第二十三話 消えた痕跡
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それ以上、フィエルナは法原を追う理由について話そうとはしなかった。
ただ。
「法原に繋がるかは分からないけど、気になってることがあるの」
フィエルナが言った。
「最近、護衛ギルドで妙な案件が続いてる。話を聞いてほしい人がいるわ」
「ロウガンのところ?」
朱里が聞く。
「そう」
「絶対、しかめっ面されるよ」
「いつものことでしょ」
フィエルナは軽く笑い、歩き出した。
◇
ベルガンドの夜は、昼の続きをそのまま引きずっているようだった。
大通りには魔灯の看板が連なり、服飾店の窓には鮮やかな布が幾重にも飾られている。
菓子屋の前では子どもが親の袖を引き、少し先では劇場帰りらしい人々が笑いながら馬車を待っていた。
商人が護衛を連れて通り過ぎる。
武具店の軒先では、賞金稼ぎらしい男が新しい短剣を手に取っている。
獣の顔を持つ者。
背に翼を畳んだ者。
長い耳を揺らしながら歩く者。
その一方で、見た目だけでは何の種族なのか分からない者も多い。
誰もそんな違いを気に留めず、同じ灯りの下を行き交っていた。
ベルガンドは、夜になっても勢いを失わない都市だった。
「……妙なことが続いてるようには見えねぇな」
無双が周囲を見ながら言った。
「そう見えるでしょ」
フィエルナは前を向いたまま答える。
「だから厄介なのよ」
やがて、大きな石造りの建物が見えてきた。
正面には、剣と盾を組み合わせた紋章。
広い出入口には依頼を見に来た者たちが集まり、受付の奥では職員が忙しなく書類を捌いている。
護衛ギルドだった。
フィエルナが入ると、何人かがすぐに気づいた。
「フィエルナさん」
「ヴァルキリーだ」
小さな声があちこちで上がる。
フィエルナは慣れた様子で軽く手を上げ、そのまま奥へ進んだ。
「有名なんだな」
無双が言う。
「そこそこね」
「そこそこじゃないよ」
朱里がすぐに返す。
「姉御はかなり有名」
「朱里ちゃんは持ち上げすぎ」
「事実しか言ってないし」
そんなやり取りをしながら、フィエルナは一般の受付を抜け、奥の扉の前で足を止めた。
軽く叩く。
「あたしよ」
「入れ」
低い声が返った。
扉の先は、外の賑わいとは違う空気だった。
壁には地図。
棚には古い帳簿。
机には報告書と、色の違う札がいくつも積まれている。
部屋の主は、灰色の髪を後ろへ撫でつけた年配の男だった。
片目の下に、古い傷がある。
大柄ではない。
だが、何十年も人を見てきたような目をしていた。
男はフィエルナを見て、それから後ろの三人へ視線を移す。
「フィエルナ。子どもを連れてくる話じゃねぇぞ」
「見た目だけで決めない方がいいわよ」
「どういう意味だ」
「そのままの意味」
男は小さく息を吐いた。
「……相変わらずだな」
「紹介するわ。ロウガン。護衛ギルドの古株よ」
「古株って言い方はやめろ」
「じゃあ、偉い人?」
「もっとやめろ」
朱里が小さく笑う。
「ロウガン、久しぶり」
「朱里か。相変わらず動き回ってるな」
「褒めてる?」
「褒めてねぇ」
「じゃあ聞かなかったことにする」
「都合のいい耳だ」
ロウガンはそう返してから、フィエルナへ視線を戻した。
「それで、今日は何だ」
「この子たち、法原の手掛かりを追ってベルガンドまで来たの」
その一言で、ロウガンの顔が変わった。
空気から余計なものが消える。
「……法原を?」
布武は何も足さず、静かに頷いた。
ロウガンはしばらく三人を見たあと、机の上に積まれていた黒い札を手に取った。
「なら、知らんふりはできねぇな」
無双がその札を見る。
「それは?」
「黒札だ」
ロウガンは短く答えた。
「公には出せねぇ案件をまとめてる。遺体が見つからねぇ。身元の確認が済んでねぇ。原因が掴めねぇ。そういう類のものだ」
継真が札の数を見て、わずかに表情を硬くした。
「かなりありますね」
「ああ」
ロウガンは数枚を机へ並べる。
「名は出さん。まだ身内に伝わりきってねぇ者もいる。ここで軽々しく扱う話じゃねぇ」
「分かりました」
継真は静かに頷いた。
ロウガンは札の一枚を指で押さえる。
「姿を消してるのは、ただの通行人じゃねぇ。名の知れた護衛。商会の私兵長。元兵士。賞金稼ぎ。荒事に慣れた連中ばかりだ」
無双の目が細くなる。
「簡単に消えるような人たちじゃないな」
「そういうことだ」
ロウガンは続ける。
「こいつは十年護衛をやって、依頼主を一度も死なせてねぇ。こっちは商会の私兵長で、何十人も部下を束ねてた。こっちは戦場帰りだ」
黒札を一枚、指で弾く。
「少なくとも、夜道で誰かに絡まれて、そのまま消えるような連中じゃねぇ」
「なのに消えてる」
フィエルナが言った。
「ああ」
ロウガンの声が低くなる。
「しかも妙なのは、現場が静かすぎることだ」
「静か?」
無双が聞く。
「場数を踏んだ奴が襲われたなら、普通はもっと跡が残る。壁が削れる。床が割れる。武器を抜いた形跡がある」
ロウガンは黒札を見下ろした。
「だが、今回の現場には、それが少なすぎる」
布武が言う。
「抵抗する間もなかった?」
「そう見えるものが多い」
ロウガンは一枚の札を持ち上げた。
「一歩踏み込んだ跡だけが残ってた現場もある。剣に手をかけた痕はあるのに、抜かれた形跡がなかった場所もな」
部屋が静まった。
無双は何も言わなかった。
腕の立つ者が、戦う形にすら入れず消えている。
ただ殺されたという話より、ずっと嫌な感じがした。
「街の人たちは、このことを知ってるの?」
布武が聞く。
「個別の噂なら耳に入ってる奴もいるだろうな」
ロウガンは黒札を机へ戻した。
「商会の私兵長が襲われたらしい。護衛が血だけ残して消えたらしい。賞金稼ぎが戻ってこねぇらしい。そういう断片ならな」
「でも、一連の事件だとは思われてない」
「思わせてもいねぇ」
ロウガンは即答した。
「遺体がなけりゃ、外に向けて断言はできん。失踪として扱われたまま止まる件もある」
継真が静かに言った。
「血の量によっては、無事に立ち去ったとは考えにくい場合もありますよね」
「ああ。だが、確証がないうちは押し切れねぇ」
ロウガンは一拍置いた。
「ただな」
黒札の中から、一枚を抜き出す。
「今回の件で、一人だけ戻ってきた奴がいる」
「生きて?」
無双が聞く。
「ああ。名の通った護衛だ。生きてはいたが、もう以前のようには動けねぇ」
部屋の空気が重くなる。
「何か話せたの?」
布武が聞く。
「顔は見ていない。相手が何者かも分からねぇ」
ロウガンは低く答える。
「だが、倒れている間に、相手の言葉をいくつか聞いたらしい」
一度、言葉を切った。
「――“観測”」
そして。
「“法原博士”」
誰も、すぐには声を出さなかった。
無双の目が鋭くなる。
「法原って名前が出たなら、見過ごせねぇな」
「ああ」
ロウガンは重く頷く。
「少なくとも、調べる価値はある」
フィエルナが腕を組んだ。
「それで、学府会との繋がりも疑ってるの」
ロウガンは頷く。
「幻成学府会の名を知ってる奴はいる。だが、知ってるからって中身まで分かってるわけじゃねぇ」
机の上を指で軽く叩く。
「昔から、まともな噂を聞かねぇ連中だ。古株ほど、その名前が出ると口を閉ざす」
「今回の件に関わってるなんて話が証拠もないまま広がれば、それだけで街が荒れる」
無双が小さく頷いた。
「名前だけが大きく残ってるってことか」
「そういうことだ」
ロウガンが答えた。
その時だった。
扉を叩く音が、短く二度鳴った。
「ロウガンさん!」
返事を待たず、若いギルド員が飛び込んでくる。
息が上がっていた。
「また出ました」
ロウガンが立ち上がる。
「誰だ」
「ハーヴェイ商会の私兵長です。北の搬入口近くで、血と外套、それから剣帯が見つかりました」
フィエルナの表情から笑みが消えた。
「本人は?」
ギルド員は首を横に振る。
「見つかっていません」
ロウガンが低く呟く。
「……また、この消え方か」
無双が聞き返す。
「昔は、そういうものだったのか?」
ロウガンは無双を見る。
「ああ。俺たちの世代には、珍しいことじゃなかった」
無双は黙る。
「永遠がいた頃は、人が死ぬと身体は白い光になって消えた。だが、十二年前に永遠が消えてからは、遺体が残るようになった」
ロウガンの声が重く沈む。
「だから今さら、また遺体が残らねぇ。それだけで、昔を知ってる連中の中には、永遠が帰ってきたと怖がる奴もいる」
無双の脳裏に、法原の言葉が蘇る。
――永遠は、消滅していない。
誰も、その続きを口にはしなかった。
その沈黙の中で、朱里がふと顔を上げた。
「その人が誰か、確かなんだよね?」
ギルド員が朱里を見る。
「え?」
「外套と剣帯で、本人だって分かる?」
ロウガンが答えた。
「ほぼ間違いない。商会の紋と、本人しか使わねぇ癖のある留め具がある」
朱里の目が細くなる。
「なら、追えるかも」
部屋の視線が一斉に朱里へ向いた。
朱里はロウガンを見る。
「その持ち物、借りていい?」
「もちろんだ」
ロウガンはギルド員に目配せした。
間もなく、血の付いた外套と剣帯が布に包まれて運ばれてくる。
朱里はそれを机の上へ丁寧に置いた。
それまでの軽さが、すっと引いていく。
「人探しは得意なの」
朱里は短く言った。
「匂いと気力を追える。被害者と接触してるなら、その残りが相手に移ってるはず」
無双が見る。
「犯人まで?」
「今なら、たぶん」
朱里は静かに息を吐く。
鼻先が、すっと獣のものへ変わった。
そのまま両手を構える。
白炎が灯る。
指先に沿うように、細く揺れる白炎だった。
目を閉じる。
合掌。
白炎がすっと消えた。
「番外――【跡噛み】」
空気が変わる。
朱里の呼吸が静かになった。
音も。
匂いも。
そこに残る気力さえ。
ひとつずつ拾い上げていくようだった。
朱里は血の残る外套へ顔を寄せ、ゆっくりと息を吸った。
「……残ってる」
「追えるのか?」
無双が聞く。
「うん。匂いも、気力も」
朱里は顔を上げた。
「時間が経つほど薄くなる。急いで」
「行け」
ロウガンが低く言った。
「あとは俺が商会と警備隊に話を回す」
朱里は頷くより早く走り出していた。
「こっち!」
フィエルナがすぐに続く。
無双、布武、継真も駆け出した。
◇
ギルドを飛び出す。
ベルガンドの大通りは、先ほどと変わらず明るかった。
買い物袋を提げた親子。
笑いながら店を出る若者。
路上の楽師に足を止める旅人。
その間を、朱里は迷いなく抜けていく。
「分かるの?」
フィエルナが走りながら聞く。
「まだ追える!」
朱里は鋭く答えた。
「被害者の匂いと気力が、相手に付いたまま遠ざかってる」
「追ってるのは、相手そのものじゃないのね」
布武が言う。
「うん。被害者の残り。だから、消える前に追う」
朱里は通りを曲がり、商会の建物が並ぶ区画へ入った。
大きな窓のある店は減り、代わりに荷の出入りを想定した広い搬入口が増える。
積み上げられた木箱。
夜間搬送を終えた荷車。
遠くに残る街の明かり。
朱里は速度を落とさない。
「右!」
急に角を曲がる。
無双たちは寸前でついていく。
「まだ近いのか?」
無双が聞く。
「近い。でも薄い」
朱里の声は短い。
「匂いより、気力の方が先に消えそう」
「どれくらい持つ?」
継真が聞く。
「分からない。だから急いで!」
朱里はさらに走る。
商会区を抜け、古い搬送路へ入った。
大通りの明かりは背後へ遠ざかり、石壁の間に冷たい空気が溜まっている。
ここにも、都市の音はかすかに届いていた。
それが、かえって不気味だった。
誰も知らない場所ではない。
けれど、足を止めて覗き込む者もいない。
明るいベルガンドのすぐ隣で、誰かが消えている。
朱里の足が、わずかに鈍る。
「……変」
「何が?」
フィエルナが聞く。
「相手に移ってる量が少ない」
「接触した時間が短いってこと?」
布武が聞いた。
朱里が頷く。
「たぶん。ほとんど抵抗する時間がなかったのかも」
無双の表情が険しくなる。
「ロウガンが言ってたのと同じか」
「うん」
朱里は前だけを見たまま答える。
「抵抗する前に、ほとんど終わってる」
無双は何も言わなかった。
胸の奥で、嫌な形が少しずつ立ち上がっていく。
朱里が急に足を止めた。
目の前には、古い水路へ続く通路があった。
使われなくなった搬送路の一部なのか、鉄柵は錆び、石壁には苔が残っている。
通路はさらに奥で枝分かれし、暗がりへ沈んでいた。
「……だめ。もう薄い」
「追えないのか?」
無双が聞く。
「うん。まだ先に続いてる気はする。でも、ここからは自信ない」
「時間切れね」
布武が言った。
「ごめん」
「謝らなくていいわ」
フィエルナがすぐに返す。
「ここまで分かっただけで十分よ」
朱里は悔しそうに唇を噛んだまま、頷いた。
フィエルナは旧水路の入口を見る。
「この先は、昔の搬送路と水路が繋がっている区画よ。今はほとんど使われてない」
「人目が少ない」
継真が言う。
「ええ。逃げ道も多い」
フィエルナは静かに答えた。
「何かを起こすには、都合がいい場所ね」
無双が暗がりを覗き込む。
「このまま入って探すか?」
「痕跡なしで?」
布武が首を横に振った。
「枝分かれも多い。向こうの場所も分からないまま入れば、こっちが探し回るだけになるわ」
継真も暗がりを見る。
「相手がまだ中にいるとも限らないし、待ち伏せされる可能性もあるね」
フィエルナが頷いた。
「ええ。今ここへ入っても、相手の土俵で闇雲に探すことになるだけ」
無双は拳を緩めた。
「じゃあ、どうする?」
「その前に」
布武が言った。
「狙う相手を選んでる可能性があるわ」
「消えてるのは、荒事に慣れた人ばかりだからか」
無双が聞く。
「ええ。でも、まだ断定はできない」
布武は落ち着いた声で返した。
「今回の件と法原が繋がってる可能性が高いってところまでね」
しばらく旧水路を見つめたあと、フィエルナが口を開く。
「なら、次はこっちから引き出す」
布武が視線を向ける。
「何をするつもり?」
フィエルナは、旧水路の暗がりを見たまま答えた。
「消えてるのは、荒事に慣れた人ばかりだった」
一度、短く息を吐く。
「あたしも、条件には入る」
無双の表情が変わる。
「まさか」
フィエルナは振り返った。
その目に迷いはなかった。
「あたしが囮になるわ」
(第二十三話・終)




