第69話 闇の侵食と妹の祈り
肌が凍りつくような、強い負の感情を宿した濃密な邪気が漏れ出る小さな穴。
その不気味な暗黒を前にして、僕もリコルも足がすくむ思いに囚われていた。
「おにぃ……どうしよう。怖い、怖いけど……でも、さっきのリスさんが……っ」
「そうだね。ここまで来ているんだ、先へ進もう」
後ろ髪を引かれる思いを振り切り、まずは僕が這いつくばってその狭い穴をくぐり抜けた。
今は《索敵》を完全に止めている。
大樹の森でのあの恐ろしい経験が、無意識に魔素を放つことを拒んでいた。
穴の先は急な下り坂だった。
頭を下にしながら進むと、その先に広い空間の気配を感じ、魔法で明かりを灯す。
小さな穴の先は、なんと横幅が四メートルはある立派な石造りの階段だった。
地下道へと降りるための、古の構造物だ。
「リコル、ここは階段だ。下り坂になっているから、用心してきてくれ」
念話も魔素を使うため、あえて声を出して伝える。
「わかった!」
階段に腰を下ろして待っていると、すぐにリコルが穴を抜けてやってきた。
周囲を見渡したリコルが小さく息を呑む。
「……立派な階段だね。なんだか、大昔の地下施設に降りていくみたい」
「全くだ。これから何が起こるか分からない。用心していくよ。リコルは僕の後ろに付いてきて。――念のために、バリアを張るね」
リコルと僕の身体にそれぞれ《障壁》を張り終える。
リコルは僕の肩にそっと手を置き、一歩ずつ慎重に階段を降りていった。
降り立った先は、埃っぽい広い通路だった。
あたりにはガラスの破片のようなものや、ボロボロに風化した謎の資材が散乱している。
足元を確かめながら慎重に進んでいると、リコルが鋭い声を上げた。
「あ! リスさんが――っ!」
そう言って飛び出そうとするリコルの手を、僕は急いで掴んで引き戻した。
通路の奥――そこにいたのは、もうリスではなかった。
黒い不気味なモヤに全身を包まれ、激しく痙攣しながら、何かおぞましい未知の怪物へと変貌していく最悪の光景だった。
「リコル……。浄化させてあげよう」
「おにぃ……。そうだね……っ」
悲しげにリコルが呟く。
その直後、リコルが放った温かい光の魔法がリスの成れの果てを包み込み、その姿を静かに、光の粒子となって消し去っていった。
「さあ、急いで戻ろう」
そう言って僕が振り返った、その瞬間だった。
通路の闇の奥から、人の形をした黒く禍々しい影が、僕たちの生命力におびき寄せられるようにして、ぞろぞろと這い出てきたのだ。
右を見ても、左を見ても、その邪気の塊――”邪怪”たちが、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
どこにこれだけの数が隠れていたのか。
考えている余裕はない。
まずはここから遠ざかることだ。
今通ってきた道を引き返すしかない。
背後に奴らがいないことを祈るだけだ。
「リコル、僕が後ろを守るから、さっきの階段へ走って!」
「おにぃ! 一緒に、一緒にだよ!」
「大丈夫、僕がしっかり守るから! さあ戻ろう、急いで!」
必死に反転し、今通ってきた通路を猛ダッシュで駆け抜け、階段へと繋がる角を曲がる。
リコルが先に曲がっていったのを横目で確認し、僕も続こうとした、まさにその刹那だった。
完全に死角となっていた右側から、濃厚な黒い質量が飛び出してきた。
邪怪が、僕に抱きつこうと牙を剥いて襲いかかってくる。
「やめろ――っ!」
大声で威嚇しながら手で払いのけようとした瞬間、最悪の恐怖に心が一瞬だけ支配され、自分に張っていたバリアがぷつりと切れてしまった。
直後、強烈な怒り、やるせない怨嗟、行き場のない負の感情が、濁流となって僕の意識へ流れ込んでくる。
(あ、ダメだ、呑まれる――っ!)
瞬時に自身の状況を悟った僕は、極限の生存本能のままに体内の全魔素を駆動させた。
魂のコアを守るため、すべての魔素で魂の周囲を幾重にも覆って濃厚な防御壁を形成し、同時に自身の意識を強制的に”無”へと落とす。
そして、体に流れ込んでくる邪怪の破壊的な衝撃を受け流すため、髪の毛よりも細く伸ばした自身の体内魔素のバイパスを、リンパ節へと向かって急速に展開していった――。
【リコル視点】
「おにぃ! おにぃ!!」
ただならぬ胸騒ぎがして振り返った私の目に、最悪の光景が飛び込んできた。
黒い邪怪に組み敷かれ、その禍々しい影に今まさに侵食されようとしているおにぃの姿。
私は半狂乱になりながら、何度も何度もその邪怪へ向けて浄化魔法を叩き込んだ。
けれど、奴は怯むこともなく、ずるずるとおにぃの身体と同化していく。
(平常心……! 平常心……!!)
恐怖で狂いそうな心を、私は必死の叫びで叩き直した。
脳裏に、かつてリーノとフィーネから厳しく叩き込まれた”万が一の教え”が鮮烈に蘇る。
――『もしも、もしも誰かが邪怪に取り憑かれたら、絶対に直接触れてはダメ。まずは、極限まで濃縮した魔素で、その人を包み込むようにバリアを張りなさい』――
「そうだった、バリア……! バリア……っ! おにぃを守って、包み込んで!!」
私は全魔力を絞り出し、最大限に濃縮した魔素に祈りを乗せて、ヤノスの身体へ向けて放った。
鋭い光の膜がおにぃを覆う。
――『いいわね、そのバリアが効いていると思っても、すぐに触れてはダメ。さらに二重、三重にバリアを重ねて、その上で、周囲の空間を広く浄化するのよ』――
通路の奥から、別の邪怪たちがこちらを感知して近づいてくる気配がする。
けれど、間に合わせるしかない。
私は震える奥歯を噛み締め、平常心を極限まで維持しながら、おにぃの身体に二重、三重の強固なバリアを重ね掛けした。
そして、おにぃの周囲の空間一帯へ向けて、広域の《浄化》を炸裂させる。
キィィィン、と清らかな光が走り、迫っていた邪怪たちが悲鳴を上げて霧散した。
おにぃの身体から黒い邪気が漏れ出ていないことを確認する。
自分の中にこれほどの馬力があったのかと驚きながらも、意識を失ったおにぃを担ぎ上げ、必死の思いで階段へと向かって走り出した。
――『いい? その場から離れたからって、絶対に安心してはダメよ。後ろから他の邪怪が追ってきていないか確認して、もし追ってきているなら、”浄化の性質をまとったバリア”を張るの。それ以上近寄れないように、できるだけ広く、狭い場所なら通り抜けられる隙間がないように、完全に退路を塞ぐのよ』――
「浄化のバリア……、浄化のバリア……っ!」
必死に教えを口ずさみながら術を発動し、追撃の進路を光の壁で完全に遮断する。
そこからどうやってあの狭い穴を潜り抜けたのか、私自身も全く記憶になかった。
ただ無我夢中でおにぃを引っ張り、這いずり回り、気付けば外の、広大で殺伐とした元の地上へと這い出していた。
「はぁ……はぁ……っ! おにぃ……! おにぃ……っ!!」
冷たい地上の風を浴び、私は肩で激しく息を吐き出しながら少しだけ安心した。
荒い息を整えながら見上げた周囲の風景は、穴に入る前とはまるで違って見えていた。
木々に覆われ、あちこちが不自然に盛り上がり、平らにならされたこの広大な構造の正体。
(――そう、ここは……。教会が伝えている”神の創世”より前に、かつて巨大な街が存在していた所なんだ……)
意識を失った大切なおにぃを力いっぱい抱きしめながら、私はその戦慄すべき真実へと辿り着くのだった。




