第28話 アナエル様の逆襲
アイリスに言われたように、このグリアードの町を囲む外壁や、その周囲に張り巡らされた柵のあたりには、植物があまり生息していなかった。
あの荒涼とした光景が脳裏に蘇り、僕はなんと言葉を返せば良いのか分からなくなってしまう。
『気になっていたし 探ってくる』
不自然さを感じていたのか、リーノがそう念話を残して、ふっと気配を消した。
どこかへ調査に向かったらしい彼女のサポートが途絶えた瞬間、僕の頭は真っ白になる。
あれだけ頼りないと思っていたリーノのサポートがなくなった。
それからの時間は、僕にとって軽いパニックだった。
アイリスからいろいろと問いかけられたり、声をかけられたりしたものの、リーノの助けがない僕は、自分が何をどう答えたのかすら思い出せないほど追い詰められていた。
やがて、アイリスが仲の良い友達でも見つけたのか、「しばらく失礼しますわ」と言って僕の前から離れていった。
一人残された僕は、先ほど彼女が口にした「農作物が育たない土地」という不穏な謎がどうしても頭から離れず、詳しい事情を知っていそうなアナエル様を探すことにした。
賑わう広場をしばらく歩き回り、ようやく町の有力者らしき人物と話し込んでいるアナエル様の姿を見つけた。
そっと近づき、話が終わるのを少し離れた場所で待つ。
すると、アナエル様はこちらへと見向きもしないのに、僕の気配に気づいた様子で、手短に話を切り上げて僕の方へと振り返った。
「今日のヒーローさん、どうしたのかしら?」
茶目っ気のあるその言葉に、僕はドキッとして動揺しそうになるのを必死で隠す。そして、先ほどから胸につかえていた疑問をぶつけることにした。
「奥様に、一つお聞きしたいことがあるのですが。よろしいでしょうか」
「あら、アナエルよ」
「は……?」
唐突な訂正に、僕の思考はフリーズした。アナエル様は僕の困惑を楽しそうに眺めながら、さらに言葉を重ねてくる。
「この街の恩人なのですから、アナエルと呼んでください」
(娘さんに続き、母親までこれか!? う――、どうしてこう……こうも、貴族という生き物は、やりにくいんだ……!)
脳内で激しい叫びを上げながらも、僕は引きつりそうになる笑顔をなんとかごまかしながら、先ほどの言葉を言い直した。
「アナエル……様……?、一つお聞きしたいことがあるのですが。よろしいでしょうか」
どうしても「様」を外せなかった僕に対し、アナエル様の端正な顔に一瞬、不服そうな表情が浮かんだ。
「あら、アイリスは呼び捨てで呼んでもらったって聞いているのだけど? アナエルと呼んでくれないの?」
楽しげな笑みを浮かべながら、さらに僕を逃げ場のない所まで追い詰めてくるアナエル……様。
「……へ?」
(人妻だし、言えるわけないだろう)
心の中で大きく毒づく。
最近徐々に地球での感覚が消えかかってはいても、中身が大人の男性だった頃の自分が少し残っている。
そう、大人だからこそ、美しい既婚の女性を気安く呼び捨てにするなど、前世の倫理観が許さない。
「で、でも、ボックのような子供が……」
なんとか「子ども」という免罪符を使って逃げようとする僕に、アナエル様はクスッと扇子を揺らした。
「あら、あら、大人も顔負けの大活躍をしておいて、ここに来て”子ども”ですか?」
「あ、あの、アナエル――様」
やっぱり、敬称を略して呼ぶことなんてどうしてもできない。
地球での社会人としての常識と、目上の大人の女性に対する気後れが、どうしてもそれを許さない。
困り果てて泳ぐ僕の視線を見て、アナエル様が口元を扇子で隠しながら、急に声を上げて上品に笑い出した。
「はい、はい、英雄さん。ごめんなさいね。アイリスがあなたに名前で呼んでもらったって、とても嬉しそうに報告してきたものだから。ちょっと私も言ってみたかったの」
「――からかったのですか?」
僕が呆然として尋ねると、アナエル様は悪戯っぽく小首を傾げた。
「あら、半分は本気だった……かな?」
(怖い、できれば、もうこの問題には二度と触れたくない……!)
僕の心の中で、最大級の警鐘がガンガンと鳴り響く。
すると、さっきまでの楽しげな笑顔がふっと消え、アナエル様は優しい面持ちを残した真面目な顔つきに戻られた。大人のそして執行官としての顔へと鮮やかな切り替えに、僕は思わず背筋が伸びる。
「その話はここまでにしましょう! はい、何なりとお聞きください。答えられることだったら、何でも……お答えしますよ」
僕は、心の奥底に(やっぱり貴族は怖い……!)と深く刻み込みながら、気を取り直して必死に質問をはじめる。
「先ほどお嬢様――、アイリス様に、この町の周辺では、作物がそだたないとお聞きしたのですが……それは、どうしてなのですか?」
「あら、アイリスが? アイリスが、そんなことまで話したのですの。困った子ですわ」
(その、”アイリスが?”、”アイリスが”の部分が、どうも気にかかるのは僕の気のせいだろうか。……いや、もう余計なことは考えない方が僕自身のためだ。深く考えるのはよそう)
僕は心の中で必死にシャッターを下ろした。何度も何度も”今のはただの気のせいだ”と自分に強く言い聞かせ、引きつりそうになる顔でやっとの思いで笑みを維持した。
僕のそんな必死の抵抗に、気付いたのか、気付かなかったのか――。
アナエル様は困ったように眉をひそめ、一度言葉を切った。それから、何かを決意したように僕をまっすぐに見つめ、その理由を語るための場所へと促した。
「ここで立って話す内容ではありませんし……。そうね、あのガゼボで座ってお話しましょう」
開けたオープンな場所でありながら、周囲から変な詮索も受ける心配もない東屋。
僕たちはそこへ移動し、この町が今も抱え続けている、遥か古の神がもたらした切ない歴史の傷跡について、耳にすることとなった。




