第3話 名前
鳥のさえずりが心地よい響きとなって、少しずつ意識が現実へと引き戻されていく。
車の走行音や、騒々しい街の雑音は一切聞こえない。聞こえるのは、ただ鳥たちの清らかな歌声だけだった。
ゆっくりと目を開ける。
そこは、あの現実離れした木の中をくり貫かれたような部屋だった。この世界で迎える、三回目の目覚め。
体を起こし、改めて自分の幼い手足を見つめる。大人の記憶を持ったまま、この小さな体でこれからの人生が始まるのだという事実を、いやでも再認識させられた
(外は、どんなところなんだろうな……)
ふとそう思った、次の瞬間だった。
ガサリ、と音がして、目の前の木の壁の一部が、まるで最初からそうであったかのように滑らかにくり抜かれ、四角い窓の形に変わった。
「えっ……!?」
驚いて目を見開く。
開いた窓からは暖かな日差しが差し込み、眩いばかりの緑に溢れた景色が目に飛び込んできた。その窓辺に鳥たちが一羽、二羽と降り立ち、興味深そうに首を傾げながら部屋の中を覗き込んでは、また賑やかに飛び立っていく。
(窓を連想したら窓ができた……! なら、扉を連想したら外に出られるかも?)
必死になって壁に”扉”をイメージしてみたが、壁はピクリとも反応しない。
(流石にそこまで都合よくはいかないか。なら、あの窓から外を覗いてみよう)
ベッドから立ち上がり、窓の方へと足を踏み出す。
だが、身体の感覚がひどく狂っていた。思うように力が入らず、三歩も進まないうちに派手に倒れ込んでしまった。
『起きていたのね。って、あらあら! そんなところに倒れてどうしたのです?』
驚いた声とともに、緑色の髪をした大精霊――フィーネがすぐそばに滑るようにやってきた。
『まだまだその体に馴染んでいないのですから、急に外に出ようとしてはダメですよ。少しずつ動けるようになりますから、まだベッドに横になっておきましょうね』
「か、か・ら・が……」
やはり、まだ言葉が上手く繋がらない。
『無理に喋らなくて大丈夫。体に馴染んでいないのもそうだけど、大人の魂に対して、今の器がまだ幼すぎるのよ。少しずつ慣らしていきましょうね』
フィーネは優しく微笑み、私の額にそっと手を当ててくれた。その手から伝わる温かさに、張り詰めていた心の緊張が少しずつ解けていくのが分かった。
ラノベやアニメで「異世界転生」の知識は持っていたが、まさか自分の身に起こるとは思ってもみなかった。だが、現実として受け入れるしかない。前の世界への未練が全くないのが、せめてもの救いだろうか。
そんなことを考えていると、急に強い脱力感が身体を襲った。全身が重く、身体の奥がじんじんと疼くような感覚だ。
(……そうだ、前世で事故に遭う直前、仕事終わりで腹が減っていたんだ。この身体の重さと脱力感は……お腹が空いているせいじゃないか? 何か食べるものはないだろうか……)
僕がそう念じた瞬間、フィーネが不思議そうに首を傾げた。
『お腹が、すいた……? 何か、たべたい? って、それは一体どういうことですか?』
「い、い、い」
いらだたしいことに、まだ言葉がスムーズに出ない。
『だから、お腹がすいたって言ってるの!』
その時、また壁に滑らかな穴が空き、もう一人の精霊――精霊女王リーノがするりと部屋へ入ってきた。
『リーノ? お腹がすいた、って何なの? たべたい、って言ってるけど、どういうことなのか教えてくれる?』
フィーネがリーノに問いかける。
リーノは小さな人差し指を顎に当てて、うーん、と記憶を探るように考え込んだ。
『うーん。……食べる? ……あっ。人間、動物、植物……口から、取り入れる。それ……養分?』
『あなたねぇ! 人間の生活をよく知っているのはリーノ、あなただけなんだからね。もし、この子が私たちの想像通りの存在だったら、私たちの存続にも関わってくるのだから。しっかりしてよ』
フィーネがリーノをたしなめるが、僕の空腹は限界に近づいていた。
二人の漫才を頭の中で聞きながら、僕は必死に割り込むように念話を飛ばした。
『二人とも、突っ立って黙ってないで、何か食べるものをもらえないか!? 本当にお腹がすいたんだって!』
『何を食べたいの。何でもすぐに用意できるわけではないのよ』
『肉がいい。それと、それと、温かいご飯が食べたい』
『肉……? ご飯……? ねえ、リーノ! それって何なの!?』
フィーネには、人間の食事が理解できないらしい。リーノに話を振られたリーノは、思い出したように小さな手をポンと叩いた。
『肉……? ……あっ! 動物の体!? 人間、動物、バラバラにして、火、色を変え、口に入れる。食べいてた』
『な……っ! 何なのよそれ! 動物をバラバラにして火に!? 絶対に私の森の生き物をそんな目にあわせませんからね! そもそも、この森で火を使うなんて論外です! それより何より、この子、人間と同じように食べ物が必要なの!?』
フィーネが青ざめた顔で、僕を見つめてくる。野蛮なものを見るような目なのかもしれない。しかし、そんな事情など僕には関係ない。
『また、黙っているけど、念話で何かを話し合ってるだよね。何でもいいから食べられるものをくれよ!』
僕が限界を訴えると、フィーネはハッとしたように動きを止め、こちらを慈しむような目で見つめてきた。
『食べるものは用意するわ。用意はするけど……その前に、まずはあなたの「名前」を決めなくては。前の名前は思い出せないのでしょう? これから私たちの元で生きていくのだから、まずは新しい名前を付けてあげたいのよ』
『名前? 僕の名前……? 思い出せない! 出来事は思い出せるけれど、周りの人の名前は思い出せるのに自分の名前だけをどうしても……。そ、それは、どうでもいいから! まずは食べるものをくれ!』
二柱の精霊がなおも名前について話し合おうとした、その時だった。
パタパタと羽音が響き、1羽の小さな鳥が窓枠にとまった。その鳥は、口にくわえていたものを「トスン」と床に落とすと、満足そうにさえずって飛び去っていった。見ると、それは丸まると太ったドングリのような木の実だった。
『そう、これよ。これを食べてみて。森の小鳥たちが、あなたのことを心配して持ってきてくれたのよ』
『ド、ドングリ!?』
さらに、別の鳥たちは、みずみずしい緑色をした綺麗な葉っぱをくわえてやってきて、次々と落としていった。
『森の鳥たちがあなたを心配して、ほら、こんなにたくさんの食べ物を持ってきてくれましたわ。さあ、どうぞ食べてみて!』
笑顔を浮かべたフィーネが、鳥たちが落としていったドングリや葉を持って僕の前に持ってきた。
満面の笑顔を浮かべたフィーネが、鳥たちが落としていったドングリや葉っぱを両手いっぱいに抱え、私のベッドの前に持ってきた。
「ぼ……、ぼ……、ぼくは、リスさんでもやウサギさんでもない」
あまりのことに叫ぶように声に出してしまう。
『あら、良かったわね。しゃべれるようになったじゃないの』
『それよりも、僕は料理したものを食べたい』
『あなたの頭の中にあるイメージで食べるという行為は解るんだけど、この森では火は使えないわ。ましてや生き物を殺して、それを食べることは絶対にできません。いいから、まずはそれを食べてみて!』
ドングリなんて固くて割れない……と思っていると、平らな石と小さな石が目の前に現れた。フィーネが慣れた手つきでコンコンと殻を割り、中の実を差し出してくる。
『ほら、食べてみてごらん』
半信半疑で口に入れてみると、生のドングリとは思えない澄んだ甘みが広がった。それと同時に、全身にすーっと温かい活力が満ちていく。
『満足してくれたみたいね。一段落したみたいだし、名前がないと不便よね? リーノ! あなたが名前を付けてあげて!』
『え!』
突然話を振られ、リーノが驚いたようにパチクリと大きな目を見開いた。
少しだけ迷惑そうな、仕方ないといった表情を一瞬見せたが、すぐに何かを決意したような、大真面目な顔つきへと変わる。
部屋の中に、神秘的な静寂が流れた。
やがて、リーノはまっすぐ僕を見つめると、鈴を転がすような声でその名前を告げた。
『ヤノス』
ぽつんと呟かれた、一言。それが、私の新しい名前になった。
『ヤノス! いい名前ね。これからあなたの名前はヤノスよ』
フィーネが嬉しそうに、歌うように笑う。
「ヤノス……」
声に出して確かめると、新しく作り替えられた肉体と魂の奥底に、「ヤノス」という名前が深く刻まれていくのを感じた
お腹が満たされた安心感と心地よい安らぎに包まれながら、僕――ヤノスは、深い眠りの底へと心地よく落ちていった。




