9.王家の終焉と、底辺からの見上げ
翌朝――エルディア魔導王国、王城。
帝国から届けられた賠償請求書は、僅か一枚。
そこに記された数字を見て、老国王はその場に膝を折った。
国家の年間予算、およそ三百年分。
国土を売っても、国民を売っても、決して支払えぬ天文学的な額。
それは、賠償ではなく、事実上の宣戦布告だった。
「……無条件、降伏で、ござる」
国王が、震える唇で、玉座の前に伏す。
「こ、国を、存続させていただくためには、それしか……」
帝国側から提示された、唯一の存続条件。
第一王子ユリウスの即時廃嫡。
および、永久人質として、帝国へ引き渡すこと。
国王は、決断するのに、一秒も要さなかった。
国を取るか、息子を取るか。
その天秤は、静かに、息子を切り捨てる方へと、傾いた。
「ユリウスは……我が王家の名簿から、抹消する」
血を吐くような声で、布告された。
そうして、第一王子の名は、王国史から消えた。
◇
ガルディナ帝国、最深部――『黒鉱坑道』。
帝国に三つしかない、罪人専用の魔力石採掘場。
日の光は、決して届かない。
空気は重く、鉱毒で湿り、誰もが咳をしながら働いている。
そこに、あの「神に愛された王子」の姿が、あった。
首には、魔力を封じる漆黒の首輪。
身分も、魔法も、王族としての記憶すら、外側から覆い隠す呪いの装具。
燃えるような金髪は、汗と泥で固まり、灰色に汚れていた。
絹のマントは、剥ぎ取られた。
代わりに纏うのは、罪人用の粗末な麻布一枚。
「ふざけないでよ……っ! なんで私まで、こんな目に……っ!」
隣で、ミレーヌが、ぐずぐずと泣きながら鉱石を運んでいた。
白粉の落ちた頬は、土気色に痩せ細っている。
「全部、貴方のせいよ! 貴方が、調子に乗って『正式な外交』だなんて言い出すから!」
「貴様……っ」
ユリウスは、汚れた歯を剥き出しにした。
「貴様こそ、本物の聖女ならば、結界を保てたはずではないか! 私を欺いていたのは、貴様だ!」
「は? 欺いていた?」
ミレーヌの泣き声が、ぴたりと止んだ。
次の瞬間、彼女の口元に、この女が今まで決して見せなかった、卑しい笑みが浮かんだ。
「貴方ねえ、本気で『光の聖女』なんて信じてたわけ? 私はね、貴方の権力にすり寄った、ただの平民の男爵令嬢よ」
「……は?」
「あの陰気な公爵令嬢を蹴落とせると思ったから、聖女を演じてあげただけ! 貴方が、勝手に信じ込んだの!」
(は、は、は……?)
「私のせいにしないでよ、馬鹿王子!」
彼女は、ぺっと泥を吐き捨てる。
ユリウスの脳が、ぐらりと揺れた。
彼が選び、エララよりも価値があると信じ、王国を傾ける原因となった、その「聖女」が――。
ただの、卑しい、嘘つきの女だった。
もはや、罵る言葉すら、出てこない。
二人の間に残ったのは、互いを醜く憎み合う、底冷えのする沈黙だけだった。
ユリウスは、震える手で、鉱石を担いだ。
脚は鉛のように重く、肺は鉱毒で焼け、一歩ごとに、自分が「人間」から離れていく。
ふと――。
地下坑道の天井に空いた、僅かな採光口から、はるか遠くの空が見えた。
そこに、それは、聳え立っていた。
(……ああ)
ガルディナ帝国の中心、皇城の真上。
天と地を繋ぐような、巨大で、美しい光の柱。
それは、エララの加護が具現化した、帝国の祝福そのものだった。
その光は、暖かく。
その光は、美しく。
その光は――もう、二度と、彼が触れることのできぬ領域にあった。
(……私は)
ユリウスは、汗と泥にまみれた頬を、ぐしゃりと歪めた。
(私は、何という宝を、自ら手放してしまったのか)
あの夜会で、エララが「お受けいたしますわ」と、深く一礼した時。
彼が「最後まで可愛げのない女だ」と吐き捨てた、あの一瞬。
彼の人生は、すでに、終わっていた。
(あの時……あの時、彼女の手を、取っていれば)
目の奥が、熱く滲んだ。
しかし、もう、遅い。
涙すら、彼女に詫びる資格は、ない。
遠い光の柱の下で、エララはきっと、あの男に、優しく微笑みかけているのだろう。
二度と、彼に向けられぬ、その微笑みを。
ユリウスは、力なく、泥の中に膝をついた。
神に愛された王子は、もう、どこにもいない。
いるのは、底辺から、自らの罪を見上げる、ただ一人の罪人だった。
◇
同じ刻――ガルディナ帝国、皇城のバルコニー。
冬の夜空には、無数の星屑が、宝石のように散らばっていた。
手すりに肘を乗せ、夜風に銀髪を遊ばせるエララの背後に。
ふわり、と。
温かく、大きな腕が、彼女を包み込んだ。
「冷えるぞ、エララ」
甘い、低音が、耳元で囁かれる。
「明日は、君の結婚式だ。風邪など、許さん」
エララは、くすりと、笑った。
「ふふ……過保護ですわ、レオンハルト様」
「君に対してだけは、生涯、過保護だ」
彼の唇が、銀色の髪をひと房、優しく掬う。
「明日の式が、楽しみだ。世界中の貴賓が、君を一目見るために、すでに帝都に集まっている」
「……まあ。私のような者を見るために、ですか?」
「君のような、ではない。君を見るために、だ」
レオンハルトは、エララの頬に、自身の頬をそっと寄せた。
「世界が、ようやく真実を知るのだ。私の妻が、世界で最も尊い宝だということを」
エララの胸の奥が、ふわりと、温かくなった。
最適化演算の重さも、計算しなければならぬ義務も、もうここにはない。
ただ、隣に、自分を心の底から肯定してくれる、一人の男がいる。
(……ああ、幸せ)
それは、生まれて初めて、彼女が「自分自身のために」抱いた感情だった。
「レオンハルト様」
「ん?」
「明日――よろしく、お願いいたしますわ」
星空の下で、二人の影が、ひとつに溶けていく。
明日、世界は、新たな皇妃の誕生を、祝福する。




