第十六話 眠りの扉
脚が重い。
拳もまだ痛む。
傷は表面こそ塞がっていたが、痛みだけは身体の奥に残っていた。
七日間、まともな食事を取っていない。
水だけは途中でもらった水袋のおかげでどうにかなったが、空腹までは誤魔化せなかった。
何より。
あの機械兵との戦いで使い続けた気力。
さらに、川辺で荷車を持ち上げるために絞り出した分まで、まだ戻りきっていない。
身体が重いのは、そのせいだ。
それでも。
無双は止まらなかった。
木々の切れ間を抜けた先で、ようやく見覚えのある場所に出る。
開けた地面の中央。
人工的に均された一角に、岩と金属で組まれた低い入口だけが、地面へ口を開けている。
ヴァレンの研究所だ。
地上にあるのは入口だけ。
本体は、その下に広がっている。
法原の研究所みたいな嫌な気配はない。
ただ、妙に静かだった。
息を潜めているみたいに、人の気配が薄い。
「……着いた、か」
声に出すと、喉が掠れた。
腰の水袋を持ち上げる。
残りは少ない。
身体は重い。
腹も減っている。
それでも、ここまで戻ってきた。
研究所を見た瞬間、胸の奥で張っていたものがわずかに緩んだ。
安心なのか。
居心地の悪さなのか。
自分でも、まだよく分からない。
無双は入口脇の壁に手をつき、一度だけ息を整えた。
それから地下への通路へ足を踏み入れる。
廊下は静かだった。
足音だけがやけに響く。
作業机。
棚。
器具。
閉じた扉。
どれも位置が揃い、放置された場所の埃っぽさがない。
「ヴァレン!」
返事はない。
無双は眉をひそめて奥へ進む。
作業室を覗く。
いない。
別の部屋も見る。
いない。
灯りはついているのに、主の姿だけがなかった。
「おい、ヴァレン!」
もう一度呼んでも、静かなままだ。
「……どこ行ったんだよ、あいつ」
研究所の奥にいないなら、外かもしれない。
そう思って引き返し、地上へ出た瞬間だった。
白い光が走った。
「っ!」
無双は反射的に横へ跳ぶ。
直後。
足元の地面を光が穿った。
バンッ、と乾いた音。
土が跳ねる。
無双は着地しかけて――身体が追いつかず、片膝をついた。
「……っ」
すぐに顔を上げ、拳を構える。
「反応が鈍いな」
木陰から、白衣の男が姿を現した。
無双は顔をしかめる。
「帰ってきた奴に最初にやることか!?」
「どんな時でも警戒心を持てと教えただろう」
「だからって撃つなよ!」
「直撃させていない」
「そういう問題じゃねぇ!」
白髪。
眼鏡。
寝不足の隈。
相変わらず、やる気があるのかないのか分からない顔。
ヴォルテ・ヴァレンだった。
ヴァレンは言い返さず、無双の全身を上から下まで見る。
傷。
泥。
破れた服。
乾いた血。
そして、片膝をついたままの姿。
その視線は、再会した人間を見るものというより、状態を確認する研究者のものだった。
「気力の戻りが悪い」
「……見ただけで分かんのかよ」
「動きを見ればな」
ヴァレンの視線が腰の水袋へ移る。
「食事は」
「……まともなのは、七日前」
一拍。
「馬鹿か」
「好きで食ってなかったわけじゃねぇ!」
「中に補給食がある。水分を取ってから食え。一気に詰め込むな」
「そこは普通に心配すんのかよ」
「状態を悪化させられると面倒だからな」
「ほんっと、言い方……」
無双は立ち上がった。
ヴァレンはもう一度だけ全身を見る。
「少しはましに鍛えたつもりだったんだがな」
「七日かけて戻ってきた奴に言うことか?」
「減らず口は叩けるらしい」
「誰のせいだと思ってんだ」
一拍。
ヴァレンが研究所の入口へ視線を向ける。
「戻ってきたということは、成果があったんだろう」
無双は短く息を吐いた。
法原に会ったこと。
鍵を手に入れたこと。
そして。
布武が、そのまま法原を追ったこと。
必要なところだけを切り出して話す。
ヴァレンは最後まで口を挟まず、聞き終えると短く頷いた。
「そうか」
無双は少しだけ言葉を切った。
「それと――」
喉がわずかに重くなる。
「永遠は、まだ生きてるらしい」
その名を口にした瞬間。
身体の奥のどこかが、ざらついた。
ヴァレンの指が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……そうか」
「驚かねぇのかよ」
「可能性としては見ていた」
「ほんと嫌なやつだなお前」
その時だった。
道の向こうから、足音がする。
無双が振り向く。
木立の影から、布武が現れた。
血や泥は落としてある。
だが、裂けた服までは元に戻っていない。
呼吸も浅い。
無理を隠しきれていなかった。
それでも。
足取りは止まっていない。
無双の胸の奥で張っていたものが、少しだけ緩んだ。
「布武――」
無双が呼ぶより早く。
「鍵はある。早く仲間を救う準備をして」
布武は言い切った。
息を整える暇さえ惜しいような声だった。
再会の言葉より、本題が先。
声は掠れている。
それでも、焦りだけはまっすぐ通っていた。
ヴァレンは差し出された記憶媒体を見る。
一拍。
その視線が、布武の裂けた服。
そして無双の傷へ流れる。
「断る」
「……は?」
「何言ってるのよ」
「その状態で中へ入れる気はない」
「早くしなさい。時間が惜しいの」
「汚い」
一瞬。
布武の頬がかっと赤くなった。
「……は?」
「お前、今それ言う!?」
無双も叫ぶ。
ヴァレンは表情一つ変えない。
「血、埃、汗。それに法原の研究所由来の物質が付着している可能性がある。そのまま研究区画へ入れるのは困る」
「私は途中で水浴びもしてきたし、服も気術で清めてる。無双と一緒にしないで」
「そこ強調すんな! あと、それ教えてくれ」
ヴァレンは無双を見る。
「お前は先に水分と補給食だ。そのあと洗え」
「子ども扱いすんなよ」
「腹が空いているのは事実だろ。無駄口叩いている暇があるなら食べに行け」
「……ぐ」
「風呂場は奥だ。湯は沸いている」
ヴァレンは本気だった。
冗談の気配がまったくない。
「終わったら来い」
それだけ言って、本当に踵を返す。
残された沈黙の中。
布武が深く息を吐いた。
「……あいつ、なんなのよ」
「研究所に汚れ持ち込むの、死ぬほど嫌うんだよ」
「先に言いなさいよ」
「言ってどうにかなる問題か?」
布武がじろりと睨む。
無双も見返す。
だが。
緊張は長く続かなかった。
「……無事だったのね」
「そっちもな」
短い。
でも。
それで十分だった。
◇
無双は、ヴァレンに言われた通り補給食を少しずつ腹へ入れた。
空腹だった身体は、もっと食えと訴えてくる。
だが、一気に食べれば気分が悪くなると言われた。
「……面倒くせぇ」
文句を言いながらも、水を飲み、時間をかけて食べる。
それから身体の汚れを落とした。
湯へ浸かると、今まで誤魔化していた疲れが一気に輪郭を持った。
腕が重い。
脚が痛い。
肩も張っている。
機械兵との戦い。
長い帰路。
川辺で絞り出した気力。
動いている間は押し込めていたものが、温かい湯の中で一気に表へ出てきた。
身体中が、もう十分だと訴えているようだった。
それでも。
布武も戻ってきた。
鍵もある。
その事実だけで、無双は立ち上がれた。
ひと通り汚れを落として作業室へ戻る頃には、張りつめていた息も少しだけほどけていた。
疲労そのものが消えたわけではない。
ただ、さっきよりはましだった。
二人が作業室へ戻ると、ヴァレンはすでに机の前に座っていた。
灯りの下。
法原から得た記憶媒体が、器具に接続されている。
「もう出てきたのか」
「十分入ってた」
「その十分は信用できない」
無双が言い返しかける。
その前に、布武が机へ歩み寄った。
「それで」
声が低い。
焦りを押し込めている。
「使えるの」
ヴァレンは画面を見たまま答えた。
「本物だ」
「……そう」
「解除コードも有効だ」
布武の肩から、ほんのわずかに力が抜ける。
だが。
ヴァレンは続けた。
「解除対象は一基だけだ」
「分かってる」
布武の返事は短かった。
それでも、その一言の奥に張りつめたものが滲んでいる。
ヴァレンは画面を切り替える。
研究所の地下区画。
そのさらに奥。
無双が目覚めた場所と同じ系統の設備図が表示される。
「今夜のうちに解除手順の最終確認を終える」
画面を指でなぞる。
「実行は明日だ」
「今すぐは?」
「無理だ」
布武を見る。
「焦って失敗すれば、命の保証はない」
その一言で。
布武は黙った。
握られた手が白い。
早く。
少しでも早く。
そう思っているのが、見なくても分かった。
無双がヴァレンを見る。
「……間に合うんだよな」
「俺を信じるかは勝手にしろ」
ヴァレンは淡々と答えた。
「期限はまだ生きている」
布武はすぐには返事をしなかった。
数秒。
小さく息を吐く。
「……そう」
ヴァレンが別の画面を立ち上げた。
「それと、法原の件だ」
布武の目がすぐに鋭くなる。
「追跡は失敗したのか?」
「ええ」
「だが、完全に空振りでもないんだろう」
「次に向かう先の見当はついてる」
「ほんとか」
無双が聞く。
「確証まではない。でも、追う価値はある場所よ」
「その話は後だ」
ヴァレンが遮る。
「先に一人起こす」
「……そうする」
布武は短く頷いた。
作業室の空気が、わずかに締まる。
問題は何も減っていない。
法原。
永遠。
黒帳。
まだ眠っている仲間。
それでも。
次にやることだけは決まった。
鍵は本物だった。
準備は進められる。
明日。
一人を起こす。
無双は静かに息を吐いた。
ようやく。
眠った仲間へ手が届くところまで来た。
ヴァレンが最後の器具を机へ置く。
金属の乾いた音が、静かな部屋へ響いた。
「地下の調整槽を使う」
無双と布武が見る。
「解除先は、鍵側で固定されている」
「固定?」
無双が聞き返す。
「ああ。こちらで好きなカプセルを選ぶことはできない」
布武が一歩近づく。
「じゃあ、この鍵が誰に対応してるかは?」
「現時点では確定できない」
「……どういうこと?」
「媒体側の識別情報だけでは、対象名までは読めない」
ヴァレンが地下区画の表示を拡大する。
「明日、実際のカプセル側と照合する。その時に、どの一基を解除できるかが確定する」
無双は画面を見る。
「じゃあ、誰が起きるかはもう決まってる。でも、今は分からないってことか」
「そういうことだ」
曖昧さのない答えだった。
布武も画面を見る。
無双も、その先を追う。
地下。
眠ったままの仲間たちがいる場所。
あと一歩で届く。
けれど。
明日、誰の目が開くのか。
それだけは、まだ分からない。
「休め」
ヴァレンが言った。
「明日は集中力が要る」
無双も布武も、すぐには動かなかった。
机の上の鍵。
点灯した画面。
地下区画の表示。
その端で、白い認証待機灯が静かに点っている。
布武が、その灯りを見たまま小さく呟いた。
「……待ってなさい」
無双も何も言わず、その白い光を見ていた。
明日。
その先で、仲間の一人が目を覚ます。
(第十六話・終)
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今回の更新強化期間はここまでとなります。
次回からは、通常どおり毎週日曜20時更新に戻る予定です。
次回、第十七話は
6月14日(日)20時10分に更新予定です。
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