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レッドオーガ  作者: うみぐま


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第十八話 次の地図

ヴァレンの研究所、その最奥にあるオフィスは、地下にあるとは思えないほど静かだった。


 広い。


 ただ広いだけではない。机の上にも棚の中にも、余計なものが一つもない。資料は端まで揃い、器具は角度まで決められているみたいに並んでいた。誰かが使っている形跡はあるのに、生活の匂いだけが薄い。


 一人で使うには、広すぎる部屋だった。


 その整いきった空間の真ん中に、継真つぐまがちんまりと座っている。


 椅子に深く腰を下ろしているのに、少しも落ち着いて見えない。背もたれに身を預けきれず、視線だけが部屋の端から端へとさまよっていた。


 無双はそれを見て、眉を寄せた。


「……検査、行かなくてよかったのか?」


 継真の肩がぴくりと跳ねる。


「え、いや、その……最低限は見てもらったし」

「最低限で済ませたのは君の希望だ」

 端末を操作しながら、ヴァレンが横から言った。

「急変の兆候はない。だから後回しにしただけだ」


 継真は数拍遅れて、気まずそうに目を逸らした。


「……こんな知らない場所で、一人にされる方が嫌だったんだよ」


 小さな本音だった。


 無双は一瞬きょとんとして、それから呆れたように息を吐く。


「そっちかよ」

「仕方ないだろ。起きたばっかりなんだから」

「それは、まあ……そうだけど」


 言いかけて、無双は少し口ごもった。


 自分は、目覚めた直後は気術以前に、身体が自分のものじゃないみたいに動かなかった。立つだけで骨が軋む気がしたし、歩くたびに地面の遠さが腹立たしかった。


「俺なんか、最初は立つことと歩くことで精一杯だったぞ」

「そこまで?」

「気術どころじゃなかった。拳握るだけで変な感じしたし、まともに息するのも辛かった」

「うわ……」

「うわ、で済ますな」


 継真は少しだけ笑いそうになって、それから自分の首元へ指を当てた。脈を測る位置だ。そこから手首へ移り、次には肘の内側へ触れる。


 確かめているのは脈だけじゃない。


 気の流れだ。


 無意識に手が動いているように見えた。起きたばかりなのに、身体より先に癖が働いている。


 継真は目を閉じたまま、しばらく黙る。


 やがて息を吐いて、目を開けた。


「……まだ本調子じゃないのは確か。でも、気術は使える。身体そのものにも大きな異常はないと思う」

「思う、って」

「起きたばっかりで断言するの、普通に怖いんだよ」


 へたれた言い方のまま、継真は自分の腕を見下ろした。


「強いて言えば、身体が小さくなってる分、距離感がちょっと変かな。リーチも違うし、重心も軽い。そこは慣れが必要そう」

「……それを今すぐ言えるのは、すごいと思うけどな」

「見るのは慣れてるから。たぶん、考える前に手が確認しただけだよ」


 継真の言葉は控えめだったが、そこにはもう、回復役として生きてきた人間の手つきがあった。


 無双は少しだけ肩の力を抜いた。


「さっきは助かった」

「え」

「治療。だいぶ楽になった」

「あ、ああ……全部は治せてないけど」

「わかってる。でも、ありがとう」


 継真は一瞬だけ目を丸くして、それから少し照れたように視線を落とした。


「それなら……よかった」


 ヴァレンが端末から顔を上げる。


「研究所に残っていた記録を見た。眠っていた者たちの基礎値はどれも高い。今の基準で見ても異常だ」

「異常って言い方やめろよ」

「褒めている」


 ヴァレンは本当に褒めている顔で続けた。


「耐久、反応、気力の総量。どれも高すぎる。むしろ」


 そこで、無双と布武の方を見る。


「無双と布武が普通すぎて、少しつまらなかった」


 空気が止まった。


 無双はわかりやすく落ち込んでいる。


「比較対象が悪いのよ」

 布武が静かに言う。

 だが、その声もほんの少しだけ沈んでいる。


 無双だけじゃない。布武だって、こういう天才基準で雑に切られて平気な方ではないらしい。


 継真が慌てて口を開いた。


「いや、普通って別に悪い意味じゃ――」

「そこで止まるな。余計きつい」

「違うんだって。えっと、その……伸びしろがある、とか」

「今言われると一番しんどいやつだろ」


 気まずさが広がる。


 その空気の真ん中で、無双は少しだけ視線を逸らした。


「……俺だって頑張ってんだ」


 ぼそりと零れたその一言が妙に本気だったせいで、継真が吹き出しそうになり、布武も小さく肩を揺らした。


 ヴァレンだけが何が可笑しいのかわからない顔で、端末を閉じる。


「終わったか」

「お前が始めたんだろ」

「雑談は切り上げろ。話を戻す」


 そう言って、ヴァレンは机の上に地図端末を展開した。


「布武。法原ほうげんの行き先は」


 布武の答えは短かった。


「……ベルガンド」


 その町の名に、無双は反射的に顔を上げた。


「ベルガンド?」

「知ってるのか」

 ヴァレンが聞く。

「いや、知ってるっていうか……記憶にある」


 無双は地図を見ながら、少しだけ眉を寄せた。


「俺の記憶にあるベルガンドは、畑と荷車が目立つ、静かな町だった」

「それは十二年前の話だ」

 ヴァレンの指先が、地図上の一点をなぞる。

「街道の接続が変わり、物流が集まった。人が増え、商いが増え、膨れた。今は中継地だ」

「中継地……」

「表向きはな」


 無双は地図を見つめたまま、わずかに眉をひそめた。


 自分の記憶と、今そこにある町が、うまく重ならない。


 町の姿まで変わるほど、自分たちは長く眠っていたのだと、名前一つで思い知らされる。


 継真もまた、同じような顔をしていた。


 知らない場所。知らない時間。知らない世界。


 そこに灯影とうえいがまだ眠ったまま置かれていることが、今さらみたいに胸へ落ちてきたのだろう。さっきまで落ち着かずに動いていた視線が、ゆっくり止まる。


 布武が続けた。


「追跡そのものは失敗したわ。でも、あいつが向かう先の見当はついた。法原が必要とするものを考えれば、ベルガンドが一番自然だった」

「必要とするもの?」

「人。物。流れ。それと、隠れ場所。人と物と金が集まる場所は、裏の流通にも都合がいい。闇の取引も紛れやすいし、学府会の手が入り込むには十分よ」


 布武の考えに無双は納得する。


 法原は閉じた場所より、紛れられる場所を選ぶ。


 布武の焦りは消えていない。けれど今は、焦りをそのままぶつけず、先に必要なことだけを切り出している。その静かさが、かえって急ぎを感じさせた。


 ヴァレンが頷く。


「次の目的地はベルガンドでいい。だが、今日すぐ出ることはしない」


 その言い方で、話の芯が次へ移る。


 継真の指先が、膝の上でわずかに強く組まれた。


「……鍵、ですよね」


 誰もすぐには答えなかった。


 それで十分だった。


 灯影とうえい雲龍うんりゅうは、まだ眠っている。


 継真を起こした鍵は一人分だけだった。誰を選ぶこともできず、対応していた継真のカプセルだけが開いた。つまり、残る二人を起こすには、個別の鍵、パスワードが要る。


「今後の目的は二つだ」

 ヴァレンが確認するように言う。

「法原を追うこと。残りの鍵を手に入れること。その両方が、ベルガンドで繋がる可能性が高い」

「灯影と雲龍を……起こせる見込みは、あるんですよね」


 継真の声は弱くない。だが、強くもない。


 怖いまま聞いている声だった。


 ヴァレンは即答する。


「見込みはある。保証はしない」

「……そうですか」

「だが、保証のないものを拾いに行くのが今の話だ」


 継真は一度だけ目を閉じた。


 それから、静かに頷く。


「それでも、行くしかないですね」


 へたれ気質は残っている。言い方も強くはない。けれど、もう継真は怖いから後ろへ下がる側ではなくなっていた。


 継真はそのまま、布武へ視線を向けた。


「布武。少しだけ、聞きたいことがある」

「何?」

「……二人で」


 布武は数拍だけ黙って、立ち上がった。


「いいわ」


 二人はオフィスを出ていった。


 扉が閉まると、もともと静かだった部屋が、少しだけ広くなった気がした。


 無双は追いかけなかった。聞くべき話じゃない気がしたし、追えばたぶん、布武は普通に嫌な顔をする。


 オフィスに残った無双は、閉じた扉をちらりと見たあと、椅子にもたれ直した。


 そのタイミングで、ヴァレンが言う。


「SENTRY《セントリー》の特徴を教えろ」

「急だな」

「急ではない。今後の障害だ」


 無双は椅子にもたれ、息を吐いた。


「……強かった」

「雑だ」

 無双は少しだけ視線を落とした。

「速い、硬い、反応もいい。前は布武と組んで、何とか退けた感じだった」

「連携の形は?」

「俺が前に出て、布武が通した。細かく合わせる暇なんてなかったのに、あいつは普通に合わせてきた」

「なら、その形を成立させたのは布武だ」

「……どういう意味だ」

「お前は前に出ただけだ。布武が合わせたから、連携として通った」


 無双は言葉に詰まった。


 思い返せば、確かにそうだった。布武は迷わなかった。まるで、最初から無双の動きに合わせる前提で立っていたみたいに。


 だが無双は、それを当然だと思っていた。


「法原が言うには、本体はまだ本気じゃないらしい」

「ならなおさらだ」

 ヴァレンはあっさり言う。

「興味深い。そいつを俺のところに連れてこい」

「話飛びすぎだろ」

「壊してからでも構わん」

「もっと無茶だ」


 無双は額を押さえた。


「今の俺じゃ、一人で勝てるかどうかも怪しい」

「なぜ一人で戦う?」

「……え?」


 ヴァレンは本気で不思議そうに言う。


「一人で倒せないなら、仲間と倒せばいい。わざわざ一対一にこだわる理由があるのか?」

「いや、でも……」


 反論しかけて、無双は言葉に詰まった。


 理由なんて、なかった。


 ただ、ずっとそう思い込んでいただけだ。


 自分しか動けない。自分が何とかするしかない。そんなふうに、いつの間にか決めつけていた。


 でも、それはもう違う。


 継真が起きた。


 灯影も、雲龍も、まだ戻れる可能性がある。


 仲間が戻るというのは、人数が増えることじゃない。戦い方そのものが変わるということだ。


 それは、わかっていたはずのことだった。


 なのに今さら胸に落ちたのは、自分が思っていた以上に一人で何とかする側に閉じこもっていたからだ。


 少しだけ、痛かった。


「……そっか」

 無双は小さく言う。

「俺、最初から変なとこで固まってたのか」

「最初からそうだ」

 ヴァレンは容赦がない。

「今の身体で継真がどこまで戦えるか、灯影と雲龍が戻ればどう戦い方が変わるか、お前自身が忘れていることも含めて整理し直せ。仲間が戻るとはそういうことだ」

「戦い方が変わる……」

「そうだ」


 その言葉は、妙にまっすぐ入ってきた。


 一人で何とかする、じゃ足りない。


 仲間とどう戦うかを考えなければならない。


 それは希望でもあるし、同時に、自分がまだそこまで辿り着けていなかったという痛みでもあった。


 やがて、扉が開く。


 布武と継真が戻ってきた。


 継真は何も言わなかった。けれど、戻ってきた時の目が少しだけ違っていた。さっきより静かだ。怖がっているわけではない。疑っているわけでもない。ただ、布武が抱えているものの重さを、少しだけ受け取ってしまった目だった。


 布武はそれについて何も足さなかった。


 それで十分だった。


 ヴァレンが地図端末を閉じる。


「では決める。出発は一週間後だ」

「一週間後……」

 継真が繰り返す。

「長い、と思ったか」

「いや……」

 継真は少し迷ってから、正直に言った。

「短い、です」


 ヴァレンは頷いた。


「そうだろうな。だが、それだけあればできることもある」


 そのまま順に指示を落としていく。


「継真。お前は今の身体に慣れろ。診断と治療の精度を戻せ。起こした後で灯影を診られませんでした、では話にならん」

「……はい」

「無双。お前は今の戦い方を見直せ。単独で突っ込む癖も含めてだ」

「……わかった」

「布武。お前はベルガンドの情報を整理しろ。法原の癖、学府会の動き、接触先の候補。急ぐのはわかるが、雑に追えばまた逃す」

「……ええ」


 短い返事だった。


 だが、その一言の奥に、焦りはまだ沈んでいる。


「俺も」

 継真が自分から言った。

「この身体での精度を戻します。灯影を起こす前に、俺自身が足を引っ張るのは嫌だから」

「妥当だ」

 ヴァレンは言う。

「俺はこの研究所で行われた研究資料を洗い直す。残っている研究データから、次の鍵に繋がる線を探す」


 無双は三人を見た。


 継真はまだ完全には落ち着いていない。肩も少し硬い。けれど、もう座って怯えるだけの人間ではない。


 布武の焦りは消えていない。消えないまま、前へ向けて折り畳まれている。


 ヴァレンは相変わらず、感情より手順優先だ。


 一人が戻った。


 それだけで、止まっていた計画はようやく次へ進み始めている。


「一週間しかねぇのか」

 無双が呟く。


 ヴァレンは間を置かずに返した。


「一週間もある、の間違いだ」


 その言葉のあと、継真が黙って自分の手を握った。


 まだ小さい手だった。


 けれど、もう震えているだけの手じゃない。


 一週間。


 短い。


 けれど、その間に取り戻せなければ、次は本当に間に合わなくなる気がした。


 布武は机に残された地図の一点――ベルガンドの名を静かに見つめている。


 整いきったオフィスの静けさの中で、その町の名だけが妙に重かった。


 そこには、まだ何も見えていない。


 けれど確かに、次に何かが動く気配だけはあった。


 ベルガンド。


 その名はもう、次の目的地ではなく――止まっていたレッドオーガを、再び前へ押し出す場所の名だった。


(第十八話・終)

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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