第78話 フリルのワンピースと温かな朝
【リコル視点】
辺り一面暗い闇に包まれている。
手を動かしてその闇を追い払おうとするが、その手がなかなか動いてくれない。
もがこうとすればもがこうとするほど手足は自由を失い、その深い闇へとズルズルと飲み込まれていくだけだった。
――ハッと目が覚めると、視界に飛び込んできたのは白い天井だった。
(あぁ……、また夢だったのか)
「おにぃ! おにぃ! 朝だよ」
思わずおにぃを呼ぶが、当然、返事はない。
ベッドに起き上がり、改めて周囲を見渡す。
そこはいつもの見慣れた宿の客室ではなく、男物の道具が綺麗に整理され、隅々まで手入れが行き届いている見知らぬ部屋だった。
「そうだ……。おにぃは、邪怪に飲まれて……」
ヤノスがおぞましい邪怪に飲み込まれたあの瞬間の光景が脳裏をよぎり、胸が締め付けられて、つい叫び声を上げてしまう。
「わあ――っ!」
ドタドタドタ、と激しく階段を駆け上がってくる音が聞こえたかと思うと、いきなり勢いよく扉が開かれた。
「どうしたんだい!? 何かあったのかい、リコルちゃん!」
部屋へと飛び込んできたのは、息を切らせた女将のクリアナさんだった。
(そういえば、三日前に、フィーネにこの宿に連れてこられて……。私がここでしっかり生活していれば、おにぃが絶対元気に帰ってくるって、そう信じるって決めたんだ……)
「だ、大丈夫です! 変な夢を見てしまって。つい飛び起きてしまいました」
私が慌てて言うと、クリアナさんはホッとしたように温かい笑顔を浮かべ、優しく声をかけてくれた。
「そうかい、それなら良かった。もうしばらくしたら、朝の混雑も一段落するだろうから。その時は声をかけるから下へ降りておいで。一緒に朝食を食べようよ」
「はい、ありがとうございます!」
私はどうにか顔を作って、精いっぱいの笑顔で返事をすることができた。
一瞬だけ、悲しげな表情を浮かべたクリアナさんだったが、思い出したようにすぐいつもの笑顔に戻り、下の厨房の仕事へと戻っていった。
「声をかけるから、ちゃんと下に降りてくるんだよ!」
「はーい!」
おにぃが邪怪に飲まれ、リーノとフィーネがその治療に向かってから、もう三日も経っている。
三日も経っているのに、私は毎日、ずっとこの調子だった。
一人になると、やっぱりあの時のことが思い出されて、不安で押しつぶされそうになってしまう。
(私があの時、リスを追っていこうなんて言い出さなければ)
(もし、暗闇に向かおうとするおにぃを、私が怖いから嫌だと全力で止めていれば)
いくつもの「もしも」という後悔が、一人になると必ず容赦なく襲ってきた。
気分を変えるために、もう一度部屋の中を見渡してみる。
明らかに若い男の子の部屋だろうと想像できる内装だ。
こっそりタンスの引き出しを開けてみた時、私よりかなり大きめの、ちょうどおにぃにぴったりなサイズの服が綺麗に仕舞われていた。
今、その横にはクリアナさんが「着ておくれ」と昨日プレゼントしてくれた、フリルのついた可愛いピンクのワンピースが畳まれている。
病衣ばかりで過ごしていた前世では、決して着られなかった憧れの服。
思い切ってその服を着てみることにする。
ちょうどその服を着終わったときだった。
「リコルちゃん、降りておいで! 準備ができたよ!」
階下からクリアナさんが私を呼ぶ声が響いた。
この部屋は三階に当たる。
トントンと階段を一階まで降りていくと、そこは香ばしい匂いの漂う厨房になっており、テーブルの上には三人前の温かい朝食が準備されていた。
「あんた、リコルちゃんが降りてきたよ。手を休めて、食事にするよ」
「おう、わかった」
奥から、いつも通り元気な旦那のガスサスさんの返事が返ってくる。
クリアナさんが私を優しい目で見つめてくる。
「その服、着てくれたんだね」
「はい、嬉しくて着てみました。本当にありがとうございます」
「いいんだよ……そんなこと。それより一周回ってくれないかい」
促されるまま、ふわりと広がるフリルを意識して、その場でくるりと一回転する。
「まあ、リコルちゃん、よく似合っているよ」
目を細めるクリアナさんの声に重なるようにして、ちょうど料理を手にしたガスサスさんがやってきた。
「おっ、リコルちゃん、似合ってるじゃないか」
「クリアナさん、ガスサスさん、ありがとうございます」
私のお礼の言葉に、クリアナさんとガスサスさんが笑顔で応えてくれる。
「さあ、朝食にしよう」
テーブルに並べられた料理を囲み、三人で朝食を摂る。
「「「いただきます」」」
ここでお世話になり始めた日の食事で、私はいつものように「いただきます」と手を合わせた。
初めて聞く言葉のようで、私がその意味を伝えるとお二人が深く感銘を受けたらしく、それからは必ず食事を前にして三人で唱えるようになっていた。
「すごく美味しいです。クリアナさん、これは何という料理ですか?」
「それはね……」
お二人のお陰で、朝食は楽しく進んでいった。
「あんた、またこぼしているよ。いつもこうなんだから」
「ハッハッハ! すまん、すまん」
これも、いつの間にか見慣れた日常の光景になっていた。
「こうやって、家族揃って食事をするのは何年ぶりだろうねぇ……」
遠くを見つめるような寂しげな眼差しで、クリアナさんがぽつりと言葉をこぼした。
「お二人では、いつも一緒に食事はされないのですか?」
「こんな商売をしているからね。食べられる時に食べる。いつもバラバラに隙を見ては摂っているよ。こうして誰かと食卓を囲むなんて、本当に久ぶりのことだよ」
「……二十年だな」
それまで黙々と料理を口に運んでいたガスサスさんが、ぼそりと言葉をこぼした。
「そうだね。ちょうど、二十年か……」
「ああ」
そういえば、図書館で読んだ本に、人間以外の狼人族や熊人族など、人族と呼ばれる者の多くが”長寿種”だと、書かれていたことを思い出す。
長寿種の方々が抱える人生の重みが、私にも重く深くのしかかってくるのを感じた。




