われとる。ギルドと君らにはな」
鴉羽はフィエルナを見る。
「でも、君らが先に来るなら話は別やろ」
フィエルナは動かなかった。
壁の向こうには宿の客がいる。
階下では人の声がする。
朝食の匂いも、湯を沸かす音もあった。
ここで刃を交えれば、それらを巻き込む。
「……分かっていて言っているのね」
「もちろん」
「賢いなぁ、《ヴァルキリー》」
鴉羽が扉へ向かう。
その時、階下のざわめきが変わった。
宿の客の声ではない。
抑えた足音。
短い合図。
外の通りにも、人の気配が増えている。
朱里が間に合った。
フィエルナはすぐに悟る。
宿はもう、ギルドの者たちに囲まれていた。
鴉羽も気づいていた。
けれど、その足は止まらない。
「早かったなぁ」
「朱里ちゃん、ええ足しとるわ」
「外は押さえたわ」
フィエルナが言う。
「それでも出るつもり?」
「出るで」
「捕まえたいなら、やればええ」
鴉羽は扉の向こうへ目をやる。
「ただ、宿の中で始めるんはおすすめせんよ」
フィエルナは動かなかった。
「また会おな、《ヴァルキリー》」
廊下へ出る直前、鴉羽は無双を見た。
「君のことも覚えとくわ」
無双は黙って見返した。
鴉羽が床を蹴る。
一瞬だった。
廊下の灯りが揺れたように見えた時には、もう数歩先へいる。
「いたぞ!」
ギルド員の声が上がる。
鴉羽は振り返らない。
次の角へ身体を滑り込ませる。
追う足音が重なった。
「速い――!」
「追え!」
宿の外で、ロウガンの声が響く。
朱里の声も混じった。
「あっち! 匂い、まだ残ってる!」
フィエルナは、すぐに廊下へ身体を向けた。
鴉羽を追う。
だが、一歩踏み出す直前。
無双たちへ視線を戻す。
ほんの一瞬だけ、足が止まった。
「こっちは心配いらないわ」
布武が言った。
フィエルナの目が布武へ向く。
「私がいる」
「布武ちゃん……」
「無双も継真も、私が見てる。無茶はさせないわ」
無双が口を開きかける。
布武が横目で見る。
「させないから」
「……まだ何も言ってねぇだろ」
「言う顔してたわ」
フィエルナは、それでも二人を見た。
外から怒号が飛ぶ。
「速いぞ! 回り込め!」
相手は鴉羽だ。
昨日、真正面から刃を交えたフィエルナだからこそ、その危険さを知っている。
ロウガンたちだけに任せる方が危険だった。
「フィエルナ。鴉羽をお願い」
布武がまっすぐ見返す。
「私たちは法原のところへ行く。無双と継真のことは、私に任せて」
フィエルナは短く息を吐いた。
「……分かったわ」
扉へ向かう。
それでも、出る直前にもう一度だけ振り返った。
「本当に無茶させないでね」
「ええ。任せて」
フィエルナは無双を見る。
「無双くん」
「分かってる」
「まだ何も言ってないわ」
「無茶すんな、だろ」
フィエルナは一瞬だけ黙った。
「……分かってるならいいわ」
次に継真を見る。
「継真くんも」
「はい。無理はしません」
フィエルナは頷いた。
「必ず戻って」
布武は静かに微笑む。
「ええ。フィエルナもね」
「もちろん」
フィエルナは身を翻し、廊下へ飛び出した。
その足音はすぐに、鴉羽を追う者たちの音へ混ざっていった。
机の上には、プリンの箱だけが残っていた。
その場違いな箱だけが、さっきまで鴉羽がここにいたことを示している。
だが、無双たちはそちらを見なかった。
窓の外。
ベルガンドの中央区。
その奥に、旧議場がある。
法原がいる。
次の解除キーへ続く道がある。
「行くわよ」
布武が言った。
無双は左手を握り、頷く。
継真も、ゆっくりと立ち上がった。
敵から渡された道でも。
罠があるかもしれなくても。
それでも、進むしかなかった。
仲間を救うために。
(第二十九話・終)
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