第19話 邪気
大樹の森を出るために、そびえ立つ崖を登り切った僕とリコル。
……ちなみに、崖を登り切った者の中にリーノとフィーネは絶対に入れてあげない。一歩一歩とあの崖を攻略したのは僕とリコルだから。
今まで暮らしてきた大樹の森を振り返り、目を凝らしてみる。しかし、崖の向こう側は白い霧に包まれており、全く何も見えない。
「森や大樹は、外部から見られないように結界で閉ざされているのよ」
リコルも驚いているようで、そう口にしたフィーネを見つめている。
「休む」
リーノが、短く一言口にする。
「一休みしたら移動するからね。持ってきたものを食べておいた方が良いわ。今は達成感で感じていないかもしれないけど、崖を登るのに体力をかなり使ったはずだから」
二人の声に、僕とリコルは魔法の収納から出したドングリを口にしつつ、これから進んでいく方向を眺める。
ある程度の緩やかな斜面を下った先は、尾根の間に深い谷が刻み込まれており、緑の木々に覆われていた。今までの崖に比べれば緩やかだが、実際はかなりの急斜面だ。
体内魔素を広げ、目の前にある腰の高さほどの岩よりも大きな動物を対象にして《サーチ》を唱える。
かなりの数の動物がいるようだが、僕達への害意は感じ取れない。ただ、広角度で《サーチ》をかけたので、遠くまで探ることができなかった。今度は角度を絞って、遠くまで探れるようにして《サーチ》を唱える。
何度か方向を変え様子を探っていたときだった。
「ゲホ。ゴホ。グゲー」
全身が、今までに味わったことのない。まがまがしい悪感情に包み込まれる。
あまりの気持ち悪さに、嘔吐が止まらない。
以前、リーノとフィーネから聞いた、邪気に浸食されたときの対処を思い出し、僕は即座に外界との繋がりを完全に遮断した。邪気から魂を保護するために、必死に自己防衛に努める。
そこには、「絶対にリーノやフィーネが助けてくれるという」確信があった。
仲間たちの姿を視界に捉えながら、次の瞬間、僕の意識は深い、深い闇へと沈んでいった。
◇ ◇ ◇
真っ青を通り越し、黒さすら感じる顔色をして、その場に頽れてしまったヤノス。
その急激な変化に気付いた3人が、慌てて彼の元に駆け寄る。リコルは、ヤノスの身に何が起きているのか想像もできずに、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
ヤノスの意識が完全に閉ざされたその瞬間、リーノとフィーネはリコルの動揺を引き起こさないよう、二人だけの念話でこの緊急事態への対応を話し合い始める。
『私がヤノスの身体に入る』
『リーノ、それ、だいじょうぶなの……?』
『ぶつかったとき、お互いの体の一部がそれぞれ混ざり込んでいる。だから大丈夫』
『じゃぁ、リーノにまかせるね。リコルのことは私に任せて!』
念話が終わるか終わらないかのうちに、リーノの体が虹色の霧のようなものに包まれた。その光はだんだんと薄くなり、とうとうヤノスの身体へと吸い込まれるようにして消えてしまう。
「リーノ……!?」
ヤノスが突然に嘔吐し、それを助けようとしていたリーノまで消えてしまった。
目の前の異常事態に、完全に気が動転したリコルが、ヤノスに抱きつこうとする。しかし、後ろからフィーネが必死に彼女の体を抱きしめ、押しとどめる。
「リコル! しっかりして! ヤノスもリーノも大丈夫。絶対に大丈夫だから!」
叫ぶようなフィーネの声は、彼女自身に言い聞かせているようでもあった。
「今リーノがヤノスを助けに行っているの。リーノはヤノスの身体に入り込み、悪いのと戦っているの。だから安心して。安心してリーノを待ちましょう」
フィーネにしっかりと抱きしめられ、こんこんと説き伏せられるうちに、リコルに少しずつ冷静さが戻ってくる。日頃からリーノとフィーネに、「平常心、平常心」と叩き込まれていたお陰だろう。
しかし、ヤノスの症状は悪化していく一方だった。
顔だけではなく、露出している手など、至る所が黒く染まっていく。だんだんとその色も濃さを増し、ついにはヤノスの周りの空間まで、黒いモヤが立ちこめはじめた。
「ねえ。おにぃとリーノ。本当に大丈夫なの」
リコルが泣きそうな声をあげる。
「大丈夫よ。ヤノスとリーノを信じましょう。リーノは精霊最上位の精霊女王だし、その訓練を二年間も耐えてきたヤノスよ。絶対に大丈夫だから」
そうリコルを慰め、元気づけながらも、自分自身に必死に言い聞かせているフィーネだった。
◇ ◇ ◇
遠距離サーチを行っていたら、急に強い悪感情や、心が壊れていくようなマイナスの感情に自分が包まれそうになった。
異変に気付いた僕は、昨日大樹の森を出たときに、みんなで話した内容を即座に思い出す。あのとき、フィーネに強く注意するように言われた、”邪気”や”邪怪”のことだ。
「邪人や邪獣、邪怪などは、普段は邪気の濃いところに生息しているけど、たまに邪気が無いところで活動していることがあるの。だから邪気が無いからといって安心しちゃダメ。どんな場所であっても注意を怠ってはいけないわ」
あのときのフィーネの真剣な表情が脳裏に蘇る。
そして、一つ絶対に覚えておいてほしいのが、邪気に浸食されそうになったときの対処法。もしそんなことが起きたら、自分の魂を守ること。全身の魔素を濃く集めて、自分の魂を守るの」
「次に、魂を守るために働いてくれた心を”魂を守る鎧”として張り巡らすの。魂を心で包んだら、最後に濃縮に濃縮を重ねた体内魔素で覆うのよ。その状態を守っていれば、必ずフィーネか私、または誰かが助けてくれるから。良いわね。魂は……」
その教えを思い出し、僕はすぐさま自分の魂のありかを探った、
思考の源である”心”で魂を覆っていく。最後に、僅かに働きを残した意識で、体中の魔素を圧縮に圧縮を重ね、最大限まで濃さを増し、魂と心を包み込んでいった。
ここからが、再生への大切な一歩だ。
魂と心を覆った魔素の一部を、針よりも、さらに髪の毛よりも細く光ファイバーのごとく伸ばしていく。そして、心から切り離された”無意識”という薄い膜で包み込んだ。
目で視認することができないほど細く形作られた体内魔素を、邪気に気付かれないように、その隙間をかいくぐるようにして左の腕の脇の皮膚の少し下へと伸ばしていく。
昨日言われたことを少しずつ思い出しながら、魂と心へつながる、今にもお折れそうな細い糸を紡ぐ。それが、生き残るための唯一の手段。
僕は無意識の奥深くへと沈み込んでいき、救済を待つことにした。
どれほどの時間が経っただろうか。
外界との繋がりを完全に断ち、深く凍結していた僕の心に、かすかな振動が伝わってきた。
『ヤノス! ヤノス! 聞こえる!?』
『ねえ、ヤノス聞こえる!? リーノよ!』
遠く、本当に遠くから、誰かが呼びかけてくるような感覚。
そのかすかな響きが、停止していた僕の心を優しく刺激する。リーノが僕を助けに、この深い闇まで来てくれたんだ。
しかし、周囲を囲む邪気の圧力は、依然としてとてつもなく強い。迂闊に防壁を解けば、一瞬で魂が侵食されてしまう。
僕は、無意識の奥底に深く隠していた「心」の一部だけをそっと動かし、極限まで制限された状態で思考を再開した。
思考を完全に閉ざす直前、僕は左腕の脇に向けて、体内魔素の細い糸を伸ばしていた。その、魂へと繋がる”心”を乗せた魔素の糸を、さらに細く、細く引き伸ばしていく。
邪気を慎重に避けながら、糸の先端を器用に枝分かれさせていく。暗闇を手探りで進むようにして、ついにリーノの意識を探り当てた。
僕は残されたわずかな力を振り絞り、細くなった魔素の糸を伝わせて、リーノへと念を送る。
「……リーノ……ここ、だよ……」




