第十九話 取り戻す形
研究所の外は、よく晴れていた。
木々の間を抜ける風が、乾いた土の匂いを運んでくる。ヴァレンの研究所は静かで整っていて、嫌な感じはしない。けれど、こうして地上に出ると、胸の奥の詰まりが少しだけほどける気がした。
研究所から少し離れた場所に、開けた空き地がある。訓練場というほど整えられてはいないが、足場は悪くなく、身体を動かすにはちょうどいい。
ベルガンドへ向かうと決めた、その翌日だった。
ヴァレンは朝から資料の山に埋もれていた。法原、幻成学府会、ベルガンド、残る鍵。洗い直すものが多すぎるらしく、こちらを見もせず「体を動かすなら外でやれ」とだけ言った。
継真は一人、先に外へ出ていた。
右足。左足。半歩引いて、重心を落とす。そこから斜めに流れて、止まり、また体重を乗せ直す。
歩幅が違う。
腕の長さも違う。
重心も、昔の感覚のままでは少しずれる。
だから、一つずつ確かめる。
急いで戻したつもりでも、実戦で狂えば意味がない。
後ろから足音が近づいてきた。
継真が振り返ると、無双と布武がこちらへ歩いてくる。
無双が手を軽く上げた。
「俺たちもリハビリに付き合うぞ」
継真は少しだけ目を丸くした。
「……いいのかい?」
無双はにこっと笑った。
「当然だろ。気にするな」
布武が静かに言う。
「ええ。遠慮することはないわ」
継真は二人を見て、それから小さく息を吐いた。
「……じゃあ、甘える」
「で、まず何するんだ」
「まずは確認かな。今の身体で、どこまで前と同じように動けるか」
「地味だな」
「地味に見えるところからやらないと、あとで困る」
そう言って、継真はもう一度足を運ぶ。
無双はその様子を見ながら、少しだけ目を細めた。
「……継真、思ったより普通に動くな」
「まだ違和感はあるよ。だから先に確かめてるだけ」
「それでそこまで動けるなら、十分すごいだろ」
継真は少しだけ笑った。
「これはまだ準備運動みたいなものだけどな」
その横で、布武が口を開く。
「継真はそういうの得意でしょ。身体を見るのも、使い方を探るのも」
「……医者だからね」
「なるほどな」
無双は素直に頷いた。
「今後を考えると、継真が戻ってくれたのは助かる」
継真の表情が、ほんのわずかに止まる。
その横で、布武が静かに言った。
「ええ。戦力としてかなり大きいわ」
継真がそちらを見る。
布武はまっすぐ返した。
「今の私たちに、一番足りないところを埋められるのは継真だけだもの」
継真は小さく息を吐いた。
「……じゃあ、少しは応えないとな」
両手に白炎が灯る。左に知識、右に威力。膨らんだ圧が静かに釣り合い、合掌の瞬間に白炎が重なって消えた。
発動したのは、ごく基本的な番内だった。
派手さはない。けれど、立ち上がりが綺麗だ。無駄がなく、すっと通る。
「速いわね」
布武が言う。
「うん。綺麗だ」
無双も頷いた。
「継真らしい」
「二人もやる?」
「やる」
無双が即答し、布武も前に出る。
三人が同じ番内を使う。
同じ理屈のはずなのに、見え方はまるで違った。
継真のものは滑らかで、淀みがない。
布武のものは細く鋭く、発動前から静かに張っている。
無双のものは真っ直ぐで、噛み合った瞬間にそのまま前へ押し出すような強さがあった。
「同じでも、全然違うんだな」
「番内は共通技術だからね」
継真が答えた。
「理屈の上では誰でも習得できる。でも、覚えるには練習がいるし、使い方にも癖が出る」
「“誰でも使える”と“誰でも同じように使える”は別よ」
布武が続ける。
「なるほどな」
無双はもう一度、自分の掌を見る。
ただ出せればいいわけじゃない。出し方に、そのまま性格が出る。
「無双は、覚えている気術をそのまま使ってる感じが強いな」
継真が言った。
「どういう意味だ?」
「出す時に迷いが少ない。身体が先に思い出してる感じだ」
「……そういうものか」
「たぶん。今の無双は、使えるものに偏りがあるんだと思う」
無双は少しだけ考え込んだ。
言われてみれば、たしかにそうだ。雷砲も、破界力も、自然に出る。だが、それ以外を探そうとしても、何を探せばいいのか分からない。
「じゃあ、今は覚えてなくても、教われば使えるようになるのか」
「可能性はある。でも、少なくとも今すぐは難しいと思う」
「そっか」
無双は素直に頷いた。
少しだけ黙ってから、継真を見る。
「……じゃあ次は、継真の番外が見たい」
継真の指先が、ほんの少しだけ止まった。
「番外?」
「ああ。《深命の理》と《命癒の理》」
継真は無双を見返す。
無双は肩を竦めた。
「気になったんだ。あれ、どういう理屈なんだ?」
布武が横で、ほんの少しだけ目を細める。
継真は少し黙ってから、静かに答えた。
「……身体のことが分かってないと使えない」
「身体のこと?」
継真は自分の腕に触れた。
「骨がどう組まれてるか。筋がどう走ってるか。どこがどう傷んでるか。そこが分からないまま触れば、治すどころか壊す。見えてないものに気術だけ流しても意味がない」
無双は小さく息を吐く。
「なるほど……それは簡単に真似できるもんじゃないな」
「そうだよ」
短い返事だった。
でも、その短さの方が重かった。
「幼い頃、灯影を助けたくて、医者を目指した。診るだけじゃ足りないと思って、手術も覚えた。身体の中で何が起きてるか知らないまま、助けるなんてできなかったから」
少しだけ風が強くなる。
継真は、そのまま続けた。
「《深命の理》も、《命癒の理》も、気術だけでできてるわけじゃない。俺が医者として積み上げてきたものが、そのまま番外になっただけ」
無双は黙って継真を見ていた。
布武も、何も言わない。
「本当は、できるだけ灯影のそばにいたいんだ」
継真がぽつりと続けた。
「装置の前で、起きるのを一番近くで待ってたい。……でも、それじゃ守れない」
そこで初めて、声が少しだけ揺れた。
「ここで止まっていても、灯影は起きない。だから俺は戻る。守るために、戦える形に戻る」
布武の目が静かに細くなる。
無双はゆっくり息を吐いた。
「……そりゃ、真似できねぇな」
「ん?」
「今の話、全部込みでだよ。技だけじゃなくて、そこまでやって今の番外なんだろ」
無双は少しだけ笑った。
「今の説明を聞いたら、簡単に教えてくれとは言えない。そこはわかった。でも、継真の力がすごいと思ったのは本気だ」
継真が一瞬、言葉を失う。
それから、ほんの少しだけ照れたように目を逸らした。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
その空気を見て、布武がどこか懐かしそうに笑う。
「昔、一度だけ、みんなでやろうとしたことがあったの」
「何を?」
「互いの番外を教え合うこと」
継真が答えた。
「使える番外を増やせば、もっと強くなれるんじゃないかって」
無双が目を瞬く。
知らない話だ。けれど、知らないはずのそれが妙に遠くない。
「結果は、誰一人できなかった」
「言い方が重いな」
「でも本当にそうだったんだよ」
継真が少し笑う。
「誰も他人の番外を使えるようにはならなかった。俺のもそうだし……無双の《破界力》も、レッドオーガの誰も使えなかった」
「……そうなのか?」
「ええ。教わりはした。でも、最後まで形にならなかった」
布武が静かに目を伏せる。
継真の視線は、無双へ戻った。
「無双は、すごく悔しがってたよ」
その一言が、胸の奥に落ちた。
記憶はない。
ないはずなのに、ざらりとした熱だけが胸の底に引っかかる。
うまくいかないことに腹を立てて、それでも諦めずに何度もやっていたような、知らないのに懐かしい感覚だった。
「……覚えてねぇのに」
無双は少し視線を落とした。
「嫌なくらい、懐かしいな」
風の中へ零れるような声だった。
無双はそのまま布武を見る。
「……布武は覚えてるのか」
布武は少しだけ間を置いた。
「あったわね」
声は静かだった。
でも、その静かさの奥に温度がある。
「大切な思い出よ」
それだけで十分だった。
無双の知らない過去が、確かにそこにあるのだとわかる。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
少しのあいだ、誰も喋らなかった。
やがて継真が息を吐く。
「……一人で確認するのは限界があるし、よかったらどちらかに、少し組み手に付き合ってほしいな」
「どちらか、ね」
布武が言う。
「うん」
継真はそこで、ふと首を傾げた。
「……そういえば」
「何かしら?」
「無双と布武って、どっちが強いんだ?」
一拍。
それから、ほとんど同時だった。
「俺」
「私」
継真が目を瞬く。
「……そんなに迷わないんだな」
無双が布武を見る。
布武も無双を見る。
「気力量は俺の方が上だろ?」
「気力量は強さの一つの目安よ。……でも、それより大事なのは精密さ。気力制御は私の方が上」
「俺だって、それなりに気力制御できてるぞ」
「ええ。それなりにはね。でも、私には及ばない」
「それこそ、何を根拠に?」
「気力を練るときの初動が雑」
「ぐっ!」
継真が思わず目を瞬かせる。
今のは、かなり効いたらしい。
無双は咳払いひとつして、すぐに立て直した。
「……なら、俺と組み手しようぜ。めんどくせぇ口論より、結果が全てだ」
布武が片眉を上げる。
「なんで、私が無双と組み手しないといけないの」
無双が、にやっと笑った。
「ほぉ~」
からかうような、試すような声だった。
「何? その顔」
無双は何も言わない。
ただ、その笑みだけで十分だった。
布武の目がすっと細くなる。
穏やかな顔つきは崩れていないのに、その奥だけが明らかに変わる。
「いいわ。後悔しても知らないわよ」
布武が半歩下がる。
その一歩で、場の空気が変わった。
冗談半分の言い合いは、もう残っていない。
「……継真もいるし、多少は遠慮しなくてよさそうね」
穏やかな声音だった。
けれど、その中身が穏やかじゃないことくらい、無双にも継真にもわかった。
無双は口元を上げる。
「布武こそ、自分の心配した方がいいんじゃないか」
布武の目が、すっと細くなる。
「へえ」
たったそれだけで、継真は息を止めた。
「……あれ?」
思わず声が漏れる。
「俺との組み手は? リハビリは?」
どちらも聞いていない。
二人の視線は、もう完全に正面で噛み合っていた。
継真はさっと数歩下がった。
巻き込まれない位置まで退く。それだけで精一杯だった。
無双と布武の間の空気が、目に見えないまま張りつめていく。
さっきまでの言い合いの熱とは違う。
もっと静かで、逃げ場のない張りつめ方だった。
無双はわずかに腰を落とす。
目から、さっきまでの笑いが消えている。
布武はいつもの柔らかさを崩していない。
けれど、重心だけが静かに沈む。
ただ立っているだけなのに、間合いの輪郭が急にはっきりした。
風が止む。
次の瞬間、二人の気力があふれた。
熱を帯びた圧が、肌の外へ滲み出る。
見えないはずの力が、陽炎みたいに体の輪郭を揺らしていた。
無双のそれは真っ直ぐに噴き上がり、布武のそれは鋭く静かに張りつめる。
継真はごくりと唾を飲み込んだ。
無双のつま先が、わずかに土を噛む。
布武の指先が、静かに開く。
次の瞬間――
(第十九話・終)
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