第十三話 永遠は生きている
研究所の入口をくぐった瞬間、無双は顔をしかめた。
空気が違う。
冷たいわけじゃない。重いとも少し違う。息は吸える。けれど胸の奥まで綺麗に落ちてこない。喉のあたりで一度ひっかかって、身体の内側に薄い膜だけが残る。
「……なんだよ、これ」
漏れた声は、通路の奥へ吸われるように消えた。
音がない。
風も、虫も、木の軋みもない。壁も床も整いすぎていて、崩れてもいないのに、人の気配だけが抜け落ちていた。床には細い擦り跡があり、壁際には透明な管や用途の分からない器具が並んでいる。
これだけ広い施設なのに、人の気配がしない。
布武は迷わず奥へ進む。
「布武」
無双が呼ぶと、彼女は足を止めずに返した。
「……なに」
「平気か」
「平気ではないわよ」
返事は速かった。
「でも、こうなるのは分かってたもの」
「黒帳 《こくちょう》のせいか」
「ええ。近い場所ほど、気は練りづらくなる。土地も空気も引かれる。気術も乱れやすい」
布武は前を向いたまま言う。
「知っていた悪条件ってだけ」
「知ってて来たのかよ」
「立ち止まってる暇がないだけよ」
静かな言い方だった。
けれど、その静けさがかえって張りつめて聞こえた。
無双は試しに気を集めた。
両手に白炎が灯る。
だが、すぐに違和感が走った。
鈍い。
白いはずの炎が薄く濁って見える。
左に組んだ術式と右の出力が、合掌の前から噛み合わない。寄る前にずれる。無理に合わせようとした瞬間、磁石みたいな反発が走った。
「……っ」
無双はすぐ手を離した。
白炎がすっと消える。
掌に残る感触が気持ち悪い。自分の気のはずなのに、自分のものじゃない何かが薄く混ざったみたいだった。
「何度試しても駄目か……」
布武も一度だけ自分の掌を見下ろした。
彼女は驚かない。ただ確認している。
通路を折れた先で、二人は同時に足を止めた。
ガラスの向こうに、細長い筒が並んでいた。
人ひとりが収まりそうな大きさ。透明な外殻の内側に乾いた液体の跡が残り、管が何本も伸びている。足元には記録板のようなものが積み重なっていた。
「……カプセル、か」
無双の喉がひゅっと鳴る。
布武も立ち止まり、目だけを細くした。
「型は違う。でも系統は近いわね」
「……黒帳だけ見てたわけじゃねえな」
「……ええ」
それだけ言って、布武は先へ進んだ。
無双はもう一度だけ筒を見る。一本の内側に、薄く指の跡が残っていた。ぞっとした。
最奥へ続く通路だけ、白い灯りが点いていた。
そこだけが妙に整っている。壁には黒帳へ向けた観測図らしき線や数列が並び、机の上には記録板が何枚も広げられていた。足音のほかに音はない。だが遠くのどこかで、扉の閉まるような短い気配がした。
この場に見えている者だけが、研究所のすべてではない。
そう感じさせるには充分だった。
白い灯りの中央に、男が立っていた。
白髪。眼鏡。白衣に似た長い上着。眠たげな顔でこちらを見ているくせに、視線だけが異様に鋭い。
この研究所のどこよりも、こいつだけがいちばん目を覚まして見えた。
その半歩後ろに、セントリーが静かに控えている。
法原。
説明されなくても分かる。
この場所にいちばん似合っていて、いちばん似合ってはいけない男だった。
法原が口を開く。
「来たか。……思ったより早かった。布武、そして闘戦鬼」
無双の眉がぴくりと動いた。
その呼び方は、妙に腹の底に引っかかった。
自分の名前じゃない。別の何かとして見られている感じがした。
法原はそのまま無双へ視線を向けた。
「直接会うのは久しぶりだね。私のことは覚えているかね?」
無双は一拍だけ黙った。
記憶を探る。だが、引っかかるものはない。
「……悪いな。記憶にねえ」
法原は少しだけ目を細めた。
「そうかね」
それだけだった。
落胆でも怒りでもなく、ただ事実として受け取った声だった。
布武が間を置かずに言う。
「鍵を出して」
法原はあっさりと白衣の内側へ手を入れた。
取り出したのは、細い記憶媒体だった。
小さな板状の機器。金属の端子がついた、掌に収まる大きさ。
布武の目が、その小さな媒体に釘付けになる。
「それが」
「安全解除用パスワードが入っている。外部設備で照合すれば、指定したカプセルの封鎖が解ける」
「本物だと、すぐ信じると思う?」
「安心したまえ。私は意味のない嘘はつかない」
静かな声だった。
誠実さではなく、記録を読み上げるような静けさだった。
そう言って、法原は布武へ記憶媒体を投げた。
布武は片手で受け止める。
握る指先に力が入る。安心ではない。ただ、ようやく掴んだものを落とさないようにしているだけだった。
無双は法原ではなく、研究所の奥を見た。
「……さっきから気持ち悪ぃんだよ」
法原は少しだけ目を細めた。
「当然の反応だ」
無双の眉間に皺が寄る。
「なにがだ」
「当然だろう。ここは永遠の影響が濃い」
無双が止まった。
「……今、なんつった」
法原が少しだけ首を向ける。
「聞こえただろう」
「待て」
無双の声が落ちる。
「永遠は……まだ生きているのか」
布武も、そこで初めて法原を見た。
鍵を握る指先が止まる。
法原は、なんでもないことのように答えた。
「完全には倒れていない」
「なんで分かる」
「黒帳が残っているからだ」
「それがなんだよ」
「黒帳は永遠が作り出したものだからだ」
無双の思考が、そこで一瞬止まった。
黒帳がある。
今も、世界を断つ壁みたいにそこにある。
それが永遠の作ったものだというなら――
「……待て。じゃあ、俺は」
言葉の先が出ない。
倒したはずだった。
終わらせたつもりだった。
その“つもり”だけが、記憶の底に残っている。
法原は淡々と告げる。
「君たちは退けた。それだけでも偉業だが、完全な消滅には至っていない」
無双の拳が強く握られる。
永遠は終わっていない。
黒帳が、その証拠だ。
法原は、その反応さえ静かに見ていた。
「記憶が欠けても、そこは残るらしい」
「……っ」
無双は一歩前へ出た。
「終わってねえなら、終わらせるしかねえだろうが」
言葉が先に出た。
理由は全部思い出せない。なのに、その一点だけは身体の方が先に知っていた。
法原の目が細まる。
「なるほど」
その時、布武が記憶媒体を握ったまま、低く言った。
「さっき“指定した”と言ったわね」
「言ったが」
「……残りの鍵は」
法原は答えない。
代わりに、セントリーがわずかに前へ出た。
「距離を制限」
「不要な戦闘行動は推奨しない」
無双は目の前の機械を睨み上げる。
「邪魔すんなよ」
短い一言だった。
それだけで、場の温度が変わる。
セントリーは退かない。
その奥で、法原は二人を静かに見ていた。
その時だった。
白衣の内側で、小さく硬質な音が鳴る。
法原が片手を上げる。
掌の中に、薄い通信機が収まっていた。
布武の目が鋭くなる。
法原はその場で短く応じる。
「……法原だ」
「今か」
「……分かった。向かう」
通信はそれだけで切れた。
研究所の静けさが、逆に濃くなる。
「誰から」
布武が問う。
法原は通信機を仕舞い、淡々と答えた。
「上だよ」
その一言が、かえってこの男の位置をはっきりさせた。
無双の眉間に皺が寄る。
「逃がすと思うかよ」
「思わないね」
法原は少しも慌てていなかった。
「だが、今回はここまでだ」
布武が一歩踏み出す。
同時にセントリーが完全に前へ出て、二人と法原の間を塞いだ。
「経路を遮断」
「法原博士の移動を優先」
法原はそんなセントリーの後ろで、二人を見た。
「続きはまたにしよう」
その言い方が、無双には余計に気に入らなかった。
法原はわずかに視線を無双へ寄せる。
「残念だ。もう少し見ていたかったが」
「何をだよ」
「闘戦鬼の反応だ」
その一言で、無双の奥歯が鳴る。
「次は、好きに見られると思うな」
短く吐き捨てる。
法原の口元が、わずかにだけ上がった。
「それは興味深い」
隣で布武の気配がさらに鋭くなる。
二人とも、黙って見送る気はなかった。
法原は踵を返す。
「セントリー」
「了解」
機械の声が、研究所の静けさの中で滑る。
法原の背が、白い灯りの奥へ消えていく。
無双は拳を握り直した。
ここで終わる気はない。
終わらせる気もない。
だが、今この瞬間、目の前には確かな壁が立っていた。
セントリーが無音で構える。
布武が鍵を握る手に力を込める。
無双は低く息を吐いた。
そして、布武より半歩だけ前へ出る。
永遠は、まだ生きている。
黒帳が、その証拠だ。
――なら、今度は間違えない。
(第十三話・終)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
更新強化期間中のため、次回は少し早めに更新します。
次回、第十四話は
5月31日(日)20時10分に更新予定です。
続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




