2.吹雪の街道と、冷酷な竜帝の過保護すぎる出迎え
吹雪は、夜よりも深い闇を運んでくる。
エララは、薄いショール一枚で街道を歩いていた。
膝まで埋もれる雪。
凍てつく風が、銀の髪を容赦なく嬲っていく。
(……お足元、ですか)
彼女は、自分のヒールを見下ろした。
夜会用の細い踵が、雪の重みでへし折れかけている。
所持金もなく、地図もない。
行く当ては、最初からなかった。
(私の最適化演算は、いつも誰かのために働いてきました)
(ですから、自分自身の安全を計算したことなど……一度も)
息を吸うたび、肺の奥が凍りついていく。
指先の感覚は、もう失われていた。
まつ毛に張りつく霜が、視界を白く染め上げる。
(……これが、限界というものでしょうか)
膝の力が、ふっと抜けた。
冷たい雪原に、ゆっくりと身体が沈んでいく。
(おかしいですわね)
(数千万の確率を計算してきた私が、自分の凍死確率は、一度も導けなかった)
雪の冷たさは、もう感じなかった。
ただ、瞼が重い。
遠ざかる意識の中、彼女は薄く微笑んだ。
(殿下。今頃、どうしておられますか)
その時だった。
地響き。
最初は、自分の脈の音かと思った。
次に、それが大地そのものを揺らす蹄の音だと気づく。
雪の彼方から、漆黒の馬車が一直線に近づいてくる。
数十騎の帝国近衛騎士団。
漆黒の鎧。鋭い眼光。装備のひとつひとつが、エルディアの軍とは桁違いの精度で煌めいていた。
馬車が、エララの目の前で急停止する。
扉が、開かれた。
降り立った男の体躯は、雪空を裂くように高い。
漆黒の髪。
血を思わせる真紅の双眸。
その視線がエララを捉えた瞬間――
常人なら膝を屈するであろう絶対的な覇気が、ふっと、ほどけた。
「――エララ」
低い声が、震えていた。
彼は雪を蹴り、信じがたい速度で距離を詰めてくる。
近衛騎士たちが、思わず目を見張った。
「皇帝陛下、お待ちを!」
「私が、抱き上げる」
他者を寄せつけない、断ち切るような一言。
次の瞬間、エララの身体は分厚い漆黒の外套に包まれていた。
毛皮の内側に立ち上る、燃えるような体温。
彼女の凍えた頬が、彼の胸元に触れる。
「遅くなってすまない」
甘く、低い声が、頭上に降ってきた。
「よく耐えてくれた。よくぞ、生きて私の前まで来てくれた」
血塗られた竜帝、と恐れられる男の声とは、到底思えなかった。
(……私を、ご存じなのですか)
薄れていく意識の中で、エララは小さく問いかける。
「君のすべてを知っている」
即答だった。
「だから、もう何も心配しなくていい。眠っていろ」
彼女の身体は、軽々と抱き上げられた。
暖かな馬車の中。
絹張りの座席に、ふかりと深く沈み込む。
膝の上には、毛皮の毛布。
差し出されたのは、湯気の立つ紅茶のカップ。
「飲めるか」
「……はい」
震える指でカップを受け取る。
甘い香りが、鼻腔の奥で凍えた感覚をゆっくりと溶かしていく。
エララは、戸惑いながら問うた。
「あの……あなた様は、どうして私を……?」
向かいに腰を下ろした男は、紅々と燃える瞳でじっと彼女を見つめた。
「私はガルディナ帝国皇帝、レオンハルト・ガルディナだ」
心臓が、跳ねた。
神聖ガルディナ帝国――大陸最強と謳われる、軍事大国の絶対的支配者。
「三年前の外交舞踏会で、君を一目見た」
彼の声は、低く、けれど甘い。
「あの時、私は気づいた。エルディア王国の不自然な繁栄も、王太子の異常な成功率も、すべて君一人の演算によって支えられていることに」
エララは、息を呑んだ。
「君は『魔力ゼロ』ではない。君は、国家の運命を組み替える『因果律の演算核』だ」
誰にも、見抜かれたことのない真実。
無能と罵られ続けた十八年間で、初めて――誰かに肯定された瞬間だった。
「ずっと、君が自由になるこの日を待っていた」
彼の指先が、そっとエララの凍えた頬に触れる。
「もう二度と、君を凍えさせない。誰にも、無能などと言わせない」
エララの瞳から、ぽろりと一滴、温度のある涙が落ちた。
最適化演算の重さも、誰かのために計算する義務も、もうここにはない。
(……ああ、温かい)
ただ、それだけを思った。
◇
同じ刻――エルディア王国、王城。
深夜の魔法省は、悲鳴に支配されていた。
「結界が……結界が落ちます!」
研究塔の最上階。王都防衛の心臓部である『絶対結界』の制御室で、上席魔導士が床にへたり込んでいた。
頭上の巨大な水晶球。
長年、王都全域を覆ってきた光のドームに、無数の亀裂が走っていく。
ピシリ、と。
ピシリ、ピシリ、と。
水晶の表面を侵食する亀裂は、まるで生き物のように増殖していった。
「魔力供給は、最大値です! なのに、亀裂が止まりません!」
「あり得ない! この結界は三百年、一度たりとも揺らいだことがないんだぞ!」
絶叫が飛び交う中、一人の若い魔導士が、震える指で計測機を凝視していた。
「……魔力流の波長補正が、消失しています」
誰も、その意味を理解できなかった。
「これまで、何者かが波長を恒常的に補正していた痕跡があります。それが、今夜――正門が開いた時刻を境に、完全に途絶しているんです」
室内が、凍りついた。
その時、扉が乱暴に蹴破られた。
「貴様ら、何をやっておる!」
ユリウスだった。
夜会用の白い軍服は、シャンデリアの破片で無惨に裂け、頬には浅い切り傷。
整った顔は、隠しきれない焦燥で歪んでいた。
「結界が落ちるだと!? 馬鹿を言うな、あの絶対結界が崩れるはずがない!」
「で、ですが殿下、現に――」
「貴様らの怠慢だ! 今すぐ、補正しろ!」
その怒声に応えるように、頭上の水晶球が、ひときわ大きな悲鳴をあげた。
ピシッ。
亀裂は、もはや王都全体を覆う光のドームへと、伸び始めていた。
魔導士たちは、絶望の表情で空を仰ぐ。
誰もまだ、知らなかった。
追放したあの「無能な令嬢」こそが、この王国を生かしていた、唯一の存在だったということを。




