第15話 ノンの舞台
ミーティングスペースから出た桜木さんを追えなかった。
――追いかけて、何を言えば良いと言うの?
そんな卑怯な言い訳を自分に向かってヌケヌケとする自分自身が悔しかった。
置いていった資料は、桜木さんが対応している案件だった。私が下調べをしているから、多分、この案件について「正式なパートナー」として指名するつもりだったのだろう。
大手と呼ばれる企業の破綻案件だ。我が社でもトップ・シークレットとなる。
上司ですら、担当する役員から直で命じられた仕事だし、その指揮下で実際の様々な対応をするのは、既に動いている桜木さんと、新たに「パートナー」となった私だ。
もちろん、情報がオープンされれば、大人数が投入されるけれど、それまでは、二人で極秘の仕事になる。
十年に一度、いやそれ以上の大型案件だけに、パートナーに指名されるなんて、新人にとっては抜擢と言われるレベルだった。
――選ばれるって、ホントは嬉しいことだったんだ。
皮肉な話だと思う。
人生のパートナーとして「選ばれて」も喜びはゼロだったのに、仕事のパートナーとして選ばれて、心から嬉しいと思う私。
衆人環視の中の二人だけの秘密。
そして、私は翌日も普通に出勤した。いつもより、少しだけファンデーションを厚めに塗って。
桜木さんは、有休を取っていた。空いている席を見ると、心が痛かった。
2日休んだ桜木さんは、その後、淡々と仕事だけの会話に戻った。
私が、今回の案件に関わることを正式に頼まれ、私は淡々と、受け入れた。
その時、何かを言うべきだったのかもしれない。
何も言えなかった――桜木さんの言葉に償える言葉を持ってないことに気付かされるだけだった。
一方で、幸人さんとの話も、淡々と進んだ。いや、こっちは「淡々と」だけじゃなかった。
正式に申し込み、正式に受け入れた。
幸人さんにとっては「もう、OKだろ」となったのか、攻勢が、いっそう激しくなった。
「メグミ、今日さ、夜、ちょっと時間ある?」
「たまにはさ、パッと夜通し話そうよ」
「今度、朝まで一緒にいない? もちろん何にもしないから」
そんな風に、ガツガツと誘ってくるのは当然のこと。
ちょっと意外、と思ったら失礼かもしれないけど、幸人さんは、正式に我が家に挨拶に来てくれたのだ。
イケメンの彼が、きちんとスーツを着こなし、お辞儀の仕方から「一流企業」のそれっぽい。
そして「お嬢さんと結婚させてください」と口調も滑らかだ。
父は、型どおりに、一度渋って見せた後、すぐに「娘をよろしく頼む」と頭を下げた。
母は「ふつつかな娘ですが、お願いしますね」と笑顔で頼んでいた。
動画で見た昔の「ホームドラマ」みたいに、そこにあるのは小さな幸せを信じる、父と母の姿。
そして――
ノンは、途中でプイッと部屋に籠もってしまった。
父も母も、何も言わなかった……と思う。
そして、幸人さんが帰る時、両親は玄関まで見送りに出た。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。改めて、そちらのご両親とも、一度、お目にかかりたいと、ぜひ」
「きっと喜びます。近いうちにぜひ」
そう言って、幸人さんは深々と頭を下げた。このあたりの挨拶は、さすが、と言うべき。
玄関の扉が閉まると、母は、ほうっと大きく息を吐いた。
「いい方ねえ」
父も、満足そうに頷きながら、笑顔とともに言ってきた。
「しっかりした青年だ。会社もメグと同じだから、一流ってことだし。家柄も申し分ない」
その言葉に、私は笑顔で相槌を打った。
「そうだね」
本当に、条件としては申し分ない。
さかんに「よかった」を連発しながら、両親は笑顔を向け合った。
まるで肩の荷が下りたような顔をしていた。
「なんか、安心しすぎじゃない?」
私は耐えきれずに、そう言ってしまった。けれども母、すぐさま「そんなことないわ」と返してきた。
「娘が結婚するのよ? それも、きちんとした家の方と。それ以上の何を望むというの」
母は心から嬉しそうだ。
私は「お母さんは、ノンが盗りに来るってわかってる?」と言いたいけど、絶対にいえない。そう、絶対に、心の中だけの秘密。
「そういえば、望未とも、ちゃんと話さないとダメね」
その名前が出た瞬間、父は少し困った顔をした。
「……ああ、そうだな」
さっき、ノンは途中で部屋に戻ってしまった。
それがどういう意味なのか、二人とも分かっているのかもしれない――わかってて黙ってる? それともわからない?
答えがどっちだったとしても、きっと私はイラだつだけだ。けれども、父も母も、それ以上は触れなかった。
「今日は疲れたでしょう? メグも、もう休みなさい」
母にそう言われて、私は自分の部屋に戻った。
ドアを閉めたところで、初めて息を吐く。
「終わった」
思わず、呟いてしまった。
――いや、正確には、ここから、始まる。
ベッドに腰を下ろした時だった。
廊下の向こうで、ドアが開く音がした。
ノンの部屋だ。
しばらくして、足音が近づいてくる。
私の部屋の前で、ぴたりと止まった。
ドアは、ノックされない。
ただ、気配だけがある。
私は、黙っていた。
やがて、ノンの声が聞こえた。
「へえ~ そうなんだ」
独り言みたいに小さな声。驚くほど落ち着いている。
なぜか、今日の場面を見た後のノンにしては、そぐわない感情――嬉しそう――を感じてしまった。
「結婚、するつもりなんだ」
私は、何も答えなかった。
ドアの向こうで、ノンは、確かに「くすっ」と笑うと、しばらくして、足音が遠ざかっていった。
私は、しばらく動けなかった。
ノンの声が、頭の中でリフレインしていたからだ。
あれは、負けた人の声じゃない。
私は、ベッドの上で、ゆっくりと天井を見上げた。
やっぱり、ノンは、まだ何も諦めていない。
むしろ、ここからが、本番のつもりなんだろう。




