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9.王家の終焉と、底辺からの見上げ


 翌朝――エルディア魔導王国、王城。

 帝国から届けられた賠償請求書は、僅か一枚。

 そこに記された数字を見て、老国王はその場に膝を折った。

 国家の年間予算、およそ三百年分。

 国土を売っても、国民を売っても、決して支払えぬ天文学的な額。

 それは、賠償ではなく、事実上の宣戦布告だった。


「……無条件、降伏で、ござる」


 国王が、震える唇で、玉座の前に伏す。


「こ、国を、存続させていただくためには、それしか……」


 帝国側から提示された、唯一の存続条件。

 第一王子ユリウスの即時廃嫡。

 および、永久人質として、帝国へ引き渡すこと。

 国王は、決断するのに、一秒も要さなかった。

 国を取るか、息子を取るか。

 その天秤は、静かに、息子を切り捨てる方へと、傾いた。


「ユリウスは……我が王家の名簿から、抹消する」


 血を吐くような声で、布告された。

 そうして、第一王子の名は、王国史から消えた。





 ガルディナ帝国、最深部――『黒鉱坑道』。

 帝国に三つしかない、罪人専用の魔力石採掘場。

 日の光は、決して届かない。

 空気は重く、鉱毒で湿り、誰もが咳をしながら働いている。

 そこに、あの「神に愛された王子」の姿が、あった。

 首には、魔力を封じる漆黒の首輪。

 身分も、魔法も、王族としての記憶すら、外側から覆い隠す呪いの装具。

 燃えるような金髪は、汗と泥で固まり、灰色に汚れていた。

 絹のマントは、剥ぎ取られた。

 代わりに纏うのは、罪人用の粗末な麻布一枚。


「ふざけないでよ……っ! なんで私まで、こんな目に……っ!」


 隣で、ミレーヌが、ぐずぐずと泣きながら鉱石を運んでいた。

 白粉の落ちた頬は、土気色に痩せ細っている。


「全部、貴方のせいよ! 貴方が、調子に乗って『正式な外交』だなんて言い出すから!」

「貴様……っ」


 ユリウスは、汚れた歯を剥き出しにした。


「貴様こそ、本物の聖女ならば、結界を保てたはずではないか! 私を欺いていたのは、貴様だ!」

「は? 欺いていた?」


 ミレーヌの泣き声が、ぴたりと止んだ。

 次の瞬間、彼女の口元に、この女が今まで決して見せなかった、卑しい笑みが浮かんだ。


「貴方ねえ、本気で『光の聖女』なんて信じてたわけ? 私はね、貴方の権力にすり寄った、ただの平民の男爵令嬢よ」

「……は?」

「あの陰気な公爵令嬢を蹴落とせると思ったから、聖女を演じてあげただけ! 貴方が、勝手に信じ込んだの!」


(は、は、は……?)


「私のせいにしないでよ、馬鹿王子!」


 彼女は、ぺっと泥を吐き捨てる。

 ユリウスの脳が、ぐらりと揺れた。

 彼が選び、エララよりも価値があると信じ、王国を傾ける原因となった、その「聖女」が――。

 ただの、卑しい、嘘つきの女だった。

 もはや、罵る言葉すら、出てこない。

 二人の間に残ったのは、互いを醜く憎み合う、底冷えのする沈黙だけだった。

 ユリウスは、震える手で、鉱石を担いだ。

 脚は鉛のように重く、肺は鉱毒で焼け、一歩ごとに、自分が「人間」から離れていく。

 ふと――。

 地下坑道の天井に空いた、僅かな採光口から、はるか遠くの空が見えた。

 そこに、それは、聳え立っていた。


(……ああ)


 ガルディナ帝国の中心、皇城の真上。

 天と地を繋ぐような、巨大で、美しい光の柱。

 それは、エララの加護が具現化した、帝国の祝福そのものだった。

 その光は、暖かく。

 その光は、美しく。

 その光は――もう、二度と、彼が触れることのできぬ領域にあった。


(……私は)


 ユリウスは、汗と泥にまみれた頬を、ぐしゃりと歪めた。


(私は、何という宝を、自ら手放してしまったのか)


 あの夜会で、エララが「お受けいたしますわ」と、深く一礼した時。

 彼が「最後まで可愛げのない女だ」と吐き捨てた、あの一瞬。

 彼の人生は、すでに、終わっていた。


(あの時……あの時、彼女の手を、取っていれば)


 目の奥が、熱く滲んだ。

 しかし、もう、遅い。

 涙すら、彼女に詫びる資格は、ない。

 遠い光の柱の下で、エララはきっと、あの男に、優しく微笑みかけているのだろう。

 二度と、彼に向けられぬ、その微笑みを。

 ユリウスは、力なく、泥の中に膝をついた。

 神に愛された王子は、もう、どこにもいない。

 いるのは、底辺から、自らの罪を見上げる、ただ一人の罪人だった。





 同じ刻――ガルディナ帝国、皇城のバルコニー。

 冬の夜空には、無数の星屑が、宝石のように散らばっていた。

 手すりに肘を乗せ、夜風に銀髪を遊ばせるエララの背後に。

 ふわり、と。

 温かく、大きな腕が、彼女を包み込んだ。


「冷えるぞ、エララ」


 甘い、低音が、耳元で囁かれる。


「明日は、君の結婚式だ。風邪など、許さん」


 エララは、くすりと、笑った。


「ふふ……過保護ですわ、レオンハルト様」

「君に対してだけは、生涯、過保護だ」


 彼の唇が、銀色の髪をひと房、優しく掬う。


「明日の式が、楽しみだ。世界中の貴賓が、君を一目見るために、すでに帝都に集まっている」

「……まあ。私のような者を見るために、ですか?」

「君のような、ではない。君を見るために、だ」


 レオンハルトは、エララの頬に、自身の頬をそっと寄せた。


「世界が、ようやく真実を知るのだ。私の妻が、世界で最も尊い宝だということを」


 エララの胸の奥が、ふわりと、温かくなった。

 最適化演算の重さも、計算しなければならぬ義務も、もうここにはない。

 ただ、隣に、自分を心の底から肯定してくれる、一人の男がいる。


(……ああ、幸せ)


 それは、生まれて初めて、彼女が「自分自身のために」抱いた感情だった。


「レオンハルト様」

「ん?」

「明日――よろしく、お願いいたしますわ」


 星空の下で、二人の影が、ひとつに溶けていく。

 明日、世界は、新たな皇妃の誕生を、祝福する。


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