第十五話 庇われた影
研究所を出てから、無双はひたすら歩いた。
向かう先は決まっている。
ヴァレンの研究所。
布武と別れる前に決めた、合流場所だ。
解除キーも布武が持っている。
なら、自分がすることは一つ。
戻る。
それだけだった。
◇
一日目。
身体中が痛んだ。
肩。
背中。
腹。
何度も機械の拳を受けた両腕は、何もしていなくても鈍く疼く。
何より。
気力が戻らない。
歩く程度なら問題はない。
だが、身体の奥にいつもあるはずの余裕が、ほとんど残っていなかった。
「……使いすぎたな」
無双は自分の手を見る。
プロトタイプとの戦い。
気術が使えない代わりに、長い間、両腕へ気力を巡らせ続けた。
必要な瞬間だけ身体を強化するのとは違う。
維持するだけでも集中を奪われ、気力を削られた。
少し意識を向けるだけで、身体の奥が空振りするような感覚がある。
無双は手を下ろした。
「……今は歩けりゃいいか」
足を止めずに進んだ。
◇
二日目。
腹が鳴った。
「……うるせぇ」
言っても黙らない。
食料はない。
研究所で全部失った。
空腹のまま動くこと自体には多少慣れている。
けれど。
今は身体が傷んでいる。
気力も減っている。
普段より、ずっと重かった。
それでも。
まだ歩けた。
◇
三日目。
一番困ったのは、水だった。
乾いた土地が続いている。
黒帳の影響が濃い地域では、見つけた水を何でも飲むわけにはいかない。
濁った水。
妙な匂いのする水溜まり。
流れの止まった細い溝。
何度か見つけた。
けれど、口にはしなかった。
岩の隙間から落ちる水滴を舐めた。
朝、草に残った露を指で集めた。
僅かな流れを見つけた日は、口を湿らせる程度に飲んだ。
喉の渇きが消えるほどではない。
それでも。
進むためには、それで繋ぐしかなかった。
◇
四日目を過ぎる頃には、足まで重くなっていた。
「……まだ、遠いな」
返事をする相手はいない。
無双は一人で歩く。
ふと。
竹田の里のことを思い出した。
温かい飯。
冷たい水。
人の声。
バンブーの大笑い。
今なら。
あの騒がしささえ、少し恋しかった。
けれど。
足が向かう先は、そちらではない。
「ヴァレンのところだ」
そこには。
眠っている仲間がいる。
そして。
布武も戻ってくる。
そう決めた。
だから歩く。
日が進むほど、空腹を訴える力さえ弱くなった。
代わりに。
喉の渇きだけは消えない。
唇が乾く。
口の中が粘る。
飲み込むだけで喉が痛い。
六日目。
一度だけ。
足が止まった。
木陰でもない。
座る場所でもない。
ただ。
次の一歩が出なかった。
「…………」
無双は黙って自分の脚を見る。
「動け」
一歩。
出た。
「……動くじゃねぇか」
もう一歩。
それだけ確認して。
また歩いた。
◇
そして。
七日目。
景色が僅かに変わった。
乾いた土の間に、草が増えている。
小さな虫が飛んでいる。
遠くから。
微かな音が聞こえた。
「……?」
無双が顔を上げる。
耳を澄ます。
さらさらと。
何かが流れる音。
「……水?」
その言葉だけで、身体が先に動いた。
歩く。
少しずつ速くなる。
木々の間を抜ける。
その先。
光を反す流れが見えた。
「……あった」
川だった。
無双はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
◇
流れている。
濁っていない。
陽の光を反して、水面が細かく揺れている。
「……水」
一歩。
また一歩。
ほとんど駆け寄るように川辺へ向かう。
だが。
水へ手を伸ばす寸前で、無双は止まった。
『飲まない方がいいわ』
布武の声が頭の中に蘇る。
黒帳へ近づく途中。
濁った水を前にして言われた言葉。
「…………」
喉は焼けるように渇いている。
それでも。
無双は周囲を見た。
川岸には草。
水面近くを飛ぶ虫。
浅瀬の岩陰。
そこを、小さな影が横切る。
「……魚?」
少なくとも。
ここまで来る途中に見た、何も生きていない水とは違う。
しゃがみ込む。
少しだけ掬う。
匂いを確かめる。
「……変な匂いはしない」
指先で口を湿らせる。
一滴。
二滴。
舌に妙な苦味はない。
痺れもない。
少し待つ。
何も起きない。
安全だと分かったわけではない。
けれど。
ここで飲まずに進む方が、もう危ない。
「……飲むしかねぇな」
もう一度。
今度はゆっくり口へ運ぶ。
「…………っ」
冷たい。
喉を通った瞬間。
身体中が水を欲しがった。
無双はもう一度掬おうとして。
途中で止めた。
「……一気に飲むな」
自分に言い聞かせる。
一口。
待つ。
また一口。
少しずつ。
乾き切っていた口の中が戻っていく。
喉の痛みが和らぐ。
重かった頭も、僅かに軽くなった。
「……生き返る」
思わず声が漏れた。
無双は川辺へ腰を下ろした。
拳には、まだ腫れが残っている。
腕も重い。
気力も戻り切っていない。
七日歩いた疲れも消えない。
それでも。
「……まだ行けるな」
もう一度だけ水を飲む。
ゆっくり立ち上がった。
その時。
川下の方から、鈍い音がした。
――ガタンッ。
「……?」
続いて。
「お母さん!」
子どもの声。
無双の顔つきが変わる。
音のした方へ走った。
◇
川沿いの道。
少し先で、一台の荷車が傾いていた。
片方の車輪が溝へ落ちている。
荷台からは木箱や袋が転がり、道を塞いでいた。
その脇にいたのは。
狼の獣人族の母親と、まだ幼い子どもだった。
「大丈夫か!」
無双が駆け寄る。
母親が顔を上げた。
その鼻先が、わずかに動いた。
次の瞬間。
「……っ!」
表情が強張る。
狼の獣人族が持つ鋭い嗅覚は、無双に残る鬼の匂いを拾っていた。
母親はすぐに子どもの前へ出る。
片腕を広げ。
背中へ庇った。
「…………」
無双の足が止まる。
警戒されている。
けれど。
なぜそこまで警戒されたのか。
無双には分からない。
だが。
足が止まったのは、それだけではなかった。
子どもを隠すように前へ出た母親の背中。
広げられた腕。
その光景を見た瞬間。
胸の奥が。
ざわり、と揺れた。
「……?」
土煙。
視界を塞ぐ、大きな背中。
誰かが。
自分の前にいる。
腕が伸びる。
こちらへ来る何かを、押し返すように。
そして。
自分は――。
「…………」
無双が息を止める。
見えているのは、川沿いの道。
目の前には母親と子ども。
なのに。
ほんの一瞬だけ。
自分の目線が、もっと低い場所にあったような気がした。
「……今の」
思い出そうとする。
けれど。
掴もうとした瞬間。
景色は消えた。
残ったのは。
誰かの背中と。
前へ出た腕。
それだけ。
「お兄ちゃん……?」
子どもの声で、無双は我に返った。
「……あ」
母親はまだ子どもの前に立っている。
無双は両手を軽く上げた。
「悪い。怖がらせるつもりはない」
母親は答えない。
「荷車、動かなくなったんだろ?」
視線を荷車へ向ける。
「手伝うだけだ」
「…………」
母親はしばらく無双の顔を見ていた。
警戒は消えていない。
それでも。
倒れた荷車へ一度だけ目を向ける。
そこで。
母親が片足を庇うように立っていることに気づいた。
「……怪我してるのか?」
「少し……足を」
「じゃあ、動かすな」
無双は荷車へ向かった。
母親が小さく息を呑む。
「大丈夫」
一言だけ。
「取ったりしねぇよ」
散らばった荷物の前へしゃがみ込んだ。
◇
木箱。
布袋。
割れていない瓶。
無双は一つずつ拾い、道の端へ寄せていく。
「……お母さん」
背後で、子どもが小さく呼ぶ。
「そこで待ってて」
母親の声には、まだ硬さが残っていた。
無双は気にせず手を動かす。
木箱を持ち上げた瞬間。
「っ……」
両腕に鈍い痛みが走った。
一度。
箱が僅かに沈む。
それでも。
無双はすぐに持ち直した。
「……よっと」
何でもないように声を出す。
母親が眉を寄せた。
「あなた……その怪我」
「これ?」
無双は笑って肩をすくめた。
「平気平気」
実際には。
笑っただけで背中まで痛んだ。
「でも――」
「そっちの方が痛そうだろ」
母親の足を見る。
「無理して立たなくていいぞ」
「…………」
母親は迷った末、近くの石へ腰を下ろした。
無双は背を向ける。
その瞬間だけ。
「……っ」
小さく息を漏らした。
腕が震えている。
気づかれないよう、拳を一度握る。
身体の奥へ意識を向けた。
ほとんど戻っていない気力。
少し水を飲んだからといって、余裕が戻ったわけじゃない。
使えば、あとで確実に響く。
「…………」
無双は振り返った。
「ほら。全然平気だろ?」
子どもへ笑ってみせる。
子どもも安心したように笑った。
「ぼくもやる!」
「お、じゃあ軽いやつだけ頼む」
「うん!」
小さな手が布袋を持ち上げる。
無双も木箱を持つ。
両腕に巡らせた気力が、震えを押さえていた。
痛みは消えない。
ただ。
動かせる。
それで十分だった。
無双と子どもで、散らばった荷物を片づけていった。
◇
最後に残ったのは、荷車だった。
片方の車輪が深い溝へ落ちている。
無双はしゃがみ込み、車体の下を覗き込んだ。
「……これを上げればいいのか」
荷物は下ろした。
さっきよりは軽い。
車体の下へ手を入れる。
「よっ……!」
力を入れる。
――動かない。
「…………」
無双の表情が一瞬だけ固まる。
母親がそれを見ていた。
「もういいです」
「ん?」
「あなたも、かなり辛いんでしょう」
無双は少しだけ黙った。
それから。
笑う。
「これくらい?」
車体を軽く叩く。
「こんなのに負けたら、格好つかねぇだろ」
「でも――」
「大丈夫」
また。
その言葉を口にした。
無双自身が、ほんの一瞬だけ止まる。
それでも。
今度は考えなかった。
「ちょっと離れてて」
母子が数歩下がる。
無双は荷車へ向き直った。
笑顔が消える。
「……さて」
両腕だけでは足りない。
無双は息をゆっくり吐いた。
残っている気力を探る。
少ない。
本当に少ない。
「使い切るなよ……」
自分へ言い聞かせる。
腕。
肩。
背中。
脚。
荷車を持ち上げるために必要な場所へ。
薄く。
広く。
気力を巡らせる。
「…………」
呼吸を整える。
「よし」
振り返る。
母親と子どもがこちらを見ている。
無双はいつもの顔に戻った。
「すぐ終わるから」
車体の下へ手を掛ける。
「せーの……!」
ぎしっ。
荷車が浮いた。
「……っ!」
腕が悲鳴を上げる。
背中が焼けるように痛い。
それでも。
顔には出さない。
「上がった!」
子どもが喜ぶ。
「だろ?」
無双は笑った。
歯を食いしばっているのが分からないように。
「お母さん! 車輪、頼む!」
「え……はい!」
母親がすぐに荷車へ手を伸ばす。
痛む足を庇いながら、車輪を押した。
ずるっ。
車輪が溝の縁へ乗る。
「もうちょい!」
気力が減っていく。
腕が震える。
視界の端が僅かに霞む。
それでも。
「ほら、もうすぐだ!」
声だけは明るくする。
子どもが、
「がんばれ!」
と叫ぶ。
「おう!」
もう一度。
力を込める。
――ガタンッ。
車輪が道へ戻った。
「やった!」
子どもが跳ねる。
「……っしゃ!」
無双はゆっくりと荷車から手を離した。
勢いよく座り込まない。
膝が抜けそうになるのを堪え。
そのまま荷車へ片手をつく。
「ほらな」
笑う。
「大したことなかっただろ」
母親は無双を見ていた。
「…………」
「なに?」
「いえ……」
母親はそれ以上何も言わなかった。
ただ。
最初に子どもを庇った時とは違う目で。
無双を見ていた。
「ありがとうございました」
「気にすんな」
無双が荷車から手を離す。
一歩。
踏み出す。
その瞬間。
脚から力が抜けた。
「っ――」
身体が傾く。
「お兄ちゃん!」
子どもが反射的に手を伸ばした。
無双は咄嗟に片足を踏ん張る。
倒れない。
「……危な」
すぐに笑う。
「ちょっと滑っただけ」
嘘だった。
気力を使った反動。
全身から、一気に力が抜けている。
けれど。
子どもの前でそんな顔はしなかった。
「大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫」
そう言いながら。
無双は、差し出された小さな手を見た。
その高さ。
その手。
瞬間。
また。
何かが重なった。
◇
――小さな手。
けれど。
今見えているものとは違う。
自分の手だ。
もっと小さい。
指も短い。
その手を。
誰かの大きな手が、強く握っている。
土煙。
騒がしい音。
何かが壊れる音。
前には。
あの背中。
自分より、ずっと大きい。
こちらを隠すように立っている。
『――大丈夫だ』
「……っ」
無双が息を呑んだ。
声。
確かに聞こえた。
男なのか。
女なのか。
誰なのか。
分からない。
顔も見えない。
ただ。
その言葉だけが、不思議なくらい近くに残った。
――大丈夫だ。
そして。
自分は、その背中を見上げていた。
守る側ではなく。
守られるしかなかった高さから。
「…………」
思い出そうとする。
握られていた手。
背中。
声。
その先。
けれど。
また。
霧が掛かったように、全部が遠ざかっていく。
「待て……」
無双が思わず呟く。
掴みかけたものが。
指の間から抜けていく。
残ったのは。
胸の奥に引っかかる、温度だけ。
「お兄ちゃん?」
もう一度呼ばれて。
無双は目の前へ戻った。
「あ……悪い」
子どもの手は、まだ伸ばされたままだった。
無双は少しだけ迷い。
その手を取る。
「ありがとな」
「うん!」
子どもが力いっぱい引っ張る。
もちろん。
それだけで無双を立たせられる力はない。
それでも。
無双は脚へ力を入れた。
「よっ……と」
今度こそ、身体を起こす。
「大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫」
そう答えて。
無双は一瞬、言葉を止めた。
さっき。
記憶の中でも。
同じ言葉を聞いた気がした。
「……変なの」
「なにが?」
「いや、なんでもない」
無双は笑った。
子どもも、つられるように笑う。
そして。
少し照れたように口を開いた。
「……ありがとう」
「…………」
その一言に。
無双はまた胸の奥を掴まれた気がした。
けれど。
今度は追わなかった。
無理に思い出そうとはしない。
「おう」
短く返す。
母親も静かに頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました」
最初に無双を見た時の警戒は、もうその目には残っていなかった。
◇
「少し、待ってください」
「ん?」
母親が荷車へ近づく。
布袋の中から取り出したのは、小さな水袋だった。
「これを」
無双は目を瞬く。
「……いいのか?」
「予備です」
「でも、あんたたちも使うだろ」
「もう一つあります」
母親は水袋を差し出した。
「さっき、川の水を飲んでいたでしょう」
「見てたのか」
「あなた、何も持っていませんから」
「…………」
図星だった。
「助けてもらったお礼です」
「別に、お礼が欲しくてやったわけじゃ――」
「分かっています」
母親が遮った。
声は穏やかだった。
「だから、受け取ってください」
最初。
この人は。
無双から漂う鬼の匂いを嗅ぎ取り、子どもを背に隠した。
今は。
真正面からこちらを見ている。
「……じゃあ」
無双は水袋を受け取った。
「ありがとな」
川へ向かう。
水袋いっぱいに水を入れた。
口をしっかり閉じる。
その重みを手に感じて。
無双は小さく息を吐いた。
◇
「もう行くの?」
子どもが聞く。
「ああ」
「どこまで?」
「ちょっと遠いところ」
「一人で?」
無双は少しだけ考えた。
「今はな」
子どもが首を傾げる。
無双は笑った。
「向こうで、待ってる奴がいる」
布武。
ヴァレン。
そして。
まだ眠っている仲間たち。
「だから戻らないと」
母親が無双を見る。
「道中、気をつけて」
「そっちもな」
母親の足へ視線を落とす。
「無理して歩くなよ」
「はい」
子どもが手を振った。
「お兄ちゃん!」
「ん?」
「またね!」
無双は一瞬だけ止まった。
「……またな」
自然に返した。
そして。
背を向ける。
◇
歩き出してから。
無双は一度だけ、自分の右手を見た。
小さな手。
大きな手。
誰かの背中。
『――大丈夫だ』
声だけが。
まだ胸の奥に残っている。
誰だったのか。
何があったのか。
分からない。
でも。
さっきよりは、少しだけ近い。
無双は手を握った。
今は。
思い出すことより。
戻ること。
ヴァレンの研究所。
布武と決めた合流場所。
布武と合流して。
眠っている仲間のところへ。
腰の水袋が、歩くたびに小さく揺れる。
身体は、さっきよりさらに重い。
無理に巡らせた気力の反動も残っている。
空腹も消えていない。
それでも。
無双は歩く。
子どもの「ありがとう」と。
誰かの「大丈夫だ」を。
胸の奥に残したまま。
ヴァレンの研究所へ向かって。
(第十五話・終)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
更新強化期間中のため、次回も少し早めに更新します。
次回、第十六話は
6月7日(日)20時10分に更新予定です。
続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




