第十五話 庇われた影
研究所を離れても、気味の悪さはすぐには抜けなかった。
乾いた風が吹くたび、肌の上だけじゃなく身体の奥までざらつく気がする。荒れた地面にはひびが走り、草はまばらだった。静かなのに、落ち着く静けさじゃない。生き物の気配まで、どこか薄い。
無双は歩く。
拳が痛む。腕も重い。足もだるい。
プロトタイプの硬さは、まだ骨の奥に残っていた。
「……くそ」
吐き捨てる。
胸の奥は軽くならない。
前だけを見る。
腹は空いていた。胃のあたりはとうに軽く痙攣している。
だが、それはまだ耐えられる。
ヴァレンとの修行で、無双は十日間、ろくに食べずに動かされたことがある。思い出したくもない訓練だったが、そのせいで、食べ物がないだけではすぐには止まらない身体になっていた。
問題は水だった。
喉が渇く。口の中が乾き、舌が張りつく。頭の回転まで鈍くなっていくのが、自分でも分かった。
「……水、か」
独り言は風にさらわれた。
黒帳に近い土地の水には当たり外れがある。濁った溜まり水に口をつけるほど、無双も馬鹿ではない。
だから歩く。
ただ前へ。
それを七日、続けた。
*
川を見つけた時、無双はしばらく立ち尽くした。
細くはあるが、確かに流れている。淀みではなく、ちゃんと動いている水だった。川辺の石も、その周囲の土も、ここまで通ってきた土地よりはまだ生きているように見える。
無双はふらつく足で近づき、そのまま膝をついた。
両手で水を掬う。
口に流し込む。
冷たさが喉を通った瞬間、肺まで一緒にほどけた気がした。二口、三口と飲み、ようやく息をつく。
「っ……は」
もう一度、今度は急がずに飲む。
顔も洗った。熱を持っていた額と頬に冷たさが広がる。首筋へ流した水が、じりじりしていた身体の火照りを少しだけ引かせた。傷の周りはしみたが、それでも気分はましだった。
川辺の石に手をつき、しばらく動かない。
研究所を出てから、こんなふうにまともに息をつけたのは初めてだった。
張りつめていた身体が、少しだけ緩む。
その時、一瞬だけ竹田の里が頭をよぎった。
竹田の里へ戻る考えも浮かんだが、この厄介ごとをあそこへ持ち帰る気にはなれなかった。
無双は小さく息を吐き、水袋に川の水を入れはじめる。
その時だった。
がたん、と鈍い音がした。
続けて、短い悲鳴のようなものが聞こえる。
無双は顔を上げた。
関わらない方がいい、とは思った。
だが視線は、もうそちらへ向いていた。
木々の間から見えたのは、横倒しになった荷車だった。積んでいた荷が川辺に崩れ落ちている。そばでは、狼の獣人の女が足を押さえて座り込んでいた。その前で、小さな子どもがどうしていいか分からない顔で立ち尽くしている。
無双はそちらへ足を向けた。
近づいた瞬間、母親がびくりと肩を震わせた。
子どもを背に庇うように動く。
その一瞬に、無双の胸がわずかにざわついた。
庇われる側にいた感覚だけが、ふいに胸の奥をかすめた。
土煙。誰かの背中。押し返すみたいに前へ出た腕。
そこまで浮かんで、あとはもう、手を伸ばす前の夢みたいに遠のいた。
子どももはっきりと怯え、母親の後ろへ半歩隠れる。
狼の獣人なら鬼の匂いに敏い。反応の理由はそれで十分だった。
無双は気にした様子もなく、荷車のそばにしゃがみ込む。
「動くな。そっち危ねぇ」
ぶっきらぼうに告げる。
母親は低く息を呑んで頷いた。
「荷、どかすぞ」
返事を待たず、無双は崩れた木箱へ手をかけた。
重い。
思った以上に腕へくる。
研究所での戦いで使い切った筋肉が、遅れて悲鳴を上げた。拳の骨がずきりと痛み、右腕から肩へ鈍い痺れが走る。それでも無双は顔色を変えず、箱を一つずつ退かしていく。
子どもがじっと見ていた。
警戒と戸惑いと、少しの好奇心が混ざった目だった。
「危ないから下がってな」
短く言うと、子どもは素直に二歩ほど下がった。
無双は散った荷を退かし終え、荷車の取っ手に手をかける。片輪が土に深くはまり、車体ごと斜めにねじれていた。このままでは、足を痛めた母親だけで立て直すのは厳しい。
「足は大丈夫か?」
「……足を少し、ひねっただけです」
まだ警戒は残っていたが、声はさっきより硬くなかった。
無双は荷車の角度を見て、足場を踏み直す。
「起こすぞ」
ぐ、と力を込める。
すぐに腕が悲鳴を上げた。息が詰まり、視界が一瞬ぶれる。動きが止まりそうになるが、ここで離すのも癪だった。
無双は歯を食いしばる。
「っ……おらぁっ!」
荷車が軋み、沈んでいた車輪が浮く。だが、まだ戻り切らない。
無双は息を吸い直し、肩から体重ごとぶつけるように押し上げた。
どん、と音を立てて、荷車が正位置へ戻る。
そのまま無双は取っ手に片手をかけたまま、ひとつ荒く息を吐いた。
「……はぁ……」
腕がじんじんする。拳も痛い。短い力仕事のはずなのに、今の身体にはやけに堪えた。
「その傷で、よく……」
母親が息を呑むように言う。
無双は肩で息をしながら、そちらをちらりと見た。
「鍛えてるからな。心配ねぇよ」
そう笑顔で答え、無双は散った荷を拾い集め、荷車へ積み直していく。子どももおそるおそる手伝い始めた。無双が何も言わずに続けると、母親も足を庇いながら動ける範囲で加わった。
ほどなくして、道の形は元に戻った。
母親は立ち上がり、そっと足に体重をかける。少し痛そうではあるが、歩けないほどではなさそうだった。子どもの顔色も、さっきよりだいぶいい。
川の音だけが静かに流れている。
「……助かりました」
母親が言った。
今度はまっすぐ無双を見ていた。
無双は素直に笑った。
「気にすんな」
母親は一瞬だけ目を丸くし、それから小さく頭を下げた。
「でも、あなたも少しは休んだ方が……」
「休んでる暇、ねえんだ」
無双は水袋の口を締め、腰へ提げ直す。
事情を話す気はない。話してどうにかなるものでもなかった。
その時、小さな声が背中に飛んだ。
「……ありがとう」
振り返ると、子どもが母親の横から少しだけ顔を出していた。まだ怯えは残っている。それでも、ちゃんと言葉を絞り出していた。
無双は一瞬だけ目を瞬かせる。
さっき胸をかすめた何かが、今度はもっと小さく引っかかった。
小さな手。見上げる視線。守られるしかなかった側の高さ。
けれど、それもすぐにほどけて消えた。
無双はまた、素直に笑う。
「もう大丈夫だろ」
それだけ言って、歩き出す。
引き止める声は来なかった。
川辺を離れ、乾いた地面へ戻る。疲れが消えたわけじゃない。腕は重いままだし、足も鉛のようだった。
それでも、足は前へ出る。
荒れた土地の先へ。
まだ遠いものの方へ。
風が吹く。
乾いた風だったが、さっきまでよりは少しだけましだった。
無双は前だけを見て歩く。
川の音はもう遠い。
その背中は止まらず、荒れた道の先へ消えていった。
(第十五話・終)
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次回、第十六話は
6月7日(日)20時10分に更新予定です。
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