第4話 魔法と動物たち
この世界にきて多分五日目。最初は満足に話すことも歩くこともできなかった体は、驚くほどの速度で馴染み始めていた。
子供のサイズになった歩幅に戸惑いながらも、扉となった壁の一部を抜けて、隣の部屋へと足を向ける。
その部屋ではリーノとフィーネがあぐらを組んで座っていた。
だが、その光景を目にした瞬間、僕は足を踏み出すのを忘れて呆然と立ち尽くした。
リーノの親指を除く八本の指先には、赤、青、黄、茶、金、黒、緑、紫の透き通った美しい球体がそれぞれ浮かんでいた。
(なんだろう、あの神秘的な色の球体)
また、フィーネの指先には、黄緑から濃い緑に至るグラデーションを帯びた5つの透明な球体と、それらを囲むように青、黄、茶の光を放つ球体が、まるで衛星のように美しく軌道を描いて輝きを放っていた。神秘的な球体へと心が奪われる思いがした。
それらの球体は、大きくなったかと思えば針の先ほどに小さくなり、色が濃くなったかと思えば透き通るように薄くなる。さらに、濃い霧状に変化したかと思えば一瞬で元の球体へと戻り、最後はそれぞれの指先へと吸い込まれるようにして消滅した。
(とても不思議な現象だ。僕もあんなことできるのかな?)
ほんの僅かな希望が胸によぎるが、どうやればできるのかその手がかりさえ掴めない。ただ呆然とそれを見つめるしかなかった。
(魔法なのだろうか?)
人間が右手で円を描きながら、左手で四角を描くことすら難しいというのに、彼女たちは異なる性質の何かを、複数同時に、しかも完全に独立させて明滅・変形させていた。
それは、まるで精密に制御されたホログラムを見ているかのような、圧倒的なまでの完成度だった。元大人の理系的な視点から見ても、それがどれほど高度な並列処理と、精密な制御によって成り立っているか……容易に想像がついてしまう。
『ヤノス起きてたの、大分動けるようになったみたいね』
(ヤノス……? あ、そうか。それは、この世界で新たに獲得した僕の名前だった)
一瞬自分のことだと分からず戸惑ったが、ゆっくりと顔をこちらへ向けながら、フィーネが念話で優しく語りかけてくれた。
「少し違和感はあるけれど、歩いたりするのはだいじょうぶみたい」
実際に口を動かして返事をしてみる。まだ少し舌がもつれる感覚はあるものの、5日前よりはずっとスムーズに声が出せた。
『それは良かったわ。リーノ、もうそろそろね』
隣でフィーネがぽつりと念話を紡ぎ、その優しい視線が僕へと向けられた。
フィーネがリーノに何か促している様子だ。
『そうだ。ヤノスも一緒にどう? これから森の動物たちとの時間なの。ヤノスはまだ体内魔素の操作や魔法は無理だけど、動物たちとお友達になることはできると思うわ』
そう言ってリーノとフィーネが立ち上がると、木の壁の一部に滑らかな穴が開いた。それがだんだんと大きくなり、人が通れるほどの出口に広がると、眩しい外の光が部屋の中へと差し込んできた。
二柱の後について外に出ると、そこには様々な色と形をした花々が辺りの地面を埋め尽くすように咲き乱れており、優しい朝の光がそれらを包み込んでいた。
テニスコートが何面もとれそうな、見渡す限りの花の絨毯。その向こうには、まるで緑の壁のように巨大な木々が生い茂っている。また、木と木の合間からは、何かがこちらをじっと伺っているような気配がした。
(――待て。さっきまで、僕はどこにいたんだ? 思い浮かべるだけで窓ができたりしていたが、あの部屋はどんなところだったんだろう?)
ふと疑問に思い、後ろを振り返った僕は、あまりの光景に言葉を失って呆然とした。
横幅というか、幹回りと言ったら良いのだろうか。そこにあったのは、「一本の木」という概念を遥かに超越した、まるで巨大な超高層ビルのような大樹だった。
よく、大木の太さを「何人が手を繋いで囲めるか」と表現することがあるが、これは100人、いや数百人がかりでも一周できるか分からない。
見上げると、一番下にある最初の枝が生えている位置すら、現代の二十階建てビルの屋上かと思うほど、遥か高い雲の手前にある。僕はただ、その圧倒的な存在感に圧倒されるしかなかった。
呆然としたまま、今度は広大な野原に目を戻す。
すると、木々の隙間からありとあらゆる動物たちが続々と顔を出した。
リスやウサギなどの小動物から、フクロウや鷹といった猛禽類、果てはヒョウや熊などの大型の獣まで――。
彼らは立ち止まり、まるで私たちを観察するように静かに見つめている。
『はーい。今日も症状が重い子がいたら、順番を譲ってあげてね。では始めるね』
フィーネが穏やかにそう告げた。
その言葉が、まるで堰を切る合図だったかのように、静かだった朝の空気が一瞬にして騒がしいものへと変貌する。動物たちが我先にと、こちらへ押し寄せてきたのだ。
だが、その姿をよく観察した僕は息をのんだ。
彼らは、誰も彼もが酷い怪我を負っていたり、ぐったりと衰弱していたりと、痛々しい状態の者たちばかりだったのだ。
『ちゃんと二列に並ぶのよ。それとさっきも言ったように、症状が重い子がいたらちゃんと順番を譲ってあげるのよ』
フィーネは慌てることなく、押し寄せる傷だらけの動物たちを優しく誘導していく――」
それからは、まさに地獄のような忙しさだった。
一匹一匹? 一羽一羽? いや面倒くさい一人一人だ!
小さな身体を必死に動かし、傷ついた彼ら一人一人に声をかけながら、状態を見て回った。
案の定、動物たちから人間の言葉で返事が返ってくることはなかった。
だが、ぐったりと衰弱している子や、見るからに怪我の程度が重そうな子は、フィーネやリーノの元へと抱きかかえて運ぶ。
そんな私の奮闘を優しく見守りながら、フィーネが動物たちに念話を語りかける。
『ごめんね。最近あなたたちのこと、診てあげられなくて。大分待っていた子もいるんじゃないかしら。でも、今日からは毎日診てあげられるから安心してね』
その言葉が頭に響いた瞬間、僕はハッと動きを止めた。
(……待てよ。診てあげられなかったのって、もしかして、僕がこの世界にやってきて、激痛で動けなかったあの五日間のせいか……?)
精霊たちがつきっきりで自分の面倒を見てくれていたから、森の動物たちの治療が滞ってしまっていたのだ。その事実に気づいた瞬間、胸がちくりと痛んだ。
(それじゃあ、僕のせいでこの子たちを待たせていたのか……! 僕こそ必死に頑張らないと!)
責任感と申し訳なさが、小さな身体に新たな活力を与える。
胸の中に湧き上がる熱い思いに突き動かされるようにして、僕は再び傷だらけの動物たちの間を、一心不乱に駆け巡っていった。




