兄
離宮の執務室は庭の見える一階に設えてあり、窓からうっそうとした緑が見える。エリィは執務室の固めのソファーの後ろに立ち、向かい合って座るアッシュとノアの言い争いを聞いていた。
アッシュが兄のオーウェン皇太子に会いに行きたいと言ったのに対し、ノアは厳しい顔をした。
「私はオーウェン様のところに行くのは反対です。私とエリィだけでは殿下をお守りしきれません」
一ヶ月程前にアッシュがこの離宮から逃げたのは、兄に殺されそうになったからなのだ。その時オーウェン皇太子は、何者かに心を乗っ取られていたかの様だったという。
ベルテ島の魔女に、アッシュに掛けられた魔法は一種の結界で呪いを弾くものだと聞いてから、アッシュは自分は兄の呪いを払う使命があるのではないかと考えるようになっていた。
「兄上に近づかないことには、全く手がかりが掴めない」
アッシュの金色の瞳は落ち着いていて、揺るぎない。
ノアはアッシュをじっと見つめると、
「わかりました……」と唇をかんだ。
オーウェン皇太子が住まう区域は、王宮の長い回廊をずっと進んだ奥に位置していた。
案内された部屋は広々としており、壁一面に設けられたバルコニーの外には、無機質な石畳と無駄に晴れ渡った水色の空が広がっている。
しばらく待っていると、奥の扉からオーウェン皇太子が近衛を二人連れて現れた。
オーウェン皇太子はすらりとした長身で、長い銀髪と知的な茶色の瞳が落ち着いた雰囲気をかもしだしている。
「兄上、お久しぶりです」
アッシュは落ち着いた笑顔でオーウェンに挨拶をした。
「よく来てくれた。アッシュが王宮に足を運んでくれるなんて珍しいな」
そう言うオーウェンは優しい兄の顔をしており、前回アッシュを殺そうとしたなど、俄かに信じがたい。
しかし、オーウェンがアッシュの一メートルほどの距離にきた時、スッとオーウェンの表情が無くなった。
口元の微笑みは消え、頬は硬く人形の様で、目から光が失われている。
(まずいっ)エリィが剣に手を掛け一歩前に出た瞬間、
「……アッシュ、シネ」
オーウェンが腰の剣を抜き、まそのままアッシュを斜め上に切り上げた。
半歩後ろに避けたアッシュの服が避け、オーウェンの白い服にアッシュの鮮血が飛び散った。
アッシュを庇う様に前に出たエリィの横目に、アッシュの悲しみの表情が一瞬見えた。
「エアロ!」
ノアが右腕を前に出して叫ぶと、オーウェンと近衛達は後方数メートルに吹き飛ばされた。風魔法を発動したのだろう。
「エリィ、殿下を連れて行け!」
そう叫ぶノアの声に突き動かされ、エリィは膝をつくアッシュの肩の下に入り、アッシュを立たせた。眉をしかめるアッシュを無理矢理部屋の出口へ連れていくと、アッシュの胸から滴る血が床に点々と続いた。
ノアはオーウェンの周りに集まった近衛兵を威嚇しつつエリィ達の殿を務め、部屋を出た。
王宮の回廊に出ると、後ろからオーウェンは追ってこなかった。
王宮の外に待たせておいた馬車にアッシュを乗せると、馬車の中に血の匂いが広がり、アッシュの青い服に黒い染みが広がっていく。エリィは脱いだ上着をアッシュの傷に押し当てた。
アッシュは脂汗をにじませながらも、意識は保っている。王宮に向かう時は気にもしなかったが、こんなにも馬車とはガタガタと揺れるものだったか。エリィは早く離宮に着いてくれと祈った。
離宮に戻ると、執事のジェイコブさんと侍女のアドリアーヌが青い顔をしながらも、アッシュの傷の手当をしてくれた。傷の洗浄と縫合を迷いなくこなすジェイコブさんとアドリアーヌさんのなんと頼もしいことか。
間もなくして、アッシュは薬湯を飲まされ、清潔な包帯で傷を巻かれてベッドに寝かされた。その表情はだいぶ落ち着いている。
「アッシュ殿下の看病は任せた」
ノアはそう言うと、硬い表情のまま部屋を去っていった。
部屋に残されたエリィは、ベッドの横の椅子に座りながらアッシュを見守った。
(私は、アッシュ殿下を全くお守りする事がきなかった。あの場はどうすればよかったのだろうか……事前に分かっていたと言うのに。皇太子の前と言うことで控えすぎたのがいけなかったか……)
長い夜の間、エリィは自問し続けた。
窓が朝の光に明るくなる頃、アッシュが目を開けエリィを見た。
「殿下、苦しかったり気持ち悪かったりなどはありませんか?」
「大丈夫だ」
(よかった。傷は相当痛むだろうが、体力は回復してきているようだ)
アッシュの穏やかな声にエリィは張り詰めていた顔を少し緩めた。
「お水をどうぞ」
コップに水を取り、アッシュの頭を右腕で抱え飲ませると、アッシュの体はしっとりと熱を持っていた。
枕に頭を戻したアッシュは、空を見つめて言った。
「すまなかった。結局兄上に会いに行っても、何もできなかった」
「いえ、殿下のお命がご無事で何よりです」
むしろ、何も護衛できなかった自分が申し訳ない。
「兄上はやはり何者かに操られているな」
アッシュの表情は硬い。
「はい。
側に術者のような者がいなかったことを考えると、一定の条件で自動で発動する呪いでしょうか」
「一体、どこのどいつが……」
ある意味、王宮の全ての人が皇太子に利害関係がある。呪いをかけている者を探し出すのは雲をも掴むようだ。
アッシュはしばし考えに浸ると、エリィの目を強い眼差しで見た。
「兄上の周りに探りを入れていく」
「承知いたしました」
アッシュがオーウェン皇太子に切られてから三日が経った。
椅子に座ったアッシュの包帯を取ると、胸に大きく斜めに切られた傷は塞がってきており、ガーゼにはうっすらと滲出液が付くだけだった。しかし、塞がり始めている傷は赤く盛り上がっており、跡が残ってしまいそうだ。
蒸したタオルでアッシュの体を拭くと、何箇所もの他の傷にどうしても目がいく。この傷一つ一つにアッシュに剣を向けた人が存在するかと思うと心が重い。
新しい清潔な包帯を巻き直していると、アッシュが頭の上から話しかけてきた。
「来月、プルシェンテの外交官がこの国に来る」
先ほど来たノアの報告書に書かれていたのだろうか。シーテリアとプルシェンテは友好国なので、時折使節を交わしているのは知っている。
「プルシェンテの使節を歓迎する懇談会には、この国の主要な者も揃う。この機会に色々探って見ようと思う」
「承知しました」
エリィが答えると、アッシュは意外な話を続けた。
「今回は、プルシェンテのステラ姫も一緒に視察に来るらしい」
それを聞いて、エリィは一瞬体がピクリと止まった。
ステラ姫は婚約破棄したアルル皇太子の妹であり、当然プルシェンテにいた頃のエリザベスの悪行をよく知っている。全てを捨ててこの国に来たはずなのに、過去の自分が悪霊の様に追いかけて来るようだ。
「プルシェンテの人間に会うのは嫌か?」
アッシュがエリィの目を覗き込んだ。
「できれば顔は合わせたくありませんが……
殿下の側を離れずお守りいたします」
「頼りにしている」
アッシュは包帯を巻き終えたエリィの肩に手を置いた。




