第二十四話 ヴァルキリー
「あたしが囮になるわ」
フィエルナは、旧水路の暗がりを見据えたまま言い切った。
無双はすぐに返せなかった。
止めたい。
その気持ちは消えていない。
けれど、朱里が追った痕跡は、この先へ続いていた。
ここで何もせず引けば、次に誰かが狙われるのを待つことになる。
「……今、やるのか」
「ええ」
フィエルナは頷いた。
「痕跡が薄れたばかりなら、相手がまだ近くにいる可能性はある。時間を置けば、警戒されるかもしれない」
「相手がここへ戻ってくるとは限らないわ」
布武が言う。
「でも、誘い出すなら今が一番自然ね」
「自然?」
「私たちは痕跡を追って、ここまで来たばかりよ。フィエルナが一人で奥を調べても不自然じゃない」
フィエルナも頷く。
「あたしは護衛ギルドにも顔が利く。向こうがこの街の人間を調べてるなら、あたしが事件を追っていてもおかしくないと思うはずよ」
「それでも危ないだろ」
「もちろん」
フィエルナは迷わなかった。
「だから、無双くんたちには近くにいてもらう」
継真が口を開く。
「ロウガンさんには伝えておいた方がいいと思います。何かあった時、外で動ける人がいた方がいいです」
「そうね」
フィエルナは朱里を見る。
「朱里ちゃん。ロウガンへ今の場所と、これから囮作戦に入ることを伝えてきて」
「分かった」
「途中でギルドの人に会えたら、その人に託して。すぐ戻ってきてね」
「うん」
朱里は来た道を駆け戻った。
その背を見送ってから、無双はフィエルナを見る。
「……本当に一人で前に出るんだな」
「ええ」
継真がわずかに目を伏せた。
「……俺たちに、援護を任せてもいいんですか?」
フィエルナは三人を見た。
「本当なら、子どもをこんな場所へ連れてきたくないわ」
声はやわらかかった。
「でも、あなたたちには何かあるんでしょう?」
無双の目がわずかに動く。
布武は表情を変えなかった。
「聞かないわ。今ここで話させるつもりもない」
フィエルナは少しだけ笑った。
「でも、見た目だけで決めちゃいけないことくらいは、もう分かってる」
探る声ではなかった。
見たものを、そのまま受け入れているだけだった。
「だから、任せるの」
継真は静かに頷いた。
「……分かりました」
「あたしが危ないと思ったら、助けてね。それまでは、相手が何を見て、どう動くのか確かめたい」
無双は短く息を吐いた。
「……分かった。無茶はするなよ」
「しないわ」
フィエルナが笑う。
「無茶をするためじゃなくて、止めるために行くの」
ほどなくして、軽い足音が戻ってきた。
朱里だった。
「伝えたよ。途中でギルドの人に会えたから、ロウガンに伝言を頼んできた」
「ありがとう、朱里ちゃん」
フィエルナが頷く。
朱里は返事をしながらも、フィエルナを見る目には緊張が残っていた。
「フィエルナさん」
継真があらためて口を開く。
「相手が出てきた時、俺たちはどこまで待てばいいですか」
「その前に、一つ確認させて」
フィエルナは無双と布武を見る。
「法原が関わっているなら、前に会った相手と同じ可能性があるのよね」
「ああ」
布武が続ける。
「港で一度戦っているわ。金属の体を持った機械兵。法原を“博士”と呼んで、私たちを観測していた」
「観測……」
フィエルナの目が細くなる。
「生還者が聞いた言葉と同じね」
「あいつは普通じゃない」
無双が言った。
「大きいのに速い。攻撃も重い。布武と二人で戦っても押し切れなかった」
「でも、無双くんと布武ちゃんは一度観測されてるのよね?」
「そうね」
布武が答えた。
フィエルナは旧水路の奥を見る。
「なら、まだ観測していない強い相手が目の前に出れば、そっちへ興味を向ける可能性はある」
「フィエルナさんを?」
継真が聞く。
「《ヴァルキリー》の名前まで知ってるかは分からない。でも、腕の立つ人間を選んでいるなら、試す価値はあるわ」
無双は眉を寄せる。
「相手がセントリーなら、俺たちが隠れてても気づくかもしれないぞ」
「ええ」
布武も頷く。
「港でも、周囲の状況をかなり正確に拾っていた。完全に欺けるとは思わない方がいいわ」
「それでもやるのか」
「気づかれてもいいのよ」
フィエルナが答えた。
「あたしが一人で前に出る。無双くんたちは離れて控える。あたしが未観測の対象なら、先にこちらを見る可能性は残る」
絶対ではない。
けれど、試すだけの理由はある。
布武が頷いた。
「それで行きましょう」
「はい」
継真も同意した。
機械兵。
無双と布武が二人がかりでも押し切れなかった相手。
怖くないはずがない。
「ただし」
継真は一度息を整えた。
「フィエルナさんが危ないと思ったら、すぐ入ります」
「ええ。それでお願い」
◇
五人は旧水路の奥へ進んだ。
旧水路と呼ばれてはいるが、朽ちた地下遺構ではなかった。
百年戦争が終わり、ベルガンドが急速に膨らんだ頃に整備された都市設備。
街の拡張と流路の組み替えによって、一部だけが役目を失ったのだろう。
石組みはまだ硬く、中央には幅のある水路跡が伸びている。
両脇には管理用の足場。
天井は高く、枝道や点検路も多い。
人目はない。
戦うには十分な広さがあった。
「旧水路って聞いてたから、もっとボロボロなのかと思ってた」
無双が低く呟く。
「古いというより、役目を失った区画ね」
フィエルナが答えた。
継真は無双の少し後ろを歩いていた。
暗い水路の奥へ目を向けるたび、歩幅がわずかに無双へ寄る。
それでも、足は止めない。
布武は周囲へ視線を巡らせた。
「見通しはある。身を隠せる場所もあるわ」
「配置を確認します」
継真が言った。
声には硬さが残っている。
だが、考えることは止めていない。
フィエルナは通路の分岐を指した。
「あたしは中央を進む。調査に来たように見せるから、床や壁も確認するわ」
「無双と私は?」
「左の管理路。距離は取って。でも、あたしを見失わない場所で」
「分かった」
「継真くんと朱里ちゃんは右。朱里ちゃんは何か動いたら痕跡を拾えるか見て。継真くんは、どちらにも入れる位置をお願い」
「はい」
「うん」
朱里は頷いた。
「姉御」
「何?」
「……ちゃんと見てるから」
フィエルナが、ほんのわずかに笑う。
「ええ。お願い」
五人はそれぞれの位置へ散った。
無双と布武は左の管理路へ。
継真と朱里は反対側の点検路へ入る。
継真は壁際に身を寄せながらも、何度か無双のいる方角を確認していた。
朱里は石壁の影で、鼻先をわずかに動かす。
「……匂い、きつい」
湿った石。
淀んだ水。
鉄。
古い泥。
「鼻を変えた方が、分かりますか?」
継真が小声で聞く。
「ううん。今やると、匂いが強すぎて逆に分かんなくなる」
朱里は奥を見た。
「獣化はしない」
中央に残ったフィエルナだけが、何も隠さず歩き出した。
足音が水路に響く。
一歩。
もう一歩。
無双は呼吸を浅くした。
フィエルナは時折、石床の擦れ跡へ視線を落とす。
壁際の傷を指先でなぞり、何かを確かめるように足を止める。
本当に調査しているように見えた。
いや、それも嘘ではない。
囮であると同時に、目の前の異変を見逃すつもりもないのだ。
「……落ち着いてるな」
無双が小さく呟く。
「そう見えるようにしているのよ」
布武が答えた。
「でも、気は抜いてない」
何も起きない。
遠くから、微かな水音だけが返ってくる。
時間だけが伸びる。
フィエルナが広い中央区画へ差しかかった、その時だった。
朱里の肩が、ぴくりと動いた。
「……来る」
小さな声だった。
次の瞬間。
暗がりの向こうで、硬い音が鳴った。
ひとつ。
間を置かず、もうひとつ。
足音。
だが、人のものではない。
重く、正確で、迷いがない。
旧水路の奥から、巨体が姿を現した。
無双の喉が、わずかに鳴る。
見覚えがある。
港で、自分と布武を追い詰めた機械兵。
セントリー。
反対側で、継真が息を呑んだ。
「……あれが」
無意識に半歩だけ身を引く。
それでも、目は逸らさなかった。
フィエルナは巨体を正面から見据える。
「……これが、聞いていた機械兵」
セントリーは暗がりから滑るように進み、中央で停止した。
「周辺反応、複数確認」
滑らかな機械音声が響く。
無双の背筋が強張った。
やはり、気づかれている。
「既観測個体、二。未観測高戦闘適性反応、一」
フィエルナの目がわずかに細くなる。
「観測優先対象を選定」
セントリーの視線が、フィエルナへ定まった。
「個体識別。フィエルナ・バンブフィールド。ギルド通称 《ヴァルキリー》」
「……あたしのことまで知ってるのね」
「高戦闘適性対象。未観測。観測条件に合致」
一拍。
「観測を開始する」
無双は奥歯を噛んだ。
フィエルナの読みが当たった。
「ベルガンドで人を消していたのは、あなた?」
「回答権限なし」
「そう」
フィエルナは両手をゆるく開いた。
「なら、止めてから聞くわ」
セントリーの姿が跳ねた。
巨体とは思えない踏み込みだった。
石床を蹴る音より早く、右腕がフィエルナへ突き出される。
無双は思わず身を乗り出しかけた。
だが、フィエルナは半歩だけずれた。
拳が顔を捉える直前、左手がセントリーの手首に触れる。
止めない。
軌道だけを外す。
鋭い風が頬の横を抜けた。
同時に、右拳が胴へ入る。
鈍い衝撃音。
セントリーの巨体が、一歩だけ沈んだ。
「……押した」
無双が声を漏らす。
あのセントリーを、真正面から。
「反応速度、推定値を上方修正」
セントリーはすぐに姿勢を戻し、横薙ぎの蹴りを放つ。
フィエルナは身を沈める。
脚が頭上を通り過ぎるより早く、懐へ入った。
掌底。
胸部装甲が低く鳴る。
巨体の上体がわずかに浮いた。
「ただ力で押してるわけじゃない」
布武が低く言う。
「崩れる場所を選んで打ってる」
セントリーが再び踏み込む。
拳が三度。
一撃目は顔。
二撃目は腹。
三撃目は逃げ道を潰すように肩口へ。
フィエルナは一撃目を外し、二撃目を掌で逸らした。
三撃目が届くより早く、距離を詰める。
セントリーの腕が空を切った。
その胸部へ、フィエルナの拳が斜めに深く沈む。
装甲の内側まで響くような重い音。
巨体が、背後の支柱を外す方向へ流れた。
「……すげぇ」
無双が素直に呟く。
港では、あの機体に触れることさえ簡単ではなかった。
だがフィエルナは正面から捌き、押し返している。
ただ強いだけではない。
相手の動きも、距離も、周囲も見えている。
「《ヴァルキリー》」
布武が小さく言った。
その異名が、目の前の光景にようやく重なった。
セントリーが動きを止める。
「現行出力による観測情報、不足」
機械的な声が響いた。
「Δ2移行を申請」
無双の背筋が強張る。
法原へ。
その申請が送られたのだと、すぐに分かった。
短い沈黙。
セントリーの赤い核が、静かに明滅する。
「許可受領。Δ2へ移行」
フィエルナの目が細くなる。
「気術系統、保留。近接反応の観測を継続」
「それは助かるわ」
フィエルナは構えを整えた。
「できるだけ、この場所は壊したくないもの」
セントリーの内部で、低い駆動音が唸った。
胸部装甲が左右に割れる。
奥から、赤い核のような光が露出した。
その光が一度、大きく脈打つ。
肩装甲がせり上がる。
前腕の外装が、拳を包み込むように厚く組み変わる。
脚部の装甲が分割され、踏み込みに特化した鋭い形状へ再配置される。
背中から、刃のような放熱板が展開した。
冷えた旧水路の空気に、熱を帯びた気配が混ざる。
顔面の装甲が引き締まり、目の光が一段鋭くなった。
無双は歯を食いしばる。
「形が、変わった……」
継真も言葉を失っていた。
布武だけが、静かにセントリーを見据えている。
「さっきまでとは別物ね」
セントリーΔ2が低く構えた。
次の瞬間、床が鳴った。
速さが違う。
フィエルナの目前に拳が迫る。
フィエルナは両腕へ気力を集中させ、真正面から受けた。
衝撃が旧水路を打つ。
彼女の体が初めて大きく後ろへ滑った。
足裏が石床を削り、長く音を引く。
「姉御!」
朱里の声が跳ねる。
だが、フィエルナは倒れなかった。
腕をほどき、すぐに姿勢を戻す。
視線は一度もセントリーから外れていない。
「……なるほど」
フィエルナは静かに息を吐いた。
「これがΔ2なのね」
セントリーが再び踏み込む。
速さの差を完全に見切ったわけではない。
それでもフィエルナは、一拍も遅れず前へ出た。
旧水路の中央で、二つの影が真正面からぶつかった。
(第二十四話・終)
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