第70話 残念な大精霊
【リコル視点】
どうにか最悪の地下遺構から脱出したものの、生還した私を、底知れない恐怖と不安が襲った。
「おにぃ……! おにぃ!!」
私が担ぎ下ろしたその地面には、真っ黒な邪気のモヤに包まれたおにぃが、何の反応も示さずに横たわっていた。
気が狂いそうになる頭を、私は自身の小さな両手で激しく叩いた。
『私がしっかりしなくちゃ……! 私が泣いたら、おにぃは死んじゃう。そうだ、平常心。平常心……っ!』
これまでの過酷な鍛錬で身体に刻み込まれた、「常に平常心を保つ」という教え。
その冷徹な言葉だけが、今の私の壊れそうな心をギリギリのところで繋ぎ止めていた。
――『いい? 安全な場所に出たからって、絶対にその場で安心してはダメ。私たちを呼ぶために、邪気が漂っている場所で強い念話を使っては絶対にダメよ。できるだけその場から離れ、邪気の少ないところへ移動し、念話で私たちを呼ぶの。いいわね?』――
(念話を飛ばしちゃダメ。まずは、ここから離れる……!)
私は必死におにぃを背負い直すと、南の農地側へと足を速めた。
担がれているおにぃからは動きも声もない。けれど――その肌には、まだ確かな温もりが残っていた。
――『体温が奪われていなければ、それは魂が完全に邪気に呑まれていない証拠。私たちの力を信じて、私たちを待つの。絶対よ』――
(まだ、大丈夫。おにぃはまだ、邪怪に負けてない。そう、大丈夫だから……っ!)
「おにぃ。私が、絶対にリーノさんやフィーネさんのところへ連れて行ってあげる。絶対に助けるから……待っててね!」
私は邪気の薄い安全圏へと到達した瞬間、全魔力を込めて彼方へと叫んだ。
『リーノさん……! フィーネさん……!! おにぃが……おにぃが大変なの! 助けて、お願いだから助けて――っ!!!』
私の悲痛な悲鳴は、魔素の波に乗って遥か遠方の空間へと弾け飛んでいった。
❖ ❖ ❖
【第三者視点】
その頃。リーノとフィーネの二人は、この国で「最東端の都」と呼ばれる、独特な文化を持つ異郷の地に足を踏み入れていた。
「ねえ、ルーハ。お願いだから、力を貸して」
ここは、都の中心にある神光の杜。
祠が立ち並ぶ敷地の裏手、ひっそりと佇む離。
入り口の土間を上がった先にある、襖と障子に囲まれた見るからに純和風の一室。
リーノが「ルーハ」と呼ばれる小柄な少女――その正体である光の大精霊へと、珍しく必死に頼み込んでいた。
「わらわも何度も言っておろうが! 何度来ても答えは一緒じゃと。あと少し待っておれば良いものを。わらわがここを去った後の結界が心配なのじゃ。わらわが抜けた後、東からの邪気や邪怪に、一体誰が対抗できるというのじゃ。お主の気持ちも分かっておる。今もわらわの代わりが務まるようにと鍛えておる最中じゃ。だから、待っておれというのじゃ」
「本当に、準備ができたら来てくれるのね?」
「だから何度も言うておろう! あと少しじゃとな!」
「……ルーハ。あなたの、その強大な『光の大精霊』の力が必要だから。無理を言ってごめんね。ありがとう」
リーノの真剣な言葉に、ルーハは不器用につんっと鼻を鳴らした。
それを見ていたフィーネが、おかしそうに口元を綻ばせる。
「ふふ、こんなに一途で必死なリーノを見るのは、私も初めてですわ。……それにしてもルーハ、ずいぶんと可愛い口調をされるのね? 何かあったのかしら?」
「そ、それを言うでないわッ! わらわに、わらわにも、立場というものがあるのじゃ!」
顔を真っ赤にして言い訳をするルーハ。
どこか光の大精霊の威厳があるようでないような態度に、フィーネの肩が小刻みに震え始める。
「では、次にまた来たときに」
「またそれを言うておる! 準備ができたらわらわの方からそちらへ参る。だから待てというておろうが!」
必死に笑いを堪えていたフィーネだったがついに決壊した。
「くすっ……あははは! やっぱりその口調、おっかしいわよ!」
お腹を抱えてケラケラと笑い出すフィーネ。
顔を真っ赤にして怒ったようにそっぽを向くルーハ。
「……お茶をお持ちしました。どうぞ、お召し上がりくださいな」
静かに襖が開き、リコルよりやや年下に見える少女が、静々とお茶を運んできた。
あまり見たことのない、鮮やかな赤と山吹色の服をまとっている。
障子の格子から柔らかな光が差し込むその室内で、少女がお茶を差し出した。
ふと顔を見ると、長い睫毛に縁取られたその瞳は閉じられていた。
目が見えないようだ。
「どうぞ。粗茶でございますけれど」
少女は淀みのない所作でお辞儀をすると、音もなく移動し、ルーハの前にもお茶を置いた。
「ルミア、すまぬな。ありがとう」
ルーハから声をかけられると、ルミアと呼ばれた少女は嬉しそうに微笑み、大精霊の横へとちょこんと小さく座り込んだ。
「この子はルミアと申す。わらわの世話をしてもらっておる。見ての通り目は見えぬのじゃが、魔素を感じ取っておるし、光の精霊の導きもあって何不自由なく暮らしておる」
「ルミアさん、とても美味しいお茶ですわ。ありがとう」
「うん、すごく美味しい。ありがとう、ルミア」
フィーネとリーノがそれぞれ礼を言った、まさにその瞬間だった。
『――リーノ!! フィーネ!!』
脳を直接引き裂くような、あまりにも悲痛で切羽詰まったリコルの絶叫が、二人の意識へと突き刺さった。
『おにぃを……ヤノスを助けて!! 大変なの、お願いだから助けて――っ!!』
『……リコル!? どうした、何があったの!!』
リーノの表情が一瞬で凍りつき、即座に念話を返した。
『おにぃが……! おにぃが……っ!』
『ヤノスがどうしたの!? 落ち着きなさい、平常心よ、平常心を保つの!』
フィーネが叫ぶようにリコルへ尋ねる。
『おにぃが、地下で強力な邪怪に捕まって……! 邪怪がおにぃの身体に入り込んで……おにぃが、真っ黒になって、動かないの……っ!!』
『――分かったわ。そのまま念話を切らないで! その念話の糸をたどって、今すぐそっちへ行くわ。安心して、落ち着くのよ!』
フィーネは弾かれたように立ち上がると、大精霊を鋭く睨み据えた。
「ルーハ、今の念話聞こえたわね!? 急いでヴァルハイトへ戻るわ。状態によっては、最悪ここにヤノスを運び込むかも。この前の話のように結界のすぐ外、この屋敷の裏側よね!?」
「うむ、状況は察した! わらわもすぐに準備を整えておく。一刻を争う、急いで向かうが良い!」
「リーノ、すぐにヤノスのところへ向かうわよ! ――リーノ? リーノってば!!」
フィーネが隣の少女の肩を激しく揺さぶる。
けれど、さっきまで冷静だったリーノは、見たこともないほど顔を真っ白に青ざめさせ、ガタガタと全身を激しく震わせながら、虚空を見つめていた。
「ヤノスが……。ヤノス、が……邪怪に……?」
「リーノ、何をしてるの! あなたがしっかりしないでどうするのよ!! ”平常心”は一体どこへ行ったの!?」
「ヤノス……ヤノス。……平常心? そう、平常心……っ!」
フィーネの怒声に、リーノの瞳に一瞬で鋭い光が戻った。
「……分かった。平常心。うん、もう大丈夫。――帰りの移動は、私が”転移”で一足飛びに跳ぶ。ヤノスの状態が悪かったら、打ち合わせ通り、フィーネに運んでもらう」
「ええ、分かったわ! ルーハ、あとは頼んだわよ!」
フィーネの言葉が終わるか終わらないかのタイミングで、リーノの強大な《空間転移魔法》が発動した。
空間が反転し、二人の姿は一瞬にして、ヴァルハイトの南の外れにある、誰の目にも触れない鬱蒼とした森の中へと転移していた。
『リコル、今すぐ近くに転移したわ! ――今の詳しい状況を教えて! 状況が分かれば処置も早くできる。念話をたどればリコルの元まで行けるわ!』
横でリーノが、獰猛な目で頷いている。
『……リスを追って、西門の外の変な遺構に来て……邪気が漏れ出ている、穴の中に……っ』
リコルの細い念話の糸。その微弱な魔素の痕跡をダイレクトに手繰り寄せながら、リーノとフィーネはヤノスとリコルのいる場所へと《転移》を重ねた。
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