第二十五話 供物
旧水路の中央で、二つの影が真正面からぶつかった。
フィエルナの拳と、セントリーの前腕。
衝撃が空気を押し潰し、石床を低く震わせる。
胸部に露出した赤い核が、鈍く脈を打った。
Δ2へ移行したセントリーは、もう先ほどまでとは別物だった。
フィエルナは押し返さない。
拳が重なる瞬間に肩を引き、衝撃の芯から半歩だけずれる。
セントリーの力が外へ流れた隙に、滑り込むように懐へ入った。
左の拳が、機体の脇腹へ突き刺さる。
鈍い金属音が響いた。
だが、セントリーの巨体は沈まない。
先ほどまでのように、打撃だけで体勢が崩れることはなかった。
「防御補正。反撃」
機械音声と同時に、セントリーの左腕が落ちる。
短く、鋭い。
上から押し潰すような肘打ちだった。
フィエルナは両腕を交差させて受ける。
足元が滑った。
石床に細い削れ跡が残る。
「……重い」
無双が小さく漏らした。
ただ出力が上がっただけではない。
動きに迷いがない。
踏み込みから返しまでの繋ぎが、別物になっている。
それでも、フィエルナは崩れなかった。
滑りながら腰を落とし、踏みとどまる。
止まった時には、もう前へ出ていた。
セントリーが右拳を突き出す。
フィエルナは腕で受けず、体ごと軌道の外へ逃がす。
そのまま肩口を抜け、胸元へ掌底を叩き上げた。
赤い核のすぐ下で、重い音が鳴る。
セントリーの上体が、わずかに浮いた。
「……まだ、渡り合ってる」
継真の声は強張っていた。
けれど、その目は一度も戦場から逸れていない。
無双は息を詰めた。
セントリーは明らかに強くなっている。
目で追うだけでも、先ほどまでとの差が分かる。
それでもフィエルナは、正面から食らいついていた。
セントリーの脚部装甲がわずかに沈む。
次の瞬間、鋭く組み替わった脚が横薙ぎに振り抜かれた。
まともに受ければ、吹き飛ばされる。
そう分かる一撃だった。
フィエルナは後方へ跳ぶ。
蹴りは空を裂き、その余波だけで石床の縁が欠けた。
「……さっきまでとは、やっぱり違うわね」
着地したフィエルナが、静かに息を吐く。
額に、わずかに汗が浮いている。
構えは崩れていない。
けれど、受けた腕をほどくまでが、ほんの少しだけ長かった。
セントリーは低く構え直す。
「近接反応、良好。観測継続」
「それは、どうも」
フィエルナは拳を構えた。
次の衝突が起きる。
その寸前だった。
上方の管理路で、かすかな足音がした。
戦いの音に紛れて消えてしまいそうな、軽い一歩。
だが、フィエルナの視線が一瞬だけ動く。
続いて、場違いなほど気の抜けた声が落ちてきた。
「ほんまにおるやん」
無双たちも、反射的に声の方を見た。
中央区画を見下ろす管理路の縁に、一人の男が立っている。
二十代半ばほど。
黒い髪を無造作に流し、袴姿で、腰には一本の刀。
戦場に迷い込んだ通行人のような立ち方。
それなのに、フィエルナの表情は一瞬で変わった。
「……鴉羽 真楼」
声から、温度が消える。
その名前を聞いた無双の目も鋭くなった。
フィエルナが話していた男だ。
鴉羽は、心から嬉しそうに笑った。
「久しぶりやなぁ、《ヴァルキリー》」
「どうして、ここにいるの」
「たまたまや」
鴉羽は軽く肩をすくめる。
「会長待ちで暇やってん。ベルガンドでもぶらつこ思うてたら、ええ気配がしてなぁ」
視線は、フィエルナだけを捉えている。
「まさか、また会えるとは思わんかったわ」
セントリーは構えを解かないまま動きを止めていた。
赤い核の光だけが、低く明滅している。
フィエルナも、鴉羽へ意識を割きながら、セントリーから完全には目を切らない。
「前は、途中で終わったものね」
「そうそう」
鴉羽は愉快そうに頷いた。
「あれ、ずっと惜しい思ててん。もう一回、ちゃんとやりたいなぁって」
空気が張りつめる。
鴉羽はフィエルナから視線を外さないまま、セントリーへ声を投げた。
「なあ、法原」
わずかな間。
「《ヴァルキリー》は俺の獲物や。こっちにくれへん? ええやろ?」
セントリーの目の光が、一度だけ揺らいだ。
「要求送信。回答待機」
短い沈黙が落ちる。
誰も動かなかった。
鴉羽は笑っている。
けれど、その目だけは真剣にフィエルナを見ていた。
やがて、セントリーが淡々と告げる。
「法原博士より回答。要求、却下」
鴉羽の笑みが、ほんの少し薄くなる。
「戦闘介入を許可。観測継続」
「……しゃあないなぁ」
鴉羽は残念そうに息を吐いた。
だが、それ以上は食い下がらなかった。
不満はあっても、判断には従う。
セントリーは構えをわずかに下げる。
戦闘へ割り込まず、赤い核だけが鴉羽とフィエルナを追っていた。
その返答を聞いた瞬間、無双が管理路から身を躍らせた。
「……もう、見てるだけじゃ済まねぇ」
着地と同時に、セントリーを睨む。
「俺も入る」
布武も遅れず飛び降りた。
無双の横へ並び、視線をセントリーから外さない。
右側の点検路では、継真も身を出した。
朱里も続こうと、足を踏み出す。
「朱里さんは、まだ」
継真が、とっさに手を伸ばして制した。
朱里は動きを止めた。
悔しそうに唇を結ぶ。
それでも、継真の手を振り払うことはしなかった。
フィエルナは、視線だけで無双たちの動きを確かめた。
止める言葉はなかった。
鴉羽はそれを見て、楽しげに笑った。
「ほな、始めよか」
刀へ手がかかる。
次の瞬間、その姿が消えた。
「――朱里ちゃん!」
フィエルナの声が、旧水路を切り裂いた。
鴉羽が現れたのは、フィエルナの前ではない。
右側の点検路。
朱里の、すぐ目の前だった。
刀はすでに抜かれている。
横一文字の斬撃が、朱里の首元へ走った。
朱里の目が見開かれる。
継真が振り返る。
だが、間に合わない。
次の瞬間だった。
フィエルナの長い髪が、激しく跳ね上がった。
今まで隠れていた背中が、一瞬だけ露わになる。
衣の背に設けられていた細い切れ込みが開き、その奥から白い翼が一気に押し広がった。
無双の息が止まる。
空気を叩く音とともに、フィエルナの姿が掻き消えた。
鴉羽と朱里の間へ、白が割って入る。
広げた翼へ、気力が一気に集まった。
刃を受けたのは、その白い翼だった。
甲高い音が弾ける。
刀は止まった。
けれど、翼の表面を浅く裂き、白い羽根が数枚、赤を含んで散った。
「……っ」
フィエルナの息がわずかに詰まる。
それでも、朱里の前から一歩も退かない。
「姉御……!」
朱里の声が震えた。
フィエルナは振り返らない。
視線は、ただ鴉羽へ向いている。
「……あたしが狙いなんじゃなかったの?」
低い声だった。
怒りを、押し殺している。
鴉羽は、きょとんとした顔をした。
「狙いやで?」
「なら、どうして朱里ちゃんを狙ったの」
「え?」
本当に、意味が分からないという顔だった。
鴉羽は首を傾げる。
「俺、ここにおるやつ全員殺すつもりやったんやけど。順番なんか、どうでもええやろ」
あまりに自然な口調だった。
「なんで怒ってるん?」
その場の空気が、凍った。
無双は言葉を失う。
布武の目が、わずかに細くなる。
継真は朱里を庇うように半歩前へ出た。
怖さより先に、体が動いていた。
フィエルナの翼から、切れた羽根が一枚、床へ落ちる。
「……あんた」
フィエルナの声が震えた。
恐れではない。
怒りだった。
「ベルガンドで起きている事件も、幻成学府会の指示なの?」
「ん?」
鴉羽は一度、セントリーの方を見た。
それから、あっさり答える。
「ああ、あれか。学府会は関係あらへんやろ」
フィエルナの眉が動く。
「関係ない?」
「法原が勝手にやってるだけや。会長来るまで暇やから、データ集めでもしてんちゃう?」
あまりにも軽い言い方だった。
人が何人も消えている。
腕の立つ者ばかりが狙われ、帰らなかった。
そのすべてを、鴉羽はただの時間潰しのように扱っている。
「……暇潰しで、人を殺しているっていうの」
「法原は、そういう時間の使い方するやつやしなぁ」
鴉羽は悪びれもせずに言った。
「俺も似たようなもんや。呼ばれて来たけど、肝心の会長がまだ着かへん。せやから街でも見て回ろ思うてたら――」
視線が、楽しげにフィエルナへ戻る。
「こんな上等なん見つけた」
フィエルナの目が冷える。
「あんた、人の命を何だと思ってるの」
「何って」
鴉羽は、不思議そうに首を傾げた。
「供物やろ」
その一言だけが、何の迷いもなく落ちた。
「強い魂は、永遠様に捧げるもんや」
無双の眉が寄る。
布武は黙ったまま、鴉羽の言葉を聞いていた。
鴉羽はフィエルナを見て、少しだけ口元を緩める。
「せっかく誘ったのに、来えへんかったしなぁ」
「断ったでしょう」
「せやったな」
鴉羽は、気にも留めないように笑った。
「ほんなら、その魂は永遠様に差し上げた方がええ」
フィエルナの翼を前に、刀の切っ先がゆっくりと下がる。
「《ヴァルキリー》なら、ええ供物になるわ」
切れた羽根が、もう一枚だけ石床に落ちた。
(第二十五話・終)
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