第二十六話 三人なら
鴉羽の声は軽かった。
旧水路の冷えた空気の中で、その言葉だけが妙に浮いている。
フィエルナは答えない。
朱里の前に立ったまま、広げていた翼をゆっくりと背へ畳んだ。
白い羽根が重なり、やがて長い髪の奥へ収まっていく。
もう隠すためではない。
この距離で鴉羽と斬り結ぶなら、その方が動きやすい。
背に守られた朱里は、まだ息を呑んでいた。
首元を走った刃。
フィエルナが割って入らなければ、自分はもう立っていなかった。
そう理解しているからこそ、呼吸がうまく戻らない。
「朱里ちゃん」
フィエルナが、鴉羽から目を離さずに声をかけた。
「ロウガンたちに伝えて。旧水路の中に、法原の機械兵と鴉羽 真楼がいる」
朱里ははっと顔を上げる。
「でも、姉御……」
「旧水路へ入る前に、伝言は託してあるでしょう」
フィエルナの声は落ち着いていた。
「その話が届いているなら、ロウガンたちはもう動いているはずよ。今の情報を、追加で届けて」
朱里の唇が、わずかに震える。
ここに残りたい。
助けられた直後に背を向けるなんて、したくない。
けれど、今の自分がここにいることで、フィエルナの判断を鈍らせる可能性も分かっていた。
鴉羽は、次もためらわず自分を狙う。
朱里は拳を握りしめる。
「……分かった」
声は小さかった。
だが、逃げる声ではなかった。
「必ず伝える」
「お願い」
フィエルナが短く返す。
朱里が身を翻した、その瞬間だった。
「逃がすん?」
鴉羽が、不思議そうに首を傾げた。
軽い声。
けれど、袴の裾がわずかに揺れる。
フィエルナは半歩だけ踏み込み、朱里へ伸びる最短の線を塞いだ。
同時に、無双たちのいる側へも体を開きすぎない。
鴉羽の刀先だけでなく、肩の向きと足の置き方まで見ている。
ついさっきまで自分へ執着を見せていた男が、何のためらいもなく朱里へ刃を向けた。
この男は、目の前の相手だけを見て戦う者ではない。
「あんたの相手は、あたしでしょう」
「せやったなぁ」
鴉羽は笑った。
刀が、何の前触れもなく走る。
フィエルナは両手へ気力を集中させた。
鴉羽の刃を避けず、真正面から踏み込む。
硬く澄んだ音が、旧水路に響いた。
刀は、フィエルナの右手で止まっている。
素手で受けたようにしか見えない。
けれど、鴉羽の刃とぶつかっているのは、手の縁へ厚く集められた気力だった。
わずかでも薄ければ、指ごと断たれている。
フィエルナの足元で、石粉が小さく跳ねた。
鴉羽の一太刀は、それほどまでに重い。
「相変わらず、よう受けるなぁ」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
フィエルナは刀を外へ弾く。
同時に、左拳を鴉羽の頬へ走らせた。
鴉羽は首を傾けるだけで避ける。
拳が空を裂き、その風が髪先を揺らした。
「今の、惜しかったで」
「次は当てるわ」
「楽しみにしとく」
笑いながら、鴉羽はもう次の角度へ刀を返していた。
フィエルナは深く追わない。
朱里が離れるまで、鴉羽の動く先を塞ぎ続ける。
朱里は振り返らなかった。
振り返れば、足が止まる。
だから走る。
背後で刃と拳がぶつかる音を聞きながら、旧水路の出口へ向かって駆けていった。
その足音が遠ざかるまで、フィエルナは一度も位置を譲らなかった。
鴉羽が朱里を追う線も、無双たちへ割って入る線も、すべて自分の間合いに押し留める。
それでも、フィエルナは声だけを横へ送った。
「無双くんたち。法原の機械兵は任せるわ」
フィエルナは鴉羽から目を離さないまま続けた。
「前に戦っているんでしょう?」
無双は、赤い核を灯したセントリーへ目を向けた。
鴉羽がこちらへ飛んでこない保証はない。
さっきの朱里への一太刀で、それはもう分かっている。
けれど、フィエルナが真正面に立っている。
鴉羽の動く余地を削りながら、それでもこちらへ意識を残している。
なら今は、そちらを信じる。
無双はセントリーから目を逸らさなかった。
「ええ。一度はね」
布武が答える。
セントリーから視線を外さないまま、続けた。
「でも、以前とは形態が違うわ」
「そうなのか!?」
継真の顔が、あからさまに引きつる。
目の前にいる機械兵は、遠目で見ていた時よりさらに大きく感じた。
割れた胸部装甲の奥で脈打つ赤い核。
尖るようにせり上がった肩。
背に広がる刃状の放熱板。
どう見ても、気軽に向かっていける相手ではない。
「やれるかな……」
継真の声は小さかった。
無双はセントリーを見据えたまま、息を吐く。
以前の自分なら、ここで何を考えただろう。
きっと、まず自分が前に出ることだけを考えた。
自分が止める。
自分が届かせる。
そうやって、気づかないまま一人で抱え込もうとしたはずだ。
フィエルナは、さっき朱里を一瞬で狙った危険な相手を引き受けている。
布武は、その背中を預けられる位置に立っている。
継真は怖がっている。それでも、逃げずにここにいる。
――なぜ一人で戦う?
ヴァレンの声が、不意に胸の奥で蘇った。
無双は、隣に立つ布武を見る。
少し後ろで、それでもセントリーを見上げる継真を見る。
「なんとかなるだろ」
強がりではなかった。
届かないかもしれない。
押し切られるかもしれない。
それでも、一人でどうにかする必要はない。
「俺たち三人なら」
布武が、ほんのわずかに無双を横目で見た。
その口元が、少しだけ緩む。
「ええ。やるわよ」
「……ああ」
継真も息を整え、頷いた。
セントリーの視線が、三人を順に捉える。
「観測対象を再設定」
滑らかな機械音声が、旧水路に響いた。
「無双。布武。継真」
継真の表情が、わずかに強張る。
「……俺のことも、知っているんですね」
「記録済み」
ただそれだけ。
けれど、継真には十分だった。
自分が目覚めたことまで、法原側に把握されている。
いつから。
どうやって。
その疑問が、背筋を冷たく撫でた。
ヴァレンの研究所を出て、まだそう長い時間は経っていない。
それなのに、法原はもう知っている。
「三個体連携。観測優先度を上方修正」
「また観測か」
無双が低く言う。
「肯定」
セントリーの赤い核が、ゆっくりと明滅した。
「戦闘を再開する」
先に動いたのは、無双だった。
石床を蹴る。
踏み込みに気力を乗せ、一直線にセントリーの懐へ入った。
狙うのは胸部。
右拳が、赤い核の下へ伸びる。
セントリーの前腕が割り込み、その拳を正面から受け止めた。
鈍い衝撃音。
無双の腕が止まる。
拳を引くより早く腰を回し、無双は左脚を跳ね上げた。
脇腹を狙った蹴りが、セントリーの装甲へ叩き込まれる。
重い音が鳴る。
巨体が、ほんのわずかに横へずれた。
「布武!」
「ええ!」
その隙を、布武は見逃さない。
低く踏み込み、セントリーの軸足へ鋭い蹴りを入れる。
壊すためではない。
無双の蹴りで生まれたずれを、崩れへ変えるための一打。
だが、セントリーは即座に脚へ力を戻した。
「体勢干渉、軽微」
布武の蹴りを受けたまま、上半身だけが滑るように回る。
右腕が、無双へ向けて振り抜かれた。
「無双!」
布武が叫ぶより早く、無双は身を沈める。
拳が頭上を通過する。
空気が唸り、髪が荒く揺れた。
避けた。
だが、セントリーの攻撃はそこで終わらない。
振り抜いた勢いを殺さず、左脚が低く払われる。
無双の足元を刈り取る軌道。
「下!」
継真の声が飛ぶ。
無双は反射的に跳んだ。
セントリーの脚が石床を削り、飛び散った破片が脛をかすめる。
着地した無双はすぐに間合いを詰め直そうとするが、セントリーはもう布武へ向き直っていた。
速い。
目の前の相手だけでなく、三人の位置を同時に見ている。
「側面接近、処理」
セントリーの左腕が、布武へ薙ぎ払われる。
布武は避ける。
けれど、完全には間に合わない。
腕の軌道が、逃げる先まで読んでいた。
「布武!」
継真が動いた。
怖さは消えていない。
けれど、その瞬間に足は止まらなかった。
セントリーの肘下へ踏み込み、蹴りを叩き込む。
止められる力ではない。
それでも、ほんのわずかに軌道が外れる。
薙ぎ払う腕が、布武の髪をかすめて空を切った。
布武は身を沈めたまま、すぐに距離を外す。
「助かったわ」
「……間に合って、よかった」
継真の声はまだ少し硬い。
それでも、視線はすぐセントリーへ戻っている。
セントリーは、三人を改めて捉え直すように頭部をわずかに動かした。
「連携修正を確認」
その声に、無双の目が鋭くなる。
一度目で、ある程度見られた。
なら、同じ形では通らない。
無双は息を吸い、布武を見る。
布武は短く頷いた。
すでに、セントリーの反応速度は見えている。
初動へ合わせるだけでは足りない。
受ける瞬間、その次にどう返すかまで読む必要がある。
布武の視線は、セントリーの肩と足元を同時に追っていた。
言葉は要らなかった。
もう一度、無双が正面から踏み込む。
今度は胸を狙わない。
拳をまっすぐ伸ばすふりだけを見せて、途中で軌道を変えた。
セントリーの前腕が反応する。
受けに来る。
その瞬間、無双は拳を止め、身体を深く沈めた。
低い位置から、右脚を鋭く振り抜く。
狙いは、セントリーの踏み込み脚。
蹴りが装甲へ食い込み、巨体の軸がほんのわずかに横へずれた。
「今!」
布武が走る。
セントリーの死角へ入り、脇腹へ掌底を叩き込む。
無双の蹴りでずれた重心へ、さらに横から力を加える。
セントリーの上体が、わずかに傾いた。
だが、赤い核の光が鋭く脈打つ。
「姿勢補正――」
戻る。
その前に、継真が声を張った。
「無双、胸!」
無双はもう動いていた。
布武が作った傾き。
継真が拾った、わずかな空き。
その一点へ、拳を押し込む。
右拳が、胸部装甲へ叩き込まれた。
低い金属音が、水路の奥まで響く。
セントリーの上体が、確かに揺れた。
拳の奥に、硬い手応えが残る。
「通った……!」
継真の声に、布武がすぐ続く。
「まだよ!」
その言葉通りだった。
セントリーは倒れない。
胸元を打たれたまま、赤い核を静かに脈打たせる。
揺れた上体を、何事もなかったように戻した。
「三個体連携、予測値を上回る」
機械音声が落ちる。
「観測精度を更新」
赤い核の光が、ひときわ強く脈打った。
無双の背筋に、嫌なものが走る。
セントリーの構えが変わる。
先ほどまでのように、迎え撃つ形ではない。
三人ごと押し潰すための構えだった。
「対処優先度を変更。排除行動へ移行」
その声と同時に、セントリーの姿が消えた。
(第二十六話・終)
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