第十一話 見極め
朝の空気は、昨日より少し冷えていた。
竹田の里の朝は早い。
戸が開く音。井戸へ向かう足音。鍋の蓋が鳴る音。箒が石を掃く音。
まだ薄い光の中で、人が生きる音だけが静かに重なっていく。
無双は荷をまとめながら、縁側の先を見た。
石畳の道を、朝の仕事へ向かう者たちが行き交っている。荷を抱えた男。桶を運ぶ女。眠そうな子どもを連れた母親。昨日まで火と血の匂いの中にいたのに、今日はこうして普通の朝が流れている。
「……変な感じだな」
無双が言う。
後ろで身支度を整えていた布武が目を向けた。
「何が?」
「昨日まで港で火の中にいたんだぞ」
無双は苦笑した。
「なのに今日は、こんな普通に朝だ」
布武は少しだけ視線を外した。
「普通の朝を守るために、こういう場所があるのよ」
声は淡々としていた。
だが、その奥の硬さを無双は感じた。
布武はこの里の必要性をわかっている。帰る場所を無くした者を受け入れ、立て直し、また前へ送り出す場所。必要なものだと、頭では理解している。
それでも心のどこかは、もう先へ行っていた。法原のところへ。足を止めるには、焦りが強すぎる。
無双はその横顔を見た。
「……行くんだろ」
「ええ」
「なら、行こうぜ」
無双は立ち上がる。
「休ませてもらった分まで、ちゃんと進まないとな」
布武は一瞬だけ無双を見た。
何か言いかけて、やめた。
その時、廊下の向こうから重い足音が近づいてきた。
どん、どん、と床板が鳴る。
迷いのない、重い足音だった。
障子が開く。
朝の光を背に、グランツ・バンブフィールドが立っていた。
「支度は済んだか」
「まあな」
無双が答える。
バンブーの目が、二人を順に見る。
短い視線だった。だが、その一瞬で何をどこまで見られたのか、無双にはわからない。ただ、疲れも迷いも、胸の中まで見透かされた気がした。
「来い」
「……どこに?」
「広場だ」
それだけ言って、バンブーは背を向けた。
説明はない。ついて来いという背中だった。
無双と布武は顔を見合わせてから、その後を追った。
***
竹田の里の中央広場は、朝の光を受けて白く開けていた。
周囲の店先では、一日の支度が始まっている。荷車を寄せる者、看板を出す者、井戸水を運ぶ者。
だが、バンブーが広場の真ん中まで進んだところで、何人かが手を止めた。
「またオヤジが始めたか」
「朝からかよ」
「……あの二人相手に?」
そんな声が小さく飛ぶ。
朱里が真っ先に駆けてきた。
「え、なになに!? 朝から手合わせ!?」
その後ろでは、バルスターが腕を組んだまま静かに立っている。止める気はない。意味があるとわかっている顔だった。
広場の中央で、バンブーが振り返る。
無双と布武の前で止まり、地に根を張るように立った。
「何だよ」
無双が眉を上げる。
「見送りじゃないよな」
バンブーは少しだけ口元を歪めた。
「見送りみてえなもんだ」
「は?」
「ただし、口だけじゃ済まさねえ」
一歩、踏み込む。
それだけで、空気が変わった。
広場から生活の音が遠のく。
目の前の男だけが急にはっきりする。
大きい。重い。強い。
そんな言葉では足りない。立っているだけで、その場の空気が戦いの形に整えられていく。
昨日までの優しい里長ではない。もっと根の深いところに、戦場を知る人間の圧があった。
無双の喉が無意識に鳴る。
バンブーは静かに言った。
「俺にお前たちの力を見せてみろ」
声は大きくない。
だが、広場の空気を全部こちらへ向けるだけの重みがあった。
布武の目が細くなる。
「……見せなければ、行かせないつもり?」
「逆だ」
バンブーは答える。
「見た上で決める」
無双は息を吐いた。
妙に腑に落ちる。
この男は、止めるために立っているんじゃない。
送り出すために立っている。
「なるほどな」
無双は口の端を上げた。
「じゃあ、遠慮はいらねえってわけか」
「最初からするな」
無双は笑った。
「言うじゃねえか、オヤジ」
布武が一歩前に出る。
「無双」
「ああ」
短い返事だけで通じる。
呼吸を合わせる。足の位置をずらす。視線の高さが揃う。
バンブーが片手を軽く上げた。
「来い」
次の瞬間、無双の身体が先に動いた。
地を蹴る。
石畳を滑るように詰め、低く潜り込む。正面から相手の圧を測るように踏み込み、その視線を割る。
同時に布武が右へ流れた。挟み込む角度。自然に噛み合った連携だった。
無双の拳が胸元を狙う。
布武の蹴りが膝を払う。
上下二段。
バンブーは動かない。
いや、動いていないように見えて、もう捌いていた。
無双の拳を肘の角度ひとつで外し、布武の蹴りを体重移動だけで空へ逃がす。大きな身体なのに、全部が早い。しかも無駄がない。
「ちっ」
無双は拳を引いて踏み込み直す。
肩。喉元。脇腹。細かく散らす。
布武がそこへ合わせた。無双の打点に重ならない軌道から、鋭く掌を差し込む。
また外される。
だが今度は見えた。
この男は、ただ避けているんじゃない。
受ける、流す、見せる。その全部に意図がある。
「無双、下がって」
布武の声。
無双が反射で退く。
次の瞬間、ついさっきまで胸のあった位置を、バンブーの拳が風ごと貫いた。
重い。
当たっていたら、それだけで終わっていた。
無双の背中に冷たい汗が走る。
けれど怖さの奥で、別の熱が灯る。
強い。
真正面からぶつかるには、まだ遠い。
でも見えない相手じゃない。
「布武、合わせろ!」
「ええ」
無双が左に走る。
布武が右から詰める。
二人が作るのは包囲ではない。視線の分断だ。どちらかを見れば、どちらかが死角に近づく。
布武の両手に白炎が灯る。
左に知識、右に威力。圧が高まる。
無双はそれを見た瞬間、あえて正面から踏み込んだ。
バンブーの視線が、無双へ向く。
布武が合掌へ入る。
白炎が重なり、すっと消える。
直後、石畳を裂くような細い衝撃が地を走った。
直撃ではない。
足場を削る、進路を制限する一手。
バンブーの体重が、わずかに正面へ流れる。
その一瞬だった。
無双が低く沈み込み、そのまま横へ抜ける。
さらに一歩。もう一歩。
巨体の死角へ、背後へ。
取った。
大柄な背が眼前にある。
ここなら届く。
無双の両手に白炎が灯る。
荒い。だが強い。記憶の欠けた術式を、勘と身体で無理やり噛み合わせていく。
左手に知識。右手に威力。
反発寸前で押し込み、釣り合わせる。
無双は低く潜り込み、左掌が腰の上の背面へ届く間合いまで滑り込む。
右掌を左手甲へ押し立てれば、背面側から芯へ衝撃を通せる。
破界力。
ここで決めれば、一撃になる。
だが――
その寸前で、無双の指先が止まった。
おかしい。
背後を取ったはずなのに、取った感触がない。
隙を突いたんじゃない。隙を与えられている。
この男は避けられた。
さっきまでの動きなら、半歩で外せた。
なのに避けない。いや、避けずに待っている。
わざとだ。
無双の合掌が止まる。
白炎が揺れる。反発しかけて、ぎりぎりで踏みとどまる。
広場の空気が止まった。
背を向けたまま、バンブーが言う。
「どうした」
無双は眉を寄せたまま答える。
「……わざとだろ」
「何がだ」
「避けなかった」
無双は白炎を散らし、手を下ろした。
「今の、取らせたな」
一拍。
その直後、バンブーが腹の底から笑った。
「がははははは!」
広場に響く、大きな笑い声。
里の者たちが目を丸くする。朱里が「うわ、めっちゃ笑ってる!」と叫ぶ。
バンブーは振り返った。
その目には鋭さと同じくらい、愉快さがあった。
「いい目してやがる」
無双を指さす。
「背中を取って終わりじゃねえ。違和感を拾って、手を止めた。しかも誤魔化さねえ」
「誤魔化せるかよ」
無双は肩をすくめた。
「変だったから止めただけだ」
「そこがいい」
無双の胸が少し熱くなる。
だが、その空気を裂くように、布武が前へ出た。
「まだ終わってない」
低い声だった。
次の瞬間、布武が踏み込む。
速い。鋭い。一直線。
さっきまでの連携とは違う。無双と合わせるためではなく、自分の焦りごと前へ押し込むような踏み込みだった。
無双が目を見開く。
「布武!」
布武の両手に白炎が灯る。
圧が一気に高まる。速い。強い。だが、急ぎすぎている。
バンブーの笑みが、すっと消えた。
布武が合掌へ入る前に、その手首が太い指に掴まれる。
強引ではない。だが、逃がさない。
「急ぎすぎだ」
低い声。
布武の目がわずかに揺れる。
「……離して」
「焦るな」
「焦ってない」
「嘘つけ」
短い一言だった。
だが、その言葉は拳より深く刺さった。
布武の白炎が乱れる。
左右の圧がずれる。
合掌しようとした手が、磁石のように反発した。
失敗。
小さく息を呑む音が、広場のどこかで鳴った。
布武の指先がわずかに震える。
悔しさより先に、見抜かれたことへの硬さが走っていた。
バンブーはその手を離した。
「立ってる。動ける。だが治っちゃいねえ」
布武は何も言わない。
「身体じゃねえ。心の方だ」
その一言で、広場の空気が変わる。
無双が一歩前へ出る。
庇うためではない。ただ、そこに立たなきゃいけない気がした。
バンブーは無双の気配を横目で捉え、ふっと鼻を鳴らす。
「……まあいい」
追及しない。
暴かない。
見えたものを全部は言わない。
それが逆に重い。
バンブーは二人の前から一歩下がった。
「試しは終わりだ」
「早えな」
無双が言う。
「十分見た」
「で?」
無双が問う。
「合格かよ」
バンブーは無双を見る。
次に布武を見る。
最後に二人を並べて見た。
「行ける」
静かに言った。
「危なっかしい。だが、止めるほどじゃねえ」
無双が息を吐く。
布武の肩からも、わずかに力が抜けた。
バンブーは腕を組んだまま続けた。
「こっちから手を貸す必要はあるか」
それは協力の申し出だった。
人手でも、道でも、必要ならもっと別のものでも出すと言える声だった。
無双は布武を見た。
布武も無双を見る。
短い視線の交差。
先に答えたのは布武だった。
「いらない」
きっぱりと言う。
「自分たちで行く」
無双も頷く。
「ああ。ここまでしてもらって、十分だ」
布武が小さく息を吐く。
それから、いつもの調子で言った。
「……借りは返して終わるものよ」
その一言で、バンブーの目が止まった。
ほんのわずか。
だが今まででいちばん深く、布武を見る。
「……やっぱりな」
低く落ちた声に、布武は何も返さない。
ただ、指先だけがわずかに強く握られた。
バンブーはそれ以上追わない。
「そうか」
それだけ言って踵を返しかける。
だが、二歩目の前で止まった。
振り返らないまま、布武へ言う。
「事情があるんだろうが――」
そこで一度、間が落ちる。
「そいつを大事にしろ」
無双が目を瞬いた。
「そいつ?」
「お前だ」
バンブーはあっさり言う。
無双は「何で俺?」という顔をする。
だが布武は、笑わなかった。
その言葉が真っ直ぐ刺さったのだと、無双にもわかった。
布武は一瞬だけ目を伏せる。
「……わかってる」
小さい声だった。
だが、その返事だけは取り繕っていなかった。
バンブーはもう何も言わない。
振り返らずに歩き出す。
朱里が駆け寄ってきて、無双の腕をぶんぶん振った。
「見た!? 今の見た!? 背中取ったのに止めた!」
「近い、うるせえ」
「でもオヤジ、めちゃくちゃ気に入ってたよ!」
「……それは見りゃわかる」
バルスターが静かに近づいてくる。
「いい送り出しになったな」
「送り出し、か」
無双が呟く。
勝った負けたじゃない。
見られた。量られた。確かめられた。
その上で、行けと言われた。
広場の向こうでは、もう日常が動き出している。
荷車が進み、店が開き、朝の匂いが広がる。
竹田の里は、今日も変わらずそこにある。
昨日は、ただ温かい場所だと思った。
今は違う。
ここは、立てなくなった者を休ませるだけの場所じゃない。
立てるかを見て、それでも前へ行く者を送り出す場所だ。
「行くよ、無双」
布武が言う。
無双は頷いた。
二人は荷を持つ。
広場を出る前に、無双は一度だけ振り返った。
人混みの向こうに、バンブーの大きな背中が見えた。
まだ行かなきゃならない。
法原のところへ。
確かめるために。終わらせるために。
それでも――
帰る場所は、できた。
無双は前を向く。
布武と並んで、朝の里を抜けていく。
背中に残るのは、試された感触と、認められた重さ。
その奥で、布武の言葉だけが、静かに引っかかっていた。
(第十一話・終)
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