第十二話 世界の縁
竹田の里を発ってから、七日が過ぎていた。
最初の一日は、まだ道に人の手の名残があった。
踏み固められた土に、荷車の轍が残っていた。水もうまくはないが飲めたし、夜になれば虫の音も聞こえた。
二日目には、畑が痩せはじめた。
実るはずの場所に、背の低い草しか生えていない。井戸の水は濁り、鳥の声も少なくなった。
三日目を過ぎる頃には、景色の方が露骨に変わった。
木は立っているのに枝先に力がなく、風に揺れるというより、かろうじて立っているだけに見える。湿り気を含んだ土は重たく、靴裏にまとわりついた。夜は妙に静かで、焚火の音だけがよく通った。
四日目には、道が道の顔を失った。
人が通っていたはずの幅は残っているのに、そこに通う者の気配がない。途中で一度、崩れた水車小屋を見た。水は流れているのに、回るべきものだけが止まり切っていた。
五日目には、匂いが減った。
草の青さも、土の湿りも、生き物の臭いも薄くなる。風は吹いているのに、何かを運んでくる感じがしない。
六日目の朝、無双は目を覚ました瞬間、胸の奥が重いことに気づいた。
息は吸える。だが、吸ったものが綺麗に身体へ落ちていかない。見えない薄布を一枚、口元に垂らされたみたいな息苦しさがある。
そして七日目。
空気は、もうはっきりと違っていた。
無双は歩きながら肩を回した。
「……ここまで来ると、さすがに嫌だな」
前を歩く布武は振り返らない。
「ここまで来たからよ」
「まぁ、そうなんだろうけど……」
「辛いのならおぶってあげるわよ」
言い方はいつも通りなのに、足の速さだけがずっと変わらない。
七日ずっとだ。
無双はその背中を見ながら、頭の後ろをかいた。
「なあ」
「なに」
「朝からとかじゃなくて、ずっと速いよな、お前」
「急いでるもの」
「そりゃ見ればわかる」
軽く返しても、布武は笑わない。
竹田の里を出る朝、バンブーは布武に言った。
『そいつを大事にしろ』
無双に向けた言葉ではない。
けれど、なぜかずっと耳に残っていた。夜営の火を挟んでも、歩く土が変わっても、あの一言だけは妙に消えない。
道端に、浅く水の溜まった窪みがあった。
無双はしゃがみ込み、そこを覗く。
濁っている。
底は見える。なのに、光だけが沈んでいかない。
「……なんだろうな、これ。水なのに水っぽくない」
「そうね」
布武が短く言う。
「飲めるのか?」
「すぐには死なない」
「その言い方、逆に怖いな」
無双が立ち上がると、布武は前を見たまま続けた。
「近い土地は、こうなる」
「何に」
少し間が空く。
「黒帳に」
七日歩いても、まだ黒帳そのものは見えていない。
けれど、見えていないから軽いわけでもなかった。
近づいている。
景色の方が、それを先に言っている。
風が吹く。
頬を撫でるだけなのに、触れたところに薄い膜が残る。
息は吸える。だが、吸うたびに少しだけ身体の奥が重くなる。
無双はしばらく黙って歩いてから、ぽつりと言った。
「里、思ったより遠いな」
「戻りたいの?」
「そう聞こえたか?」
「少し」
無双は肩をすくめた。
「戻りたいっていうより、離れてからわかることもあるなって思っただけだ」
「なにが」
「ましだったんだなって。空気も、水も、飯も」
布武は何も言わなかった。
だが、歩幅がほんの少しだけ緩んだ。
無双はその横顔を見ないまま続ける。
「……あと、人もな」
それにも返事はない。
けれど、完全な無反応とも少し違った。
竹田の里は、休んだ場所だった。
飯を食って、眠って、立てるかどうかを見られて、それでも行くなら行けと送り出された場所だ。
帰る場所。
そう呼ぶにはまだ照れくさい。
だが、七日も歩けば、その言葉がじわじわ後ろからついてくる。
「なあ、布武」
「なに」
「法原を追うの、手がかりがあるからだけじゃないだろ」
布武は今度もすぐには答えなかった。
七日分の焦りが、そのまま沈黙になったみたいだった。
無双は続ける。
「手がかりを掴んだのが大きいのはわかる。でも、それだけじゃない顔してる」
布武の足は止まらない。
だが、声だけが少し遅れて落ちた。
「……怖いのよ」
無双は少しだけ目を瞬いた。
「何が」
布武は前を見たまま言った。
「ヴァレンの言う猶予も、残り二年あるはず。……でも、そんなの信じきれてるわけじゃない」
風の音が、そこで一度だけ強く通った。
「手がかりを探してる間に、もう手遅れになってるんじゃないかって、ずっと不安だった」
無双は何も挟まなかった。
布武は続ける。
「法原を追ってる間に、もし誰かが死んだらって考えると……止まりたくない」
そこで、少しだけ間が空いた。
「……私、本当に怖いのよ」
その言い方は大きく揺れていなかった。
泣きそうでも、縋るようでもない。
ただ、削って削って最後に残ったものだけを、そのまま出したみたいな声だった。
無双は前を向いたまま息を吐く。
布武はヴァレンを信じ切ってはいない。
けれど、恩がないわけでもない。仲間を延命してくれたことも、無双を鍛えてくれたことも、布武の中ではちゃんと残っている。
そのうえで怖いのだ。
猶予が本当にあるのか分からないまま、探しているこの時間そのものが。
「……借りは返して終わる、だったか」
無双が言うと、布武がちらりと見る。
「覚えてたの」
「忘れる方が難しいだろ。お前、そういうのだけ妙に芯があるし」
「そういうのだけ、は余計」
「でもそうなんだろ」
布武は少しだけ肩をすくめた。
「兄の教えだから」
それ以上は言わない。
でも、その短さが妙に残った。
無双は頬をかいた。
「……わかった」
「何が」
「わかった気にはならないけど、お前が無茶して急いでるんじゃないのはわかった」
「偉そう」
「実際、今の返しはちょっと偉かっただろ」
「自分で言うのがいちばん駄目」
口元だけ、ほんの少し緩む。
その先で、道が開けた。
低い丘の向こうに、小さな集落が見えた。
五、六軒の家が寄り集まっただけの場所。柵もある。井戸もある。屋根も落ちていない。
遠目には、ただ古びただけに見えた。
近づくほど、おかしかった。
音がない。
鳥の声も、鍋の音も、戸を開ける音もない。
暮らしの形はあるのに、そこにあるはずのものだけが綺麗に抜け落ちている。
無双は足を止めた。
「……なんだ、ここ」
家の前に木桶がある。
干しかけの布が竿に半分だけ残っている。
扉は一枚、開いたままだ。
土間には食器が置かれ、壁際には仕事道具が立てかけられている。
争った跡はない。
壊された跡も、焼けた跡もない。
人だけがいない。
無双は井戸の脇まで歩いた。
縄が垂れている。桶もある。ついさっきまで使っていたように見えるのに、桶の縁についた泥だけが乾ききっていた。
家のひとつを覗く。
椅子は倒れていない。
机の上には、皮を剥きかけた根菜が一つ、包丁の横に残されていた。黒ずんで、干からびている。
「逃げたにしちゃ、途中すぎるな」
「ええ」
布武の返事も短い。
「置いていくなら、もっと持っていくだろ。これ」
「普通ならね」
無双は家の奥へ目をやった。
壁には、子どもの背丈を刻んだような傷が残っている。
小さな手で触ったみたいな汚れもある。
そこまで見て、眉をひそめた。
「……獣もいないな」
布武が視線を動かす。
「鶏小屋はあるのに、羽一枚ない。犬がいたなら鎖くらい残る。けど匂いもしない」
人だけじゃない。
暮らしていたものが、気配ごと抜け落ちている。
その時、布武が一軒の家の前で足を止めた。
「布武?」
返事はない。
布武の視線の先、軒先の柱に、何本もの線が刻まれていた。
背丈の印じゃない。浅く、短く、何本も。爪で削ったみたいな傷だ。
無双は黙って近づく。
一番下の一本は低い。
その上に、少し高いのが三本。
さらにその上に、乱れた傷がいくつも重なっている。
誰かが外へ出ようとして、そこで止まったみたいだった。
無双の喉が小さく鳴る。
風が家々のあいだを抜ける。
どこかで戸板が、ぎ、と鳴った。
誰もいない。
なのに、誰かが息を潜めて見ていたみたいな気配だけが残っている。
「……行くわよ」
布武の声は低かった。
それ以上ここを見たくないのがわかる声だった。
無双も何も言わず頷く。
二人は集落を抜けた。
見えなくなってからも、背中にまとわりつく静けさはしばらく消えなかった。
嫌な感じを振り払うように、無双は手を開いた。
左手に気を寄せる。
白炎が灯る。
だが、鈍い。
いつもならもっと素直に立つはずの火が、湿った芯に無理やり火を移したみたいに細く揺れた。
右手にも気を乗せる。
白炎は出る。だが、左右の圧が妙に噛み合わない。
「……は?」
合掌へ寄せる前から、ずれている。
無理に合わせようとした瞬間、ぱし、と反発が走った。
無双が手を離すと、布武ももう試していた。
両手に白炎が灯る。
白さは同じだ。なのに、どこか薄く濁って見える。
圧が綺麗に立たず、左右が擦れ合っているみたいに揺れる。
布武は合掌の手前で止めた。
白炎がふっと消える。
「気持ち悪いわね」
「お前もか」
「集まりにくい」
布武は自分の手を見たまま言う。
「それだけじゃない。混ざる」
「混ざる?」
「自分の気じゃない感じがする」
無双はもう一度だけ試した。
やはり駄目だった。
自分のもののはずなのに、途中でよその流れが一瞬だけ擦れる。
触れたくない水に指を入れた時みたいな、生理的な嫌さがある。
「黒帳のせいか」
「そうね」
布武が顔を上げる。
「わかってはいたけど、今は気術を使えないわ」
それだけ言って、布武はまた前を向いた。
そこから先は、言葉が減った。
崖が増えた。
森は深いのに、息づいている感じが薄い。
岩肌に走る裂け目の一本だけが、不自然なくらい真っ直ぐだった。
やがて布武が足を止める。
無双もその隣に並んだ。
崖と森の向こう。
岩の影に溶け込むように、直線がいくつも潜んでいた。
隠しているのではない。
最初から景色のふりをして、そこにいたような馴染み方だった。
「……あれか」
「研究所」
布武が低く言う。
無双は唾を飲み込んだ。
嫌な場所だ。
見えただけでわかる。
死んだ建物の静けさじゃない。音も灯りもないのに、まだどこかが息をしている。
輪郭を追った瞬間、もっと嫌なことに気づく。
壁の線が、崖の線と噛み合いすぎている。
蔦の流れが、隠すためというより、そこへ目を導くみたいに這っている。
自然に紛れているんじゃない。自然の方を寄せて、そこに従わせたみたいだった。
「……気味悪ぃ」
その時だった。
研究所の先、崖の向こうで、空が切れた。
無双は息を呑んだ。
地平の果てにあるはずのものが、遥か向こうで、なお大きく世界を断っていた。
黒い。
ただ黒いだけなら夜と同じだ。
けれど、あれは違う。
空を喰っている。
光を呑んでいる。
遠くにあるのに、そこから先の世界そのものを拒んで立っている。
黒い幕。
黒い壁。
黒い断絶。
風が吹く。
こちらには触れる。
なのに、あちら側からは何も返ってこない。
空が続いているはずなのに、そこだけ先がない。
遠い。遠いはずなのに、見ているだけで身体の奥が縮む。
行くな、と。
近づくな、と。
向こう側には居場所などないと。
無双の喉が、ようやく動いた。
「……あれが、黒帳」
声は、勝手に小さくなっていた。
布武は答えない。
ただ、まっすぐにその黒を見ている。
研究所は、その手前にあった。
黒帳を避けて建てられたんじゃない。
あれを見据えるために、そこを選んだみたいに。
法原は、こんな場所にいる。
ここまで来るつもりではいた。
けれど、来るのと、目の前に在るのとではまるで違う。
「……これが、世界の縁かよ」
返事はない。
あるのは、息を呑む音だけだった。
足元の土は冷え、空気は重く、気術の感触はなおさら悪い。
それでも、前にある。
研究所が。
黒帳が。
法原が。
布武が一歩、前へ出た。
その小さな背中を見た瞬間、無双は里を出る朝のバンブーの言葉を、別の重さで思い出した。
『そいつを大事にしろ』
無双は何も言わず、その隣に立つ。
来るしかないのだと、もう分かっていた。
分かっていても、喉の奥は乾いたままだった。
二人はしばらく動けなかった。
世界の端が、そこにあった。
(第十二話・終)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
更新強化期間中のため、次回は少し早めに更新します。
次回、第十三話は
5月27日(水)20時10分に更新予定です。
続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




