10.最適化された確率の先にある、ただ一つの絶対的な愛
ガルディナ帝国、皇城――新皇妃の控室。
冬晴れの朝の光が、磨き抜かれた大鏡の上で、きらきらと跳ねていた。
メイドたちが、息を詰めて、最後の仕上げを進めている。
幾重にも重ねられた、雪のように純白のシルクサテン。
帝国一の魔導裁縫師たちが、半年の歳月をかけて織り上げた、世界で唯一の特注ウェディングドレス。
その裾には、数え切れぬ細やかな魔導刺繍が、星座のように散りばめられている。
長い銀髪は、繊細な金細工と真珠で結い上げられ、純白のヴェールが、肩から床まで、なめらかに流れ落ちていた。
「エララ様……っ」
最年長のメイド長が、ぐっと唇を噛んだ。
「な、なんと、お美しい……」
その瞳から、堪えきれぬ涙が、ぽろりと一粒、零れ落ちる。
「私どもは、初めてこの控室を整えた、三年前のあの日から、ずっと、ずっと、この日を……」
「メイド長」
エララは、鏡越しに、ふんわりと微笑んだ。
「ありがとうございます。あなたたちが、この日まで、迎えてくださいましたわ」
控室の若いメイドたちも、揃って、目頭を押さえる。
誰もが、この瞬間に立ち会えた幸運を、噛み締めていた。
エララは、メイド長に深く礼を伝え、ひとり、鏡の前へと進み出た。
そこに、立っていたのは。
神々しいほど美しい、一人の皇妃だった。
(……これが、私)
澄み切ったアメジストの瞳に、もう、卑屈な影はない。
長年染みついていた、「私など」という諦めの色も、消えていた。
代わりにそこに在ったのは、自身の幸福を信じる、確かな光だった。
(無能と罵られ、追放されたあの夜から……)
半年も、経っていない。
吹雪の街道で、凍えながら微笑んだ自分。
暖かな馬車で、震える指で紅茶を受け取った自分。
膝の上で、書類を覗き込んだ自分。
温室で、彼の指先に頬を許した自分。
すべてが、この一日のために、繋がっていた。
(ありがとう、ございます)
彼女は、鏡の中の自分に、深く頭を下げた。
諦めずに、生き延びてくれた、十八年間の自分自身に。
その時、控室の扉が、ふっ、と開いた。
「――エララ」
甘く、低い声。
「陛下! ま、まだ、お待ちくださいませ! 花婿が花嫁を式の前にご覧になるなど、縁起が……」
メイド長の慌てた声を、ひと言で制して。
漆黒の正装に身を包んだレオンハルトが、迷いなく彼女に歩み寄った。
真紅の双眸には、初めて見るような、くしゃりとした笑みが浮かんでいた。
「メイド長、すまない。一目だけでは、待ちきれなかった」
彼は、周囲の目も気にせず、エララを深く、深く抱きしめた。
純白のドレスが、漆黒の正装に、しなやかに重なる。
「……エララ。君は、世界のどの宝石よりも、美しい」
耳元に、囁きが落ちる。
「君に出会うまでの私の人生は」
彼の腕に、力がこもった。
「……この日のために、確率が、調整されていたのかもしれないな」
エララの瞳から、ひと筋、温かな涙が伝った。
それは、悲しみの涙ではない。
胸の奥が、あまりに幸福で、零れ落ちただけの涙だった。
「レオンハルト様」
彼女は、震える唇で、確かに告げた。
「私も――ようやく、自分の生まれてきた意味を、見つけました」
彼の唇が、そっと、彼女の額に落とされる。
慈しむように、誓うように、永遠を約束するように。
◇
帝都中心、聖カルディア大聖堂。
高い円蓋の硝子から、冬の陽光が、虹色の光柱となって祭壇に降り注いでいた。
長い長い処女道を、エララは、ゆっくりと歩いた。
両脇を埋め尽くす、数千の貴賓と帝国民。
誰もが、息をするのも忘れて、彼女を見つめていた。
祭壇の前で、レオンハルトが、彼女の手を取った。
長い長い誓詞を、二人は、互いの瞳だけを見つめながら唱える。
そして――誓いのキスの、瞬間が訪れた。
彼の唇が、エララの唇に、優しく重なる。
(……ああ)
エララの胸の奥で、何かが、優しく弾けた。
幸福が、満ちる。
もう、抑えきれぬほどに。
その瞬間。
彼女の中で稼働していた『因果律の最適化演算』が、最高潮の出力を迎えた。
帝都の空に、無数の光の粒子が、舞い始める。
それは、雪ではなかった。
花弁でもなかった。
純粋な、祝福そのものの結晶だった。
大聖堂の硝子越しに。
帝都の街並みに。
遠くの農村と、海辺の漁港にまで。
帝国全土に、温かな光の雨が、ふわりふわりと、降り注いでいく。
「お、おお……っ」
「な、なんという、奇跡だ……」
民衆が、両手を空にかざし、涙を浮かべながら、その光を受け止める。
誰もが、本能的に理解していた。
これは、新たな皇妃が、帝国に贈った最初の祝福であると。
唇が離れ、エララは、薄く目を開けた。
(私の能力は、確率を計算する、冷たいもの)
彼女の瞳に、レオンハルトの微笑みが映る。
(けれど――彼が、私を愛してくれる、この奇跡だけは)
彼の指が、優しく、彼女の頬の涙を拭った。
(何の計算も、必要のない、絶対的な真実なのです)
大聖堂の鐘が、高らかに、鳴り響く。
光の雨に祝福された帝都に、万雷の歓声が、轟いた。
二人の影が、虹色の光柱に包まれ、ひとつに重なっている。
それは、最適化された無数の確率の、その先に辿り着いた。
たった、ひとつの。
絶対的な、愛の物語だった。
――そして、二人の幸福は、永遠に続いた。




