第63話 魔素の押し流しとクリーンルーム
「……結界を張る」
リーノの短い呟きに、僕はかつて大樹の森の縁でリコルを治療したときのことを瞬時に思い出し、一同に向けて説明を始めた。
「ロザリア様の本格的な治療に当たる前に、まずはこのお部屋に《結界》を張らせていただきます。この世界の外気には、目に見えない魔素が常に充満しています。せっかく治療を行っても、周囲の魔素を体が吸収してしまっては、治療の効果が薄まります。ですから、一時的に”魔素が一切存在しない空間”を作りますが、よろしいでしょうか?」
「もちろんだ! 妻の治療のために必要なことであれば、何でも申しつけてくれ」
ギルバート様が力強く頷く。
僕はさらに踏み込んで提案した。
「それと、この部屋へ入る人間自身が身にまとっている魔素も、できる限り排除したいのです。廊下から直接この病室へ出入りするのではなく、一旦小さな別室を経由して、そこで魔素を落としてから入室するような構造にはできないでしょうか?」
僕が尋ねると、すぐ傍らに控えていた一人の侍女が、居住まいを正して前に出てくれた。
「私は奥様の侍女を拝命しております、エレーナと申します。幸いなことに、私の使う控え室が、廊下と奥様のこのお部屋の両方に直接繋がっております」
「ありがとうございます、エレーナさん。では、これから奥様のお部屋への出入りは、その控え室を一度経由していただき、そこで僕たちが施す魔法で魔素を完全に浄化してから入室する、という形に徹底していただきたいのです」
「奥様のためであれば、どうなりとお使いください。なお、私のことはどうぞ呼び捨てで”エレーナ”とお呼びください。様は不要にございます」
「エレーナ、不便をかけるわね」
ベッドの上のロザリア様が申し訳なさそうに微笑むと、エレーナさんは嬉しそうに首を振った。
「奥様、そのお言葉だけで十分でございます。私には何の不便もございませんわ。控え室には休憩用の椅子もございますし、どうかお気になさらないでください」
「ギルバート様、リリア様も、このお部屋への出入りに関する制限はよろしいでしょうか?」
僕が確認すると、お二人とも深く、信頼を込めた目で頷いてくれた。
「早速始めよう。リーノ、リコル、頼むね」
「おにぃ、任せて!」
「……まかされた」
リーノが室内の魔素を根こそぎ消し去るように精密な魔法をかけ、その術式をリコルが独自の魔方陣によって空間へ強固に定着させていく。
さらに、エレーナさんの控え室には、入ってきた人間から漏れ出る魔素を吸着する魔法を魔法陣で固定した。
前世で言うところの”クリーンルーム”と”エアシャワー”の完成だ。
下準備が完全に整ったところで、いよいよロザリア様の治療へと移行する。
まず、リーノがロザリア様の左手の小指を両手で包むようにして持ち、僕が右手の親指を握る。
リーノはその小指から体内の過剰な魔素を少しずつ吸い出すように働きかける。
僕は親指から、あらかじめ極限まで薄めて刺激を無くした無属性の魔素を注ぎ込んでいく。
このように体内の魔素の”押し流し”を行うには、純粋な無属性の体内魔素を持っている僕とリコルが最適なのだそうだ。
同様の術式を、フィーネとリコルが左右の手を入れ替えて行う。
「親指から小指の間で、魔素をゆっくりと動かしています。……ロザリア様、何か動きを感じ取れますか?」
僕が問いかけると、ロザリア様はわずかに首をかしげる。
まだ感覚を掴めずにいるようだった。
「全く魔素が動いていないわけではありませんから、大丈夫ですよ。確実に治りますので、どうぞご安心くださいね」
フィーネがみんなの不安を払拭するように、優しい声で希望を伝える。
その言葉を聞き、見守っていたギルバート様やリリアさんを始め、セバスさん、そしてエレーナさんたちの顔に、ようやく深い安堵の表情が生まれた。
「……次、肘から指へ」
リーノの短い指示が飛ぶ。
僕とリコルが今度は肘のあたりから薄めた魔素を優しく注ぎ込み、リーノとフィーネが指先からそれを引っ張り出すように吸い出していく。
魔素の通り道を少しずつ長く、広くしていく作業だ。
「あら……なんだか感じるわ。何か、とても温かいものが、肘から指先へとすうっと流れているのが分かります」
「良かったです! それが体内魔素の正しい動きです。この魔素が体内で滞ることなくスムーズに循環し、指先から外へ放出できるようになれば、もうこの病気のことを心配する必要はなくなりますよ」
ギルバート様をはじめ、部屋にいる全員の顔にパッと喜びの笑みが溢れた。
スムーズに進んでいるように思えるが、神経を極限まで集中させる治療のため、ここまでで既に二時間ほどが経過していた。
「一度に全てを行ってしまうと、奥様の体への負担が大きすぎます。一旦ここで長めの休憩を挟みましょう」
僕のその提案を待っていたかのように、ギルバート様が僕たちに向かって声をかけてくれた。
「ヤノス君たち、本当にありがとう。今日は夕食も我が屋敷で摂ることにして、このまま一晩泊まっていくといい。何か、君たちの方で不都合な点はあるかな?」
僕たち四人は顔を見合わせた。
『宿に戻る予定だったけど、特に夜の予定はないし支障はないよね。どうする?』
『おにぃ、私は大丈夫だよ!』
『……美味しい飯大歓迎』
『私も異存はありませんわ、ヤノス』
みんなの気持ちは一つだった。
「君たちが宿泊している宿には、今晩はわが家に泊まるため戻らない旨を、こちらの使用人を遣わせて確実に伝えさせるから安心してくれ。セバス、手配を頼むよ」
「畏まりました、ギルバート様。すぐに人を走らせます」
セバスさんが慇懃に一礼し、手配のために素早く部屋を後にした。
ギルバート様の優しい気遣いのおかげで、僕たちは今夜、この豪華なお屋敷へ宿泊させていただけることになった。
十分な休憩を取り、体力と魔力を回復させたところで、ロザリア様の治療を再開する。
先ほど成功した「肘から指先へ」の魔素の流れをもう一度再現して体を馴染ませ、次はさらに距離を伸ばし、「肩から指先へ」の魔素の流れを作り出そうと試みる。
移動させる距離が倍近くになったため、先ほどとは違って体内の魔素がなかなかスムーズに動き出してくれない。
注ぎ込む圧力と、引き出す強さを念話でリーノたちと微調整しながら、何度も何度も試行錯誤を繰り返す。
そうして外が夕方に染まる頃、どうにかロザリア様の肩から指先へと、確かな魔素の奔流が流れるようになった。
まずは、薄めた純粋な魔素を外部から注ぎ込み、体内で濃縮されて悪さをしていた古い魔素を綺麗に取り出していった。
そのため、ロザリア様の体内の絶対的な魔素量もかなり減少してきているはずだ。
その成果はてきめんで、部屋に入ってきたときとは比べものにならないほど、ロザリア様の顔色は健康的な赤みを帯びてきていた。
今では誰の手も借りず、自力でベッドの上にしっかりと座れるようになっている。
「だいぶ、気分が良くなりましたわ。……ヤノスさん、リコルさん、リーノさん、フィーネさん。本当に、本当にありがとうございます」
ロザリア様が心からの感謝の言葉を口にされる。
しかし、僕は医療従事者としての表情を崩さずに告げた。
「安心するのはまだ早いです。食べ物や飲み物にも、微量の魔素が含まれています。今は体内の魔素が薄まっていますが、それも一時的なものに過ぎません。……ですので、ロザリア様の今晩のお食事につきましては、僕たちの魔法で完全に魔素を抜き去ったものを食べていただきたいのですが……よろしいでしょうか?」
誰へともなく尋ねた質問だったが、その部屋にいた全員が、弾んだ声で「もちろんです!」と一斉に同意してくれたのだった。




