4.有能な人材を失った代償。国庫は枯渇し、帝国の玉座は輝く
ガルディナ帝国――。
エララが帝都に身を寄せて、ひと月。
帝国全土は、奇妙な「奇跡」に包まれていた。
北部穀倉地帯の収穫量、前年比で四割増。
南部漁港の不漁日数、昨年の半分以下。
通商路における盗賊団の壊滅率、九割七分。
帝国宰相は、提出された統計書を、二度読み返した。
「……陛下。これは、何かの誤植では?」
「いや」
玉座のレオンハルトは、書類から目を上げず、低く笑った。
「彼女は、ただ私の隣にいるだけだ。それ以外のことは、何もしていない」
宰相は、息を呑んだ。
ただ「いる」だけで、国家規模の事象が最適化される。
それが『因果律の演算核』という、人ならざる存在の真価。
帝国民は、すでにエララを「真の幸運の女神」と呼び始めていた。
市場では、彼女の似姿を彫った木製の守り札が、飛ぶように売れている。
(……困りましたわね)
報告書を覗き込んだエララは、頬をうっすらと染めた。
(私は、何もしていないのですけれど)
最適化演算は、彼女が望んで稼働させているものではない。
ただ「所属する陣営の不運を回避する」――それが、無意識下のパッシブスキル。
帝国を陣営として認識した瞬間、莫大な変数の補正が、自然と回り始めていた。
(けれど……)
彼女は、レオンハルトの横顔を見つめた。
(この方が、心地よく治められるのでしたら、それでいいのです)
◇
同じ頃、エルディア魔導王国――。
王都防衛結界の維持塔では、上席魔導士が床に膝をついていた。
「……魔力石の備蓄、本日中に底を尽きます」
「あと、何日、持つ」
「楽観的に見て、三日。悲観的に……明日にも、結界そのものが崩落いたします」
報告を受けた老国王は、玉座でぎりりと歯を噛みしめた。
結界の亀裂は、依然として広がり続けている。
補修に投じられた魔力石の予算は、すでに国庫の備蓄を食い潰した。
民衆の不満は、暴動の一歩手前まで膨れ上がっている。
「殿下! 聖女ミレーヌ様の祈祷の儀、本日も成果なく終了いたしました!」
使者の絶望的な報告に、ユリウスはガラスの杯を壁に投げつけた。
「無能な聖女め……! あれは、本当に聖女なのか!?」
「そ、そもそも『光の聖女』を自称しておられるだけで、教会の正式認定は……」
「黙れ!」
ユリウスの怒声は、もはや震えていた。
夜会で勝ち誇っていた、あの王子はそこにいない。
残っているのは、現実から目を背け続ける、痩せ細った見栄の塊だけ。
「殿下、もう、よろしいか」
会議の卓を囲んでいた老貴族の一人が、苦々しく口を開いた。
「我ら一同、殿下のご判断を、再考いただきたく存じます」
「……何だと?」
「魔力ゼロのご令嬢を追放されたのは、果たして正しい判断だったのか――と、ね」
手のひらを返した貴族たちの視線が、ユリウスに突き刺さる。
昨日まで、揉み手で擦り寄っていた連中。
その顔には、ありありと「責任を取らせろ」の文字が浮かんでいた。
(こ、こいつらまで……!)
(誰のおかげで、貴様らの領地が栄えていたと思っているのだ!)
いや、違う。
彼らの領地が栄えていたのは、エララの『最適化演算』のおかげだ。
その事実を、ユリウスはまだ、認められない。
「……黙っていろ。問題は、すべてあの女の呪いだ」
彼は、震える指で額を押さえた。
(ならば、答えは一つだ)
(あの女を、力ずくで連れ戻す)
ユリウスは、深夜、密かに王宮の地下を訪れた。
待っていたのは、王国最強と謳われる暗部の精鋭十二名――『紅の鉤爪』。
「報酬は、提示額の三倍だ」
ユリウスは、低く告げた。
「ガルディナ帝国に潜入し、銀髪の女を連れ戻せ。手段は、問わぬ。生きてさえいれば、片腕の一本や二本、欠けても構わぬぞ」
精鋭たちの瞳に、嗜虐の光が灯る。
彼らに、断る理由はなかった。
◇
ガルディナ帝国――皇城の温室。
冬咲きの薔薇に包まれた硝子張りの空間で、エララは紅茶のカップを手に微笑んでいた。
向かいに座るレオンハルトは、机の上に小さな書類束を広げている。
諜報部からの、定期報告。
彼の指が、ある一行で、ぴたりと止まった。
(……ふむ)
彼は、表情をひとつも動かさず、書類を伏せた。
代わりに、エララの手を取り、その指先に唇を寄せる。
「エララ。少し、席を外す」
「……どうか、なさいまして?」
「君が気にすることは、何もない」
レオンハルトの瞳は、いつもの甘さを湛えている。
けれど、その奥に、深く深く――凍てついた殺意が沈んでいた。
「虫けらが、這い寄ってきているようだ」
彼は、エララの銀髪をひと房、優しく梳いた。
「君の平穏を、決して、汚させはしない。私が少し、掃除してこよう」
冷酷な微笑みが、唇に浮かぶ。
(……レオンハルト、様?)
戸惑うエララの頬を、彼はそっと撫でた。
「すぐに戻る。その紅茶が、まだ温かいうちに、な」
◇
帝国西部、国境の森――。
月のない、深い夜。
雪に覆われた木々の合間を、十二の影が音もなく前進していた。
――『紅の鉤爪』
王国が誇る、最強の暗殺部隊。
数百の任務をこなし、未だ生還率十割を保ち続けてきた、王国暗部の至宝。
その先頭の男が、ふと、足を止めた。
(……気配?)
次の瞬間、男の喉から、ひゅう、と空気の漏れる音がした。
目の前に。
月光より白い、漆黒の影が、突如として「立って」いた。
高さ、約一九〇センチ。
漆黒の髪。
血よりも紅い、双眸。
「ガ、ガルディナ……竜、帝……っ!?」
絶句する暗殺者たちを、レオンハルトはゆっくりと見渡した。
その口元に、ひどく退屈そうな微笑が浮かぶ。
「我が愛しき妻の、平穏を脅かす――ゴミ共め」
一言。
ただ、それだけ。
なのに、空間そのものが、軋んだ。
近くの木々が、ばきりと音を立てて根元から折れていく。
雪面に、巨大な影の輪郭が、ぬっと浮かび上がる。
それは、明らかに「人」のものでは、なかった。
(……死ぬ)
暗殺者全員の脳裏に、同じ二文字が、走り抜けた。
月のない夜の森に、空間を凍てつかせる竜の覇気が、ただ静かに、放たれていた。




