第29話 歴史の爪痕
「今から二千五百年前のことよ。神は人間に絶望し、地上に住む多くの人々と動物が死んでしまうほどの天罰を下した、と言われているけど……そのことは知っているかしら」
アナエル様が、哀愁を帯びた瞳を僕に向ける。僕はかつて大樹の森で、フィーネから聞かされたこの世界の過去を思い出す。
「二千五百年前に、この世界の人類や生物のほとんどが死滅するほどの出来事があった、とは聞いています。ですが……それ以上の詳しいことは知りません」
僕の答えを受け、アナエル様はゆっくりと言葉をかみしめるようにして、静かに話を続けられた。
「なぜ神が天罰を下されたのか、その理由ははっきりしないの。けれど多くの学者の間では、当時の人々が傲慢な生き方をしていたからだろう、とされているわ」
半分は予想していた答えに、僕は黙って頷くことしかできなかった。
「そして、僅かに生き残った人々から現代へと語り継がれているのが、神はその時に、夜空へ六つの星を残されたということ。それも、昼でさえも輝き続ける星をね。このことは、遺跡調査や多くの古文書の資料からも、間違いない事実であろうとの結論に至っているわ」
――生命の大絶滅と、昼でも輝く六つの星。
おそらくそれは、現代の天文学でいう”超新星爆発”――星の寿命がつきる瞬間の大爆発のことだ。しかし、一度に六つもの超新星爆発が同時に観測されるなんて、地球の歴史でも聞いたことがない。
驚いた目を見開いた僕の顔を観て、アナエル様は小さく微笑み、さらに話を続けられた。
「その星を、神から人類への”新たな旅立ちへの祝福”として捉え、教えを広げているのが”創世教”よ。私たち、この国のほとんどの人が信じている教えね。けれど、それとは全く違う別の解釈をする宗教もあってね。あの六つの星は、天から我々を厳しく監視している”神の目”であり、人間へ罪の意識を忘れさせないための警告なのだと言っているのが”黙示教”よ」
二つの宗教の対立を、僕はここで初めて知った。
ふと、かつて僕がいた地球での、戦争の歴史が脳裏をよぎる。この世界でも、同じような凄惨な対立が起きるのだろうか。嫌な予感が、僕の胸をざわつかせた。
「その二千五百年前を私たちは”創世元年”と定め、決してその日の教訓を忘れないように生きているのよ。そして今年は、ちょうど創世二千五百年に当たるのよ」
(この世界の創世の歴史と、この町で作物が育たないこと……一体、どのような関係があるんだろう)
僕が頭の中で必死に思考を巡らせていると、アナエル様はゆっくりと僕の方へ向き直り、少しずつ、この土地が抱える深刻な問題へと触れられた。
「その二千五百年前、この土地は海面より低い場所だったみたいなの。今でも海岸線付近に、巨大な堤防の跡が残っているわ。当時の人々が、押し寄せる海水を防ぐために必死に築いたものらしいのだけど……。そのような堤防の跡は、世界中に点在していると言われているわ」
アナエル様は、遠くを見つめる目で一呼吸の間を置かれ、話を続けられた。
「創世の災害の時、神の怒りで海面が一気に押し上げられ、膨大な海水がその堤防を乗り越えて、この土地を完全に覆ってしまったみたいなのよ。その後、神の怒りもおさまり、徐々に海面が下がっていき、世界中の海岸線は後退したんだけど……」
「――その、この土地を覆った海水が、植物の生育と関係しているのですか?」
思わず僕は、言葉を遮るように質問してしまった。アナエル様は驚いたように目を丸くした後、僕へと優しい笑顔を向けた。
「さすがは、ヤノス君ね。そうなの。元々、この土地は水が引きにくい地形だったことも影響して、堤防を乗り越えてきた海水が、長い間引かないまま残ってしまったのだろう、というのが学者の意見よ。……そのせいで、今も私たちは塩害に苦しんでいて、農作物がどうしても育たないのは厳然たる事実なの」
(海面より低い土地。そして、それを取り囲むように残る巨大な堤防の跡……)
僕の胸の奥で、言葉で言い表しようのない奇妙なざらつきが生まれていた。
大災害が起きるずっと前から、この世界の海面は徐々に上昇し、内陸へと迫っていたのではないか……?
そこに、災厄によって、一気に海水が押し寄せて街が沈んだのだとしたら。
確かな答えなど、今の僕にわかるはずもなかった。
だが、目の前にあるのは、ただ塩害に苦しむ貧しい地方都市の現実だけだ。
大きくため息をついたアナエルさんは、どこか寂しげな、けれど僕を安心させるような笑顔を浮かべる。
「この土地の南は、同じ国内なのだけど違う領主が取り仕切る領地と接しているの。僅かだけど人の往来もあって、境界の町として重要な存在なのは間違いないのだけど……。これと言った特産品も、栄える術のない、貧しい町というのがここの現実ね」
「どうしてそんな大切なことを、僕みたいな子どもに話してくれたのですか?」
どうしても沸いてくる疑問を、アナエル様に尋ねる。
「邪獣が討伐されて、ホッとしたからかしら?」
アナエル様はそういってクスッと悪戯っぽく笑い、僕を煙に巻いてしまった。そして、ふと空を見上げる。
「まあ、こんな時間! あら、町の人々ともう少し話してくるわね」
そう言葉を残して、彼女はベンチからそっと立ち上がった。遠ざかっていく彼女の背中を見送りながら、僕の中で、彼女に対する見方が静かに変わっていくのを感じていた。
なんだか、いつもの凜とした知性溢れる完璧な貴族の女性、といった印象から、多くの悩みを抱えながらも、この町のために必死に頑張っておられる一人の人間へ、と。
そのときに思い至った。
先ほどの「名前で呼んでくれ」と執拗に言われたこと。またその後で、声を上げて上品に笑われたこと。
あれらはすべて、執行官という重責を背負い、常に張り詰めた緊張感に苛まれているであろうアナエル様。
祖のアナエル様が、大人顔負けの活躍をしてのけた僕の困り果てた年相応の顔を見て、ほんの一瞬芽生えた”ゆとりと遊び心”の表れだったのだろうな、と。
彼女が去ったガゼボの静寂の中で、僕はそんな大人の心の機微を、この町が抱える歴史の爪痕を、静かに噛みしめるのだった。




