第8話 世界の闇
午前中の怒涛の診察時間が、どうにか終わりを迎えた。
聖獣と聖鳥の親子を優しく(?)見送ったのも束の間、僕には一息つく時間すら与えられなかった。
なぜなら、午後からはあのスパルタ大精霊による、本日の”第2ラウンド”が待ち構えていたからだ。
診察が終わるや否や、僕の眼の前に音もなく立ちはだかったのは、冷徹な瞳をしたリーノだった。
『剣 訓練』
『まず 剣 振る』
「はいはい! 振りますよ! 振ればいいんでしょう!」
『黙る やる』
ゴツン
「いったぁい!?」
(はい、はい! だまってやれってことね!)
頭が非常に痛い。多分、頭頂部に立派なたんこぶができているはずだ。
どれだけ剣を振っただろう、腕が完全にしびれて力がまったく入らなくなる。振り下ろした剣を1センチメートルも持ち上げることができなくなってきた頃、リーノがそっと手を差し出してきた。
『食べる』
手渡されたのは、ツヤツヤと赤く輝く一粒の野いちごだった。
言われるがまま口に放り込むと、パチンと果汁が弾け、この上ない甘みと爽やかな酸味が広がった。
それと同時に、さっきまで1ミリたりとも動かせないと思っていた体が、嘘のように軽くなる。
それどころか、この広い野原を何周でも全力走できるんじゃないかと思えるほどの、凄まじい活力が全身に満ち溢れてきたのだ。
(すごい! この森のフルーツってば完全回復薬じゃん! リーノ、やっぱりたまには優しいところも――)
暗黒の特訓生活に差し込んだ一筋の光に、僕が感動しかけたその瞬間。
『剣 受ける』
リーノが冷静な瞳で、自身の件をすらりと構えた。
「はあ、受ける? ちょ! ちょっと待って! 僕、剣の受け方なんて何も習っていないよ!?」
回復させたのは、次の地獄(対人戦)を生き延びさせるための措置でしかなかったのだ。僕は再び絶望のどん底へと突き落とされるのだった。
『まずはやってみることよ。怪我したときは私もリーノもいるわ』
地獄である。
必死になった、リーノが容赦なく打ち込んでくる剣を受け続けた。
『恐れ だめ』
『はあ! 何言ってんの! 金属の剣で切りつけられたら誰だって怖いよ!?』
『怒り だめ』
リーノの鋭い一撃を何度も何度も必死に受け止める。そのたびに骨まで響くような衝撃が走り、だんだんと手の感覚がしびれて麻痺してくる。
『恐れ だめ』
(……くそ、言うのは簡単だけどさ! でも、リーノがこれだけしつこく《恐れるな》《『怒るな》って言ってくるのには、もっと別の、もっと恐ろしい理由があるんじゃないか……?)
必死にリーノの真意をつかもうとあがいていた、その時。
『ちょっとリーノ、少し休んで。なぜだめなのかを説明し、理解してもらった上で稽古を続けましょう』
(理由は何であれ、助かった。少し休める……!)
限界を迎えて握力のなくなった手からは、自然と剣が地面へと滑り落ちていった。僕はそのまま情けなくその場に座り込んでしまう。
一方のリーノは、これだけ動いても何の疲れも見せず、すとんとその場に腰を下ろした。
少し離れて見守っていたフィーネが、静かに僕たちの近くに寄ってきて、隣に腰を下ろす。
『何から話したら良いかしら。あのヤノス。リーノが厳しく言ったのはね、あなたの心に生まれる恐怖や恐れ、怒りといった負の感情が、【邪気】を引き寄せてしまうからなのよ』
『邪気ですか?』
聞き慣れない不穏な単語に、思わず背筋が凍る。
『そう。この世界で亡くなった人の魂は、本来浄化されてまた新たな生命に宿るのだけど。強い無念や恨み、恐怖と言った強い感情が宿った魂が、浄化されずに、その強い情念が魔素と最悪の形で結びついて変質したもの――それこそが邪気なの』
フィーネの言葉に、ごくりと唾を飲み込む。
(……魂の輪廻転生。それが正常な世界のルールなんだ。でも、強すぎる恨みや恐怖のせいで成仏(浄化)できなかった魂が、魔法の源でもある魔素と混ざり合って、多分、人類の脅威になっている。それが邪気なんだな……)
『邪気は、生きている人間や動物が抱く恐怖や怒りと言った「負の感情」に吸い寄せられる性質を持っているの。もし一度それに取り憑かれてしまえば、心も体もあっという間に蝕まれて、人間とは違う別のものへと変質するの。だから戦いの中でも、何が起きても、常に冷静な心を保ち続けることが何よりも大切なのよ。リーノはそれをあなたに叩き込もうとしていた』
隣のリーノを見つめると、彼は無言のまま、静かに深く一度だけ頷いた。ただのスパルタではなく、僕の身を本当の脅威から守るための、大精霊としての絶対の教えだったのだ。
ひと呼吸置いたフィーネは、そこからどこか遠い記憶をたどるような、悲しげな瞳に色を変えて静かに語り始めた。そこで明かされたこの世界の歴史は、あまりにも壮絶なものだった。
❖ ❖ ❖
今から、約二千五百年前、この世界の人類、そして生物のほとんどが一度死滅したと言うのだ。
なぜそんな大虐殺が起きたのか、当時を知る大精霊たちですら、当時人間の自然に対する畏敬の思いが薄く、リーノやフィーネの力が最悪の状態まで弱まっていたため、具体的に何が起きたのかはわからないととのことだった。
わずかながら生き延びた人々は協力し合い、凶暴化した動物たちから身を守りながら、必死に命をつないできた。それまで誰も使えなかった【魔法】が突然使えるようになったことこそが、人類が生き延べられてきた最大の要因だったという。
そんな危険に囲まれた過酷な生活の中で、人間の自然への畏敬の念や、恵みへの感謝の思いが再び生まれ、育まれていくのは自然の流れだった。その真剣な祈りの思いが、リーノやフィーネたち精霊の力を強めることとなり、しいては人間たちの魔法の力も強くしていったという。
ところが今から千年ほど前、世界のあちこちで恐怖や怒り、強い飢餓などのマイナスの感情が強く立ちこめ始めた。
その強い負の情念が魔素を取り込み、邪気となって世界に蔓延するようになってしまったのだ。
さらに、その強い邪気自体がやがて実体化して形を形成し、自ら意志を持って蠢く存在――【邪怪】が現れた。その邪気に当てられた人間は【邪人】に、動物は【邪獣】へと変貌し、恐怖を抱く人々を容赦なく襲いだした。
だからこそ、リーノたちは僕を鍛えているのだ。
この後、僕がこの安全な森を出て行くようなことがあった場合、邪気を帯びたものたちに出会っても決してマイナスの感情を抱かず、平穏な心で対応できるようにするために。
❖ ❖ ❖
あまりにも壮大な歴史の闇を聞かされ、呆然とする僕の手のひらに、フィーネから小さなブドウのような粒が手渡された。
口に放り込むと、一瞬で元気が取り戻っていく。そのまま、再び過酷な剣の練習へと取り組むことになったのだが、本物の鉄の剣で攻撃されている最中に、そう簡単に平常心など持てるはずもなかった。
『恐れ だめ』
バシッ
「いてー! 叩かなくても良いだろう!」
バシッ!
「怒り だめ」
(この世界で、ゆったりとしたスローライフを過ごそうなんて考える方が間違いだったんだ……!)
理不尽な痛みに耐えながら、心の中で深く涙を流すヤノスであった。




