第十六話 眠りの扉
脚が重い。拳もまだ痛む。傷は表面こそ塞がっていたが、痛みだけはまだ残っていた。
それでも、無双は止まらなかった。
木々の切れ間を抜けた先で、ようやく見覚えのある場所に出た。
開けた地面の中央に、人工的に均された一角がある。岩と金属で組まれた低い入口だけが、地面に口を開けていた。
ヴァレンの研究所だ。
地上にあるのは入口だけ。
本体は、その下に広がっている。
法原の研究所みたいな嫌な気配はない。
ただ、妙に静かだった。
息を潜めているみたいに、人の気配が薄い。
「……着いた、か」
声に出すと、喉が掠れた。
ここへ戻ってくると、胸の奥がわずかに詰まる。
安心なのか、居心地の悪さなのか、自分でもまだよくわからなかった。
無双は入口脇の壁に手をつき、ひとつ息を整えてから地下への通路へ足を踏み入れた。
廊下は静かだった。足音だけがやけに響く。
作業机、棚、器具、閉じた扉。どれも位置が揃い、放置された場所の埃っぽさがない。
「ヴァレン!」
返事はない。
無双は眉をひそめて奥へ進んだ。
作業室を覗く。いない。
別の部屋も見る。いない。
灯りはついているのに、主の姿だけが見えなかった。
「おい、ヴァレン!」
もう一度呼んでも、静かなままだった。
「……どこ行ったんだよ、あいつ」
研究所の奥にいないなら外かもしれない。
そう思って引き返し、地上へ出た瞬間だった。
閃光。
「っ――!」
反射で身体が跳ねた。避け切れない。
肩口をかすめた光が地面を抉り、衝撃だけで無双の身体が吹き飛んだ。
背中から地を滑る。土が削れ、残っていた痛みがまとめて疼く。
無双はすぐに身を起こし、拳を構えた。
「どんな時でも警戒心を持てと教えただろうに」
木陰から現れた白衣の男を見て、無双は顔をしかめた。
「殺す気か!?」
「今ので死ぬなら、お前はそこまでだ」
「言い方ってもんがあんだろ……!」
「減らず口は叩けるらしいな」
「誰のせいだと思ってんだ」
白髪。眼鏡。寝不足の隈。相変わらずやる気がなさそうな顔。
ヴァレンだった。
ヴァレンは答えず、無双の全身をざっと見た。傷、泥、乾いた血、破れた服。その視線は診察みたいに冷静だった。
「少しはましに鍛えたつもりだったんだがな」
「てめぇは鬼か!!」
「鬼はお前だろ」
「そういう話じゃねえ!」
一拍、間があいた。
「戻ってきたということは、成果があったんだろう」
無双は短く息を吐いた。
法原に会ったこと。鍵を手に入れたこと。
そして、布武がそのまま法原を追ったこと。
そこだけを切り出して話した。
ヴァレンは最後まで黙って聞き、短く頷く。
「そうか」
そこで無双は、少しだけ言葉を切った。
「それと――永遠は、まだ生きてるらしい」
その名を口にした瞬間、喉の奥がわずかに重くなった。
体の奥のどこかが、ざらつく。
ヴァレンは驚かなかった。
「……そうか」
「驚かねえのかよ」
「可能性としては見ていた」
「ほんと嫌なやつだなお前」
その時だった。
道の向こうから足音がした。
振り向くと、木立の影から布武が現れる。
服に血や泥は残っていない。けれど、裂けた布と浅い呼吸だけが、無理を隠し損ねていた。
それでも足取りは止まっていない。
無双は胸の奥で張っていたものが、少しだけ緩むのを感じた。
「布武――」
無双が呼ぶより早く、布武は言った。
「鍵はある。早く仲間を救う準備をして」
息を整える暇も惜しむみたいに、布武はそのまま言い切った。
再会の言葉より本題が先だった。
声は掠れているのに、焦りだけはまっすぐに通っている。
ヴァレンは差し出された記憶媒体を見て、一拍置いた。
その視線が、布武の裂けた服と、無双の傷の跡を一度だけなぞる。
「断る」
「……は?」
「何言ってるのよ」
「断ると言った」
「早くしなさい。時間が惜しいの」
「汚い」
一瞬、布武の頬がかっと赤くなった。
「……は?」
「お前、今それ言う!?」と無双が叫ぶ。
「血、埃、汗。それに法原の研究所由来の汚染が付着している可能性がある。そのまま入れるのは困る」
「私は水浴びもしてきたし、服も気術で清めてる。無双と一緒にしないで」
「そこ強調すんな! あと、それ教えてくれ」
「とりあえず風呂に入ってこい。話はそれからだ」
ヴァレンは本気だった。
冗談の気配がまるでないのが、この男の面倒なところだった。
「風呂場は奥だ。湯は沸いている。終わったら来い」
それだけ言って、ヴァレンは本当に踵を返した。
残された沈黙の中で、布武が深く息を吐く。
「……あいつ、なんなのよ」
「潔癖症だ」
「先に言いなさいよ」
「言ってどうにかなる問題か」
布武がじろりと睨む。
無双も見返す。
けれど、その緊張は長くは続かなかった。
「……無事だったのね」
「そっちもな」
短い。
でも、それで十分だった。
ひと通り汚れを落として戻る頃には、湯気と一緒に張りつめていた息も少しだけほどけていた。
もっとも、表面がましになっただけだ。
痛みも疲労も、まだ身体の芯に残っている。
二人が作業室へ戻ると、ヴァレンはすでに机の前に座っていた。
灯りの下、例の鍵――法原から得た記憶媒体が、器具に接続されている。
「もう出てきたのか」
「十分入ってた」
「その十分は信用できない」
無双が言い返しかける前に、布武が机へ歩み寄った。
「それで」
声が低い。
焦りを押し込めている声だった。
「使えるの」
ヴァレンは画面を見たまま答えた。
「本物だ」
「……そう」
「解除コードも有効だ。ただし、一人分だけだ」
「わかってる」
布武の返事は短かった。けれど、その一言に張り詰めたものがにじんでいた。
ヴァレンは画面を切り替えた。
研究所の地下区画、そのさらに奥。無双が目覚めた場所と同じ系統の施設図が浮かび上がる。
「今夜のうちに解除手順の最終確認を終える。実行は明日だ」
「今すぐは」
「無理だ。焦って失敗すれば、中の命を落とす」
その一言で、布武は黙った。
握られた手が白い。
早く。少しでも早く。そう思っているのが、見なくてもわかった。
無双はヴァレンを見た。
「……間に合うんだよな」
ヴァレンが淡々と言った。
「俺を信じるかは勝手にしろ。期限はまだ生きている」
布武はすぐには返事をしなかった。
数秒だけ黙って、それから小さく息を吐く。
「……そう」
ヴァレンが別の画面を立ち上げる。
「それと、法原の件だ」
布武の目がすぐに鋭くなった。
「追跡は失敗した」
「ええ」
「だが、完全に空振りでもないんだろう」
「次に向かう先の見当はついてる」
「ほんとか」と無双が聞く。
「確証まではない。でも、追う価値はある場所よ」
「その話は後だ」とヴァレンが言う。「先に一人起こす」
「……そうする」
布武は短く頷いた。
作業室の空気が少しだけ締まる。
問題は何も減っていない。
それでも、次にやることだけは決まった。
鍵は本物だった。
準備は進められる。
明日、一人を起こす。
無双は静かに息を吐いた。
ようやく、眠った仲間へ手が届くところまで来たのだと思った。
ヴァレンが最後の器具を机へ置く。
金属の乾いた音が、静かな部屋によく響いた。
「地下の調整槽を使う。だが、開ける相手はこちらでは選べない」
「……どういうこと?」
「今回の鍵で開けられるのは、一つだけだ」
「じゃあ、誰が起きるかは……」
「この鍵次第だ」
曖昧さのない答えだった。
布武が画面の先を見る。
無双もつられて、その先を見た。
地下へ続く表示の向こう。
眠ったままの仲間たちがいる場所。
あと一歩で届く場所。
けれど、その一歩の先にいるのが誰なのかは、まだわからなかった。
「休め」とヴァレンが言う。「明日は集中力が要る」
無双も布武も、すぐには動かなかった。
机の上の鍵。
点灯したままの画面。
その奥にある地下区画の表示。
さらにその端で、小さな認証待機灯がひとつだけ、白く点っていた。
一つだけ。
たった一つだけが、明日、開く。
布武が小さく呟いた。
「……待ってなさい」
無双は黙ったまま、その白い灯りを見ていた。
胸の奥が、理由もわからず一度だけ強く鳴った。
(第十六話・終)
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6月14日(日)20時10分に更新予定です。
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