3.天才王子の初めての挫折と、帝国での甘やかし生活
帝都ガルディア――。
ガルディナ帝国の中心に屹立する皇城は、エルディアの王城が霞むほどに荘厳だった。
白亜の尖塔が、朝陽を弾いて煌めいている。
馬車から降り立ったエララは、思わず息を呑んだ。
「エララ様、お部屋にご案内いたします」
恭しく頭を下げたのは、揃いの制服を纏う専属メイドたち。
数えるのも億劫なほどの、列。
(……何かの、間違いではないかしら)
通された私室は、皇后陛下のための部屋――そう告げられて、彼女は二度、耳を疑った。
天井から床まで届く、絹の天蓋。
壁一面の書架。
磨き抜かれた大理石の床に、見たこともない異国の絨毯。
「すべて、陛下の御指示でございます」
メイドの一人が、誇らしげに胸を張った。
「エララ様のために、三年前から少しずつ、皇后陛下の間として整えて参りました」
(……三年前、から)
エララは、震える指でドレスの裾を握りしめた。
彼女がエルディアの王城で「無能」と罵られ、空気のように扱われていた、ちょうどその頃。
ここでは、誰かが彼女のために絨毯を選んでいた。
その事実が、胸の奥で、温かく震える。
「陛下より、本日のお贈り物がございます」
メイドの合図と共に、扉の外から運ばれてきたのは――山のような、ドレスと宝石箱だった。
「こ、こんなに……?」
「これは本日分でございます。明日はまた、別のお品が届きますので」
(本日、分……?)
エララは、軽い目眩を覚えた。
エルディアでは、姉のお下がり一着で半年を凌いでいたというのに。
「陛下は、エララ様が着飾られるお姿を、心の底から楽しみにしておられました」
メイドはそう言って、嬉しそうに微笑む。
「どうか、お好きなだけ、お選びくださいませ」
◇
同じ頃、エルディア王国南東部――魔物の森。
「ふん、雑魚どもめ! 私の偉大な魔法の前に、ひれ伏すがいい!」
ユリウスは、馬上で高らかに笑った。
低下した求心力を回復するため、彼は自ら魔物討伐の指揮を執っていた。
千の魔物の群れに対し、王国精鋭千五百騎。
数の上では、圧倒的優位だった。
「『大火炎魔法』――エクス・プロミネンス!」
彼の掌から、燃え盛る業火が放たれる。
これまで、幾度となく勝利をもたらしてきた、必殺の広範囲殲滅魔法。
ところが――。
「なっ……」
風が、変わった。
彼の意図と真逆の方向に、突如として強風が吹き荒れる。
「貴様、何をしている!?」
業火の渦は、魔物の群れを大きく逸れ、王国軍の右翼陣地を直撃した。
悲鳴。
燃え上がる仲間たち。
ユリウスの顔から、血の気が引いていく。
「ば、馬鹿な! 私の魔法は、必中だ!」
部下たちが彼を見る目つきが、変わった。
これまでは、神に愛された天才王子。
今は――味方を焼いた、無能な指揮官。
(あり得ない。あり得ない!)
(私の魔法制御は、完璧だ。何者かが、妨害したに違いない!)
動揺するユリウスをよそに、魔物の群れは雪崩のように突進してくる。
戦線は、瞬く間に総崩れとなった。
翌朝――。
ユリウスが威信回復の切り札として推進していた、大規模鉱山開発計画。
その採掘現場が、夜半の連続落盤事故により、坑道もろとも生き埋めとなった。
投じられた国庫予算、八万金貨。
すべてが、一夜にして瓦礫の下に消えた。
「あ、あり得ない……どうして、どうして、こんなことが!」
報告書を握りしめるユリウスの指は、もはや震えが止まらなかった。
彼の手掛けた事業は、これまで一度として失敗したことがなかった。
だから――失敗したときの対処を、彼は知らなかった。
◇
帝国皇城、皇帝の執務室。
「失礼いたします、陛下」
恐る恐る扉を叩いたのは、帝国宰相――白髪の老獪な男だった。
書類の山に埋もれた執務室には、皇帝レオンハルトと、その膝の上に書類束を抱えたエララの姿。
(……膝の、上)
宰相は、こめかみを引きつらせた。
他者を寄せつけぬ冷酷な皇帝が、こうも鼻の下を伸ばす姿を、彼はこの三十年、見たことがない。
「ご歓談中のところ申し訳ございません。北部交易路の物流が、また停滞しておりまして……」
レオンハルトが、無言で書類を受け取る。
それを横から覗き込んだエララが、ふと首を傾げた。
「あの……レオンハルト様」
「どうした」
「この第三関所での通関数値ですが、少し、おかしくはありませんか?」
(……は?)
宰相は、自分の耳を疑った。
「ここを通過する馬車は週に三百八十台。けれど、隣の第二関所は四百九十台。地理的条件を考えれば、本来の比率は逆転するはずですわ」
エララは、書類の数字を指で丁寧に追っていく。
「おそらく、第三関所の検問官が中抜きをしております。確率的に、ほぼ間違いなく」
「……根拠は」
「過去三ヶ月の通行料入金記録と、この日報の数値を照合すれば、ぴたりと差額が浮かびます」
彼女は、ふんわりと微笑んだ。
「私、こういう変数の整合は、得意ですので」
宰相の額に、汗が伝った。
その「変数の整合」とやらに、書類の山を一瞥するだけで気づける人間が、この大陸に何人いるというのか。
(まさか、噂は本当だったのか)
(陛下が連れ帰られたあのご令嬢こそが――『因果律の演算核』、その人なのか)
レオンハルトは、満足げに頷いた。
「聞いた通りだ、宰相。彼女の助言通りに、即時、調査を入れろ」
「は、はっ……ただちに」
退室する宰相の背は、戦慄に強張っていた。
◇
時を同じくして、エルディア王城――執務室。
「あの女だ……あの女に、違いない!」
ユリウスは、机を叩きつけ、獣のように吠えていた。
頬の煤も、焦げた軍服も、そのままに。
「結界の異常も、魔法の不調も、あの卑劣な無能女が呪いをかけているのだ!」
「で、ですが殿下、エララ様には魔力が……」
「黙れ!」
恐る恐る進言した側近の頬を、彼は容赦なく張り飛ばした。
「魔力ゼロでも、呪いは使える! あの陰気な女ならば、嫉妬と恨みで、いくらでも編み出せようぞ!」
(そうだ。そうに、決まっている)
(私が悪いのではない。あの女が、私の偉大な人生を妨害しているのだ)
彼の瞳は、すでに正気を失っていた。
「騎士団に命じる。即刻、ガルディナ帝国に潜入し――」
ユリウスは、ぎりりと歯を軋ませた。
「あの卑劣な女を、連れ戻せ。連れ戻して、拷問にかけろ。二度と私に逆らえぬよう、骨の髄まで思い知らせるのだ」
雪が、また、降り始めていた。
まだ、誰一人として、知らない。
その命令を受けた騎士団が、これから踏み込もうとしている場所――。
それが、大陸最強の竜帝が、最愛の妻を匿う、真の竜の巣であるということを。




