第十四話 足止め
法原の白衣が、白い灯りの奥へ静かに遠ざかっていく。
急ぎはしない。振り返りもしない。追われる者の背中ではなく、ただ自分の都合でこの場を切り上げる者の歩き方だった。
「残念だ。もう少し見ていたかったが」
無機質な通路の奥で、法原の声だけが薄く反響する。
無双は歯を噛んだ。
胸の奥まで、息が綺麗に落ちない。吸えているはずなのに、肺のどこかに濁りが絡みつく。研究所に入ってからずっと続いている重さだった。空気が生き物の呼吸を拒んでいるみたいに、気持ちが悪い。
その不快さの奥に、さっき聞いた言葉がまだ刺さっている。
永遠は、まだ生きている。
思い出せないものは多い。なのに、その名だけは身体の奥に熱を残す。忘れたままではいられない何かとして、勝手に息を荒くさせた。
法原の気配がさらに遠ざかる。
その瞬間、布武が前へ出た。
反射だった。鍵を握った手を引き、細い身体が白い通路を裂くように滑る。迷いのない踏み出しだった。
だが、その進路へ長い影が滑り込む。
セントリー。
法原の半歩前へ出た機体が、通路の芯を塞いだ。
立っただけで分かる。向こうへは行かせない。人間なら構えや圧で作る壁を、そいつはただ存在するだけで完成させていた。
「経路を遮断」
「法原博士の移動を優先」
淡々とした声が落ちる。
次の瞬間、セントリーの両手に白炎が灯った。
この場所で、それは異様だった。
無双はさっきから、息だけじゃなく手の中まで気持ち悪い。
気を集めようとしても、どこかで薄く濁る。左右に溜めた圧も、ぴたりと噛み合わない。
なのに、セントリーの白炎は揺らがない。
濁らない。左右が最初から同じ規格で作られていたみたいに揃う。悪条件そのものを押し潰して成立しているみたいだった。
合掌。
白炎がすっと消える。
「番内――【封路障壁〈ふうろしょうへき〉】」
低い唸りが、通路の床と壁の奥で同時に鳴った。
次の瞬間、法原へ続く正面通路の床が赤く走り、その線に沿って白い壁が一気にせり上がる。横へ伸びる通路でも、今度は壁面そのものが押し出されるように膨らみ、分厚い遮断壁へ変わった。
壁を閉めたんじゃない。
その場に、新しく壁を生やした。
向こう側の気配が、そのまま遠のいていく。
「っ――」
布武の足が一瞬だけ止まる。
視線が走る。立ち上がる壁、その隙間、横へ逃がす別通路、遠のく気配。全部を一瞬で見ていた。
無双も踏み出そうとした、そのときだった。
別区画の扉が横から開く。
低い起動音。重い金属の擦れる音。白い通路の側面から、もう一体の機体が滑り出る。
セントリーより一回り低い。だが横幅がある。肩と腕は過剰に太く、脚部は硬い塊をそのまま関節で繋いだような作りだ。外装は洗練されていない。継ぎ目は露骨で、接合も荒い。試作のまま押し出された異物感がある。
頭部の赤い光が一度だけ明滅した。
無双の足が止まる。
「……なんだ、こいつ」
機体の頭部がこちらへ向く。
「SENTRY Prototype」
「侵入者確認」
「排除対象、固定」
「排除実行」
声はさらに硬かった。会話ではない。命令文だけを切り出したみたいな音声だった。
プロトタイプが、無双と布武の間へ割り込む。
だが次の動きで、狙いははっきりした。
赤い光が、布武へ向く。
まずい。
布武が横へ抜けようとした瞬間、プロトタイプの腕がそちらへ振り下ろされた。
無双は考える前に動いていた。
布武の前へ身体をねじ込み、振り下ろされた腕を肩ごと受けて弾く。
「っ、ぐ――!」
衝撃で足が滑る。肩の骨まで痺れた。だが、その一拍で十分だった。
「布武、行け!」
布武の目が揺れる。
「……無双」
「追うのはお前だろ」
短く切る。
プロトタイプの腕がもう一度動く。今度は通路ごと塞ぐように踏み込んでくる。
無双はさらに一歩前へ出た。
完全に、布武とプロトタイプの間へ割り込む。
拳を振り、視線を引き、気配ごとぶつける。狙いをこっちへ向けるための動きだった。
赤い光が無双へ固定される。
腕の角度が変わる。足の開きが変わる。標的が切り替わったのが分かった。
「でも――」
「早くしろ」
怒鳴らない。低く、強く押す。
「こっちは俺が片づける」
布武の唇がわずかに結ばれる。
向こう側の気配が、さらに遠のく。
立ち上がった壁が、さらに視界を切る。
鍵を握る布武の指先に力が入る。
「……無理、しないで」
かすれたような小さな声だった。
無双はそこで、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「誰に言ってんだよ」
軽口に見えるくらいがちょうどよかった。
布武の喉が震える。笑ってはいない。泣いてもいない。ただ、何かを押し込めるみたいに一度だけ息を呑む。
それから、いつもの調子を無理やり取り戻すみたいに言った。
「……行ってくるわ」
「ああ」
それだけで十分だった。
布武は踵を返し、閉じ切る前の横通路へ身を滑らせる。長い髪が翻り、その背中が白い灯りの先へ消える。
布武の気配が通路の向こうへ消えた瞬間、プロトタイプの赤い光が無双に貼りついた。
もう“邪魔な壁”じゃない。
ここに残った無双を、排除するための敵だった。
残った敵は、目の前のプロトタイプだけだ。
なら、まずこいつを倒す。
プロトタイプの腕が振り下ろされる。
速い。
無双は半身を捻って直撃を避ける。だが拳が床を砕く衝撃で、足元の感覚がぶれた。そこへ返しの左を腹へ叩き込む。浅い。鉄を殴ったみたいな硬さが拳から骨へ跳ね返る。
次の瞬間、機械の拳が肩口にめり込んだ。
「がっ――!」
身体が横へ吹き飛ぶ。壁へ叩きつけられ、肺が潰れる。白い壁面が鈍く鳴り、視界が揺れた。
それでも、落ち切る前に足を出す。床を滑る。止まる。すぐに前を見る。
プロトタイプは追ってくる。
今度は止めるためじゃない。潰すために間合いを詰めてくる。一定だった歩幅が、打ち込むための歩幅へ変わっていた。
「排除優先」
無双は短く息を吐いた。
やっぱりそう来るか。
だが、言葉にする暇はない。前へ出る。
無双は床を強く蹴った。
低く沈む。懐へ潜る。右、左、膝、肘。短い打撃を連ねる。脇腹へ、肩口へ、首元の可動部へ。全部硬い。浅い。流される。弾かれる。食い込まない。
プロトタイプの膝が跳ね上がる。
無双は腕で受けた。骨まで響く。そこへ肘が落ちる。肩でずらす。返しの拳が頬を掠める。熱い。さらに胸へ衝撃。息が詰まる。
今度のプロトタイプは、さっきまでと違う。
通路を塞ぐ位置取りより、無双の軸を崩す打撃が先に来る。
蹴りで足を払われ、片膝をつく。立つより先に拳が振り下ろされる。無双は転がった。床が砕ける。破片が頬を掠める。
排除するための一撃だった。
まともに食らえば、それで終わる。
無双は立ち上がりざま、懐へ入り直す。肩をぶつける。肘を打つ。首元へ伸ばす。浅い。硬い。返しの膝が腹へ沈む。身体が浮く。壁へ打ちつけられる。
押される。
しかも真正面から。
けれど、プロトタイプが本当に厄介なのはそこだけじゃない。
正面から殴り合えば重い。距離を取れば一気に詰める。受けに回れば、そのまま押し潰してくる。無双が焦るほど、こいつの強さははっきり見えてくる。
足を踏み換えるたび、白い床の反響が一拍遅れて返ってくる。
音の跳ね方が妙だった。広いはずなのに、どこかで通路ごと息を潜めているみたいに鈍い。機械の駆動音と、自分の呼吸だけが妙にはっきり聞こえる。
ここは戦いやすい場所じゃない。
研究所そのものが、侵入者の呼吸を歓迎していない。
無双は舌の奥で息を鳴らした。
もう一度、真正面から入る。
左を囮に見せ、右を胸へ。防がれる。すぐ足を踏み換え、肩へ当てる。流される。
硬い。
どこを打っても、浅い。
なら、散らさない。
無双は脇腹の継ぎ目へ狙いを絞り、その一点だけを続けて叩いた。
一発。
弾かれる。
二発。
肘が返ってくる。
三発。
膝が腹へ沈む。
それでも無双は止めない。
打ち返されても、押し返されても、また同じ場所へ踏み込む。
その中の一撃で、手応えが変わる。
鈍い鉄を殴った感触じゃない。ほんの少しだけ、奥へ沈む。
プロトタイプの頭部が半拍だけずれる。
無双は一歩引かされ、次の打ち合いでもう一度そこを打ち抜いた。
さっきと同じ鈍り方。
同じ半拍の遅れ。
「……ここか」
無双は狙いを変えない。
プロトタイプの攻撃は変わらず重い。
拳が飛ぶ。肘が落ちる。膝が跳ね上がる。
受けるたびに骨まで響く。
それでも無双は、同じ場所だけを追った。
弾かれても、崩されても、踏み込み直してまた叩く。
継ぎ目に火花が増える。
亀裂が細く走る。
関節音が濁り、頭部の向きがほんの少し遅れ始める。
「もう少し……!」
息と一緒に漏れる。
だが、そこで終わらない。
プロトタイプの反撃が一段重くなった。
踏み込みが変わる。さっきまでの排除行動が、今度は一点狙いそのものを潰す動きへ切り替わる。拳を内側から弾き、胸へ一撃。息が止まる。続けざまの膝が腹へ沈む。身体が浮く。さらに肩を掴まれ、床へ叩き落とされる。
白い床が激しく鳴った。
背中に衝撃が突き抜ける。
そこへ、追撃の拳が振り下ろされる。
無双は転がった。床が砕ける。破片が頬を掠める。立ち上がろうとした瞬間、蹴りが脇腹へ入った。身体が横へ滑る。視界が揺れる。喉の奥に鉄みたいな味が上がる。
それでも、無双は止まらない。
片膝をついて、まず息を整える。背中が痛い。肩も腹も痛い。だが、まだ動く。
前を見る。
プロトタイプが一定の歩幅で近づいてくる。今度は完全に、仕留めに来る足だった。
無双は立ち上がる。
真正面から入れば弾かれる。なら角度を変える。食らってでも内側へねじ込む。
プロトタイプの腕が振り下ろされる。
避け切らない。
肩を削らせる。焼けるみたいな痛みが走る。だが足は止めない。間合いの内側へ食い込む。今まで叩き続けた継ぎ目が目前まで迫る。
そこへ、もう片腕が横薙ぎに来た。
無双は身体を沈める。完全には避け切れず、背を強く擦られる。視界がぶれ、踏み込みかけた右足が半歩だけ流れた。
その半歩の遅れに合わせるように、プロトタイプの脚が前へ出る。
まだ仕留めるつもりだ。
まだ終わらせるつもりだ。
それでも無双は、流れた足をねじ込み直すように床を噛んだ。
右足が沈む。
腰が回る。
全体重を乗せた拳が、同じ一点へ突き刺さる。
「終わりだッ!!」
短く、鋭く。
甲高い破断音が通路に弾けた。
肩口から脇腹へ走っていた継ぎ目が一気に割れる。火花が爆ぜる。装甲の合わせ目が沈み、片腕の連動が崩れる。頭部の赤い光が激しく明滅し、脚の噛み合いも外れた。
「排除――」
「機能、――」
言い切れないまま、プロトタイプの巨体が斜めに傾く。
それでもまだ前へ出ようとした。最後まで、無双を排除しようとする。
無双はその肩を押し切るように、もう一歩踏み込んだ。
崩れた脚が耐え切れず、膝が落ちる。
白い床に重い音が響く。
そのまま、プロトタイプの巨体がとうとう前のめりに崩れ落ちた。
白い床が、もう一度重く鳴る。
無双は数歩よろめき、それでも倒れなかった。荒い呼吸のまま、目の前の残骸を見る。
強かった。
ちゃんと強かった。
それでも――倒れた。
無双はそこで初めて、握った拳にまだ力が残っていることを知った。
胸の奥を、遅れて熱い達成感が叩く。
やった。
そう叫ぶほど軽くはない。
けれど、確かに勝った。
一瞬だけ、無双の口元が上がる。
だが、すぐに表情を戻した。
法原も、セントリーも、もうその場にはいない。布武も別ルートを追っている。
無双は拳を下ろす。息を吸う。相変わらず綺麗には落ちない。それでも足を止める理由にはならない。
崩れたプロトタイプの横を抜け、研究所の出口へ向かって走る。
法原を今ここで追うには遅い。布武も別のルートを取っている。なら、このまま研究所の中を彷徨う方が悪い。
落ち合う場所は決まっている。
ヴァレンの研究所だ。
白い通路を抜ける。重い扉を押し開ける。外気が頬を打った。冷たいはずなのに、この土地の空気はやっぱりどこか薄汚れていて、胸の奥まで綺麗には落ちない。
見上げた先で、黒帳が夜みたいに世界を塞いでいた。
あの向こうに永遠がいる。
今は届かない。
法原にも、まだ届かない。
それでも足を止めれば、ここで全部が切れる気がした。
だから走る。
無双は研究所を離れ、ヴァレンの研究所へ向かって駆け出した。
荒れた地を蹴るその足音だけが、黒帳の縁に沈む世界へ、小さく吸い込まれていった。
(第十四話・終)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
更新強化期間中のため、次回も水曜に更新します。
次回、第十五話は
6月3日(水)20時10分に更新予定です。
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