朝斗と真澄 ⑥
真澄との約束をしている誕生日当日。俺は朝から少し落ち着かなかった。
約束は午後3時に真澄の通う明帝大の前だ。ガキじゃあるまいし、何を浮足立っているんだと自分に苦笑しながら、さっさと午前中の仕事を片付けることにする。
「坂下先生、今ちょっとよろしいかな?」
「小野田副院長」
昼休み返上で仕事に集中していると、珍しい相手から声をかけられた。
「君の患者のねえ、瑠璃川朝斗君のことだけども」
「彼が何か?」
「どんな様子かなと思って」
朝斗のことは、カルテを見れば誰でも把握出来るし、定期的にカンファレンスで報告を上げている。
何が知りたいんだと僅かに眉を顰めると、副院長は苦笑いをして何かを否定するように片手を振った。
「ずいぶんと気にかけているようじゃないかい?」
「それは、はい」
もしや洗濯まで手伝ったことがバレたのか、と一瞬過ったが、そんなことで副院長が出て来るはずはないか。
「君の方が参ってしまうんじゃないかと、ちょっと心配でねえ」
「⋯⋯お心遣いありがとうございます。ですが、私は問題ありませんので」
「そうか。それならいいんだ」
邪魔をしたね、と言って、副院長は去っていった。
⋯⋯なんだったんだ。正直よくわからない。
俺のことを気にかけているかのような発言をしていたが、勤務時間どうこうとか、職員のメンタル云々なら、普通は副院長よりも前に上長とか、せめて部長とかが出て来るんじゃないのか。
まあ、考えてもわからないから今はいいか。
とにかく今は、早く仕事を片付けなければ。
俺は気持ちを切り替えて、午後の診察の準備に取りかった。
✦✦✦
予定通りに仕事を終え、病院を出て大学へ向かった。
門の前に到着すると、ちょうど講義が終わった頃合いなのか、多くの学生の姿があった。
到着したと真澄にメッセージを送ると、少し講義が延びたので、裏門から出てそっちに向かうと返信が来た。
「裏門⋯⋯。そっちか」
ここには何度か来たことがあるから、多少は建物の場所も把握している。俺も裏門の方向へ向かった。
正面と違って、こっちは人もまばらだなと思っていると、少し先に見知った人影が見えた。向こうも俺に気付いたのか、ひらひらと手を振っている。
ふっと笑ってそれに手を振り返した、その時。
真澄のいるすぐ横の脇道から、車が猛スピードで飛び出してきた。
「――え⋯⋯?」
まだ少し距離があった俺にも、真澄の困惑するような声が聞こえた、気がした。
車はスピードを落とすことなく、まるで何かに吸い寄せられるかのように、大学の塀に突っ込み――
ドゴンッ!!
鈍い音がした直後、周囲の一切の音が消える。
人形のように宙を舞う身体が、まるでスローモーションのように目に映った。
「キャ――ッ!!」
誰か、おそらく近くにいた学生が上げた悲鳴で、現実に引き戻される。
「ま⋯⋯すみ⋯⋯? 真澄っ!?」
人集りを掻き分け、俺はその中央へ、足が縺れて転びそうになりながらも駆け寄った。
そこには、血だらけで倒れている真澄の姿があった。
「あ⋯⋯、あ、――っ」
頭が真っ白になりそうになるのを叱咤し、俺は隣に立っていた学生に、すぐに救急車を呼んでくれと指示を出した。
「真澄! しっかりしろ! 真澄!」
「⋯⋯せ、いち⋯⋯?」
意識はある。頭を打っているだろうから動かしたら駄目だ。出血が多いから止血をしないと。
自分が着ていたシャツをビリビリと破いて、すぐに止血をする。
「真澄、大丈夫だからな。俺がついてるから」
くそっ! 血が止まらない。救急車はまだか。
「せ、いち⋯⋯」
「なんだ?」
「⋯⋯おれ、聖一に、会えて⋯⋯、良かった⋯⋯」
「な、んだよ。急に⋯⋯。そういう話は、この後食事しながらゆっくりしよう」
そうだ、この後クルーズ船で豪華な食事を予約してある。時間はその時でも、その後でも、いくらでもあるんだから。
「⋯⋯さ、いふに⋯⋯」
「財布?」
真澄は、落ちたバッグの方に僅かに手を動かした。
「あとで、見て⋯⋯」
「なんだ、なんかいいもんが入ってるのか?」
その手を握ると、真澄はふっと小さく微笑んだ。
遠くで、救急車のサイレンが聞こえた。
早く、早く――。
しかしその音は、近付いてきているはずなのに、俺の、俺たちの世界からはどんどん遠ざかっていく。
「――⋯⋯」
「うん?」
真澄が何か言って、俺は口許に耳を寄せた。
「⋯⋯すき」
「俺も、好きだよ」
「もっと⋯⋯、いっしょに、いたかったな⋯⋯」
「いればいいだろ。これからもずっと、⋯⋯ずっと一緒に」
目からどんどん水が出て来て視界がぼやける。袖で拭おうとしたが、さっき破ったんだった。仕方なく拳で拭う。
「⋯⋯せぃ、いち」
「なんだ?」
「おれの、心臓。使って⋯⋯、あの子に⋯⋯」
それが、真澄の、最期の言葉だった。
―――⋯⋯
「ま、すみ⋯⋯? 真澄っ?」
ダメだ。ダメだダメだ!
「真澄! しっかりしろ! 真澄!」
静かに閉じられた瞼は、俺が何度呼びかけても開くことはなかった。
「ますみ⋯⋯。――あ、あ⋯⋯、ぅわあああぁあーっ!!」
✦✦✦
それから何日たったのか、俺には全く感覚がなかった。
脳死と告げられた真澄の家族が、その場に泣き崩れる様子を、俺は病室の外から静かに見つめていた。
真澄の財布の中には、心臓に丸が付けられた、ドナーカードが入っていた。




