第19話 ディスタンス
私には婚約者がいる。
桜木さんは、きちんと理解して振る舞ってくれる紳士だ。ディスタンスに気を遣ってくれた。
だけど、さすがにガラス張りのミーティングルームで喋れる内容ではなくなっていた。
機密保持のために、作業用の小部屋が与えられたのは、少し前の話。
直接の上司と私たち二人のIDカードがないと立ち入りできない場所だ。
桜木さんと、長時間の二人きり。だけど、一切「そういう雰囲気」を見せないのは、さすが、だと思う。
「いよいよだな」
「かなり厳しいですものね」
核心に迫るほど、その会社の中身はボロボロだった。特に経営トップ層の私利私欲に塗れた行動がひどい。
「どこかにリークされないのが不思議です」
普通なら、これだけヒドいと、業界紙にウワサ程度は載る。
「まあ、古手の企業は、それだけ顔が利くんだよ。ただ、そうは言っても企業が詰んじまえば、それまでだがな」
桜木さんは、意味を込めた目で私を見た。
「ここは6月決算だから、恐らく、Xデーはそこになる。まあ、もちろん、休暇は取ってくれ」
倒産に備えたプロジェクトだけに、そのXデーから猛烈な激務が待ち構えている。
いみじくも、結婚式の4日後が決算発表日。予想では、その前日に民事再生の発表があるはずだった。
世間でも知られている大手だけに、大騒動になる。
桜木さんが言うのは「それでも結婚したら休暇を取れ」という意味だ。
いつもこうだ。
女性を甘い言葉でチヤホヤする姿なんて想像できない人。
けれども、必要な配慮を十分以上にして、私を甘やかしてくれる。
仕事の上でも、尊敬という言葉しか浮かばない有能さと真面目さの人。
だからだろう。
だらしないことに、今さら、抑えていた心が浮き上がることがある。
――ひょっとしたら、好きになっていたのかなぁ。
ここまで来て「恋」を口にできるほど傲慢なつもりはない。
今の私を後悔なんてしない。
でも、つい考えてしまう。
「あんなのが家にいなければ」と。それが、どんなに、どうしようもないことであっても、だ。
自分に絡みつく「あれ」がいる限り、私には普通の恋は無理だった……
私にできることを、できるだけ頑張る。
それが私の権利であり、きっと、運命に定められた「義務」だったんだと思う。
だけど、私だって、せめて心の中くらい、少しだけ自由になることを許したかった。
先輩との長期間の共同作業は、やっぱり心にじわりとくるものがある。
桜木健太。
たとえ仕事だけの関係であっても、心から尊敬できる人との大切で、幸せな時間だ。
いつもながらプロジェクトに携わる二人は、社内でウワサになる。
だけど、その実態は、本当に何にも無い。
他の男の婚約者と、ただの先輩の関係。
その「ただの先輩」の顔を浮かべながら、一人、ベッドの中で、絶対に人に聞かせられない名前で呼んでみる。
私に許された、最後の自由。
――ケンちゃん
ラノベのヒロインだったら、簡単に呼べる。だけど、私にとっては、考えていること自体が秘密だという現実が、体と心を重くしていた。




