第十七話 守るために
朝は、痛みで来た。
目を覚ました瞬間、無双は小さく息を詰めた。
表面の傷は塞がっている。
だが。
肋。
肩。
脚。
身体の奥に残った鈍い痛みまでは消えていなかった。
少し身じろぎしただけで、じわりと嫌な感覚が走る。
「っ……」
声にならない息を吐き、ゆっくりと身を起こす。
隣の寝台では、布武がまだ眠っていた。
昨夜、ようやく気を抜けたのだろう。
寝顔は静かだった。
細い肩が、小さく上下している。
起こさないように。
無双はそっと足を下ろした。
床へ体重を乗せた瞬間、脚の奥がまた軋む。
思わず顔をしかめたが、布武は起きない。
無双は少しだけ安堵して、静かに部屋を出た。
◇
廊下は冷えていた。
朝なのに、外の気配はない。
どこまでも整いすぎた壁と床が続き、足音だけが妙に響く。
先の作業室に明かりが見えた。
半開きの扉から覗く。
ヴァレンが機器の前に立っていた。
机の上には端末。
工具。
開いたままの資料。
片づける暇もなく作業を続けていたらしい。
寝た気配はなかった。
ヴァレンは視線だけで無双に気づく。
「起きたのか」
「お前こそ寝てねぇだろ」
「必要な準備が終わるまではな」
あっさりと言って、ヴァレンは端末を閉じた。
「だが、今終わった」
それだけで。
今日が、その日だと分かった。
無双の喉が小さく動く。
ヴァレンは扉へ向かう。
「来い」
「待てよ」
ヴァレンが振り返る。
「何だ」
「布武も呼ぶ」
「まだ寝ている」
「だから起こしてくる」
「準備はできている」
「知ってる。でも――」
無双は一度、言葉を切った。
「みんなを起こすために、一番頑張ってきたのは布武だ」
ヴァレンは黙って無双を見る。
一拍。
「三分だ」
「十分」
「五分」
「分かった」
無双はすぐに踵を返した。
「交渉する必要あったか?」
「お前が始めたんだろ」
◇
「布武」
「……ん」
「起きろ」
布武の目が開く。
「準備、終わったって」
一瞬。
眠気が消えた。
布武はすぐに身体を起こす。
「行くわ」
「早ぇな」
「待ってたんだから当然でしょ」
長い黒髪を簡単に整え、そのまま立ち上がる。
無双が先に戸へ向かった。
「ヴァレン、五分って言ってたぞ」
「なら急ぐわよ」
◇
向かった先は、地下区画のさらに奥。
生命維持装置の並ぶ部屋だった。
扉が開く。
冷えた空気が流れ出した。
部屋の奥まで、カプセルが整然と並んでいる。
低い機械音。
淡く明滅する監視灯。
眠り続ける人影。
無双も布武も、自然と口数が減った。
ヴァレンは迷いなく制御盤の前へ立つ。
「始めるぞ」
布武がカプセルを見たまま頷く。
「ええ」
無双も一歩前へ出た。
「ああ」
ヴァレンが法原から持ち帰った記憶媒体を差し込む。
電子音が小さく鳴った。
『認証開始』
平たい機械音声が、静かな部屋へ響く。
白い光がカプセル群へ走った。
一つ。
また一つ。
順番に読み取っていく。
無双は息を詰め、その光を目で追った。
誰だ。
継真か。
灯影か。
雲龍か。
隣の布武は動かない。
ただ。
下ろされた手だけが、強く握られていた。
光が。
一つのカプセルで止まった。
白い待機灯が強く明滅する。
「対応先を確認」
ヴァレンの指が制御盤を走る。
「解除に入る」
低い駆動音。
カプセル内部の光が少しずつ弱まっていく。
ロックの縁に沿って、白い線が走った。
冷気が内側から漏れ始める。
『生命維持、段階移行』
布武の呼吸が止まった。
『封鎖解除まで、十――』
無双が拳を握る。
『九――』
あと数秒。
それだけで。
十二年前から止まっていたものが、一つ動き始める。
『三――』
布武が一歩前へ出た。
『二――』
無双も並ぶ。
『一』
重い解錠音。
カプセルの前面が、ゆっくりと上がった。
白い冷気が床へ流れ落ちる。
その向こうに。
眠っていた人影が現れた。
小さくなった身体。
伏せられたまぶた。
指先が、ぴくりと動く。
そして。
ゆっくりと目が開いた。
焦点の合わない視線が宙をさまよう。
浅い呼吸。
まだ覚醒しきっていない顔。
無双は、その顔を見た。
なぜか。
名前だけが自然と口から出た。
「……継真」
継真は何度か瞬きをする。
最初に見えたのは、目の前に立つ白衣の男だった。
一瞬。
目が合う。
「…………」
次の瞬間。
「ぎゃあああっ!!」
継真が飛び起きた。
「ここどこ!? 誰!? 何!?」
起き上がりきれず、脚がもつれる。
半分カプセルの中へ尻もちをついた。
両腕で身体を庇うように縮こまる。
ヴァレンが一歩近づく。
「意識はあるな。視線も合っている」
「来ないでください! ほんとに来ないでください!」
「脈と瞳孔を見るだけだ」
「その無表情で近づいてくるのが怖いんですって!」
ヴァレンの眉がわずかに寄る。
「……起床直後から騒がしいな」
「俺が悪いんですか!?」
無双は思わず額へ手を当てた。
「落ち着けって。こいつはヴァレン。俺を起こしたのもこいつだ」
「……ヴァレンさん?」
「そうだ」
継真はまだ警戒しながら、無双へ視線を移した。
そして。
隣に立つ布武を見る。
もう一度、無双。
布武。
視線が往復する。
「…………」
「どうした?」
無双が首を傾げる。
継真の眉が寄った。
「……どっちが無双なんだ」
「は?」
無双が口を開きかける。
その前に。
布武が静かに言った。
「良い話と悪い話、どっちから聞きたい?」
「……じゃあ、良い話から」
「そう。こっちが無双。私は妹」
「それ、良い話なのか?」
無双が眉をひそめた。
「俺も今ちょっと思った」
「悪い話は?」
「無双は当時の記憶と力を、ほとんど失ってる」
一拍。
「あと、私は布武よ」
「そっか」
継真は小さく頷いた。
「じゃあ、灯影は?」
布武が身体を少しずらした。
「ここにいるわ」
カプセルの列。
その奥。
一つの透明な覆いの向こうに、眠る小さな影がある。
継真は息を止めた。
「……灯影」
立とうとする。
脚に力が入らず、身体が傾いた。
無双が咄嗟に腕を掴む。
「無理すんな」
「離して……いや、悪い。ちょっとだけ貸して」
「どっちだよ」
「今は貸して」
無双の腕を支えに、継真が一歩ずつ進む。
灯影のカプセルの前で止まった。
ガラス越し。
眠っている。
間違いなく、そこにいる。
けれど。
「……小さい」
掠れた声。
隣のカプセルへ視線が動く。
「雲龍も……」
知っている姿より、ずっと幼い。
継真は自分の手を見る。
腕。
脚。
小さくなった身体。
「……俺もか」
呼吸が浅くなる。
それでも。
今度は叫ばなかった。
「二人は、いつ起きる?」
ヴァレンが答える。
「鍵が必要だ」
「鍵……ですか?」
「カプセルごとに解除情報が違う。お前を起こした鍵は、この二人が持ち帰った」
継真がゆっくり振り返る。
無双。
布武。
あらためて二人を見る。
破れた服。
残る傷。
疲労の消えきらない顔。
「……そのために?」
声が小さくなる。
「俺を起こすために、こんな……」
無双が肩をすくめる。
「三人とも起こすつもりだからな」
布武も灯影を見る。
「まだ一人目よ」
継真は何も言わなかった。
目から、一筋だけ涙が落ちる。
拭わない。
そのまま灯影のカプセルへ向き直った。
「……待ってろよ」
ガラスへ手を触れる。
「絶対、起こすから」
声はまだ震えていた。
けれど。
目は逸らさなかった。
◇
少しして。
継真が無双へ視線を向けた。
「……無双」
「ん?」
「その肩」
無双が自分の肩を見る。
「これ?」
「動かしてみて」
「こうか?」
腕を上げる。
途中で痛みが走り、わずかに顔が歪む。
継真の眉が寄った。
「……見せて」
「起きたばっかだろ」
「見るだけ」
継真の左右の手に白炎が灯った。
無双の目がわずかに開く。
圧が静かに釣り合う。
合掌。
白炎が消えた。
「番外――【深命の理】」
継真の指先に、細い青白い光が残った。
糸のような光が無双の肩へ触れる。
内側をなぞるように、淡く走った。
肩。
肋。
腕。
継真の表情が曇る。
「……ひどいな」
「そんなに?」
「そんなに」
もう一度。
継真の手に白炎が灯る。
ヴァレンが口を開いた。
「診断だけにしておけ」
「治せます」
「起床直後だ」
「分かってます」
「分かっているなら無理はするな」
継真は一瞬だけ黙った。
それでも。
無双を見る。
「ヴァレンさん。少しだけ、やらせてください」
ヴァレンが継真を見た。
「一度だ」
「……ありがとうございます」
左右の白炎が、先ほどより慎重に釣り合っていく。
合掌。
白炎が消えた。
「番外――【命癒の理】」
掌に。
淡い金白の光が宿る。
燃えるような光ではない。
傷へ静かに染み込むように広がっていく。
継真の手が、無双の肩へ触れた。
温かい。
そこから。
肋。
腕。
壊れていた場所を確かめるように光が流れる。
痛みを消すのではない。
ずれていたものを、一つずつ正しい場所へ戻していくような感覚。
無双は息を呑んだ。
継真の額に汗が浮く。
呼吸が少しずつ荒くなる。
それでも、手は止まらない。
「継真」
ヴァレンの声が低くなる。
「そこまでだ」
「あと少しだけ――」
「終われ」
短い声だった。
継真は唇を噛み。
ゆっくり手を離した。
金白の光が消える。
その瞬間。
継真の身体がわずかに揺れた。
ヴァレンが肩を掴む。
「だから言った」
「……大丈夫です」
「今にも倒れそうな奴の台詞じゃない」
無双はゆっくり肩を回した。
さっきまで引っかかっていた痛みが、かなり薄れている。
「……助かった」
継真が息を整える。
「全部は無理だった」
「十分だって」
「でも――」
継真の視線が、また灯影のカプセルへ向いた。
無双もそれを追う。
灯影はまだ眠っている。
何も知らず。
静かな呼吸だけを繰り返している。
◇
「続きは上でやる」
ヴァレンが端末を閉じた。
「その前に、お前は調整槽だ」
継真の顔が引きつる。
「……何するんですか?」
「起床後の身体状態を調べる」
「ヴァレンさん、もう少し怖くない言い方できません?」
「検査する」
「短くなっただけじゃないですか!」
無双が吹き出した。
「大丈夫だって」
「その人に対して無双がそれ言っても、全然安心できないよ!」
「俺も最初はそう思った」
「今も思ってる顔してるぞ!」
「よく分かったな」
「やっぱり怖いじゃないか!」
継真は顔をしかめた。
それでも。
自分の足で歩き出した。
一歩。
まだ少し頼りない。
もう一歩。
扉の前まで進み。
そこで止まる。
振り返った。
視線の先。
眠る灯影。
継真の表情から、さっきまでの騒がしさが消えた。
「……待ってろよ」
小さく呟く。
「次は、俺も行くから」
その声は。
もう、震えていなかった。
(第十七話・終)
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