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【N】復讐のウィスキー

 その夜、私は夫の好物のハヤシライスを作った。

 少し奮発した牛肉に赤ワインを加え、圧力鍋で煮込んだ本格的な出来映えだ。


 カレーにすべきか迷ったが、スパイスに含まれる発汗作用を避けるために、ハヤシライスを選択した。


「うわぁ……どうしたんだよ、夏美?」


 帰宅した夫は、ダイニングテーブルを見て、子どものように満面の笑顔になった。


「しばらくちゃんとした料理を作ってなかったでしょ……それに、あなたに寂しい思いをさせた、お詫び」


 はにかんでみせると、彼は後ろからギュウッと抱きしめてきた。


 ――大丈夫。今夜は、どんなことでも耐えられる。


 私は笑顔で振り向いて、求められるまま唇を重ねた。


「……続きは、食べてからにしましょ? 早く味わって欲しいの」


「分かった、着替えてくるから」


 もう一度キスをして、夫は寝室に姿を消した。


 今回は、彼が舞い戻らないことを確かめて、用意していた『特別なパウダー』を溶かし込んだルゥを夫の皿に盛り、圧力鍋のルゥと混ぜ合わせた。


 5分とかからず、上下グレーのスウェットに着替えた夫が戻ってきた。

 彼は鼻歌混じりにテーブルに着くと、いただきますもそこそこに、湯気の上がるルゥを口にした。


 長い夜の第一幕が上がった。


「……君、いつの間にこんな本格的な味を覚えたんだい?」


 ハヤシライスを頬張りながら、彼はすっかり感心した表情で目を細めた。


「ありがとう。またいつでも作るわね」


「うん、旨いなあ……!」


「お代わりもあるから、沢山食べてね」


 私は、幸せな妻の仮面で、スプーンを口に運ぶ。


 ここまでは成功だ。

 今夜は彼を怒らせてはいけない。

 決して地雷を踏まないように、笑顔の下で慎重に振る舞った。


「君がこんなサプライズを用意してくれるなら、俺もケーキか何か買ってくれば良かったなぁ」


 上機嫌の夫は、珍しく殊勝なことを言う。

 私はニコニコと笑顔のまま、


「そうね、ケーキはあなたのオススメを、今度一緒に食べに行きましょう」


 二度とやって来ない未来の約束をした。


 よほどこの味を気に入ったとみえ、彼は大食漢でもないのに2回もお代わりをした。

 最初の皿と2杯目以降の皿の味の違いには気付かなかったらしい。


「……洗い物なんて、後でいいだろう?」


 食器を片付けているキッチンで、再び私の背後に回ると、両腕を掌で包み込んで(うなじ)にキスをした。

 おぞましさが身体中を走る。手にした皿を落とし掛けたが、かろうじて堪えた。


「あなた……先にバスルームを使ってて。すぐに終わるわ」


 受け入れる振りをして、くすぐったそうに微笑みを返す。本音は、もう少し時間を稼ぎたい。


「――このままでいい。待てないんだ」


 彼は私を捕まえたまま、片手でシンクのお湯を止めた。

 ……仕方ない。ここで頓挫はできない。

 直に『パウダー』が効くはずだ。最後の辛抱だと観念するしかないようだ。


「もう……分かったわ」


 答える言葉さえ塞ぎながら、夫は私をヒョイと抱き上げた。

 軽々と腕に抱え、揚々と寝室に向かう。有無を言わさぬ力強さにおののく。欲望の成せる技なのだろう。彼は決してたくましい体格ではないのに。


「――夏美……夏美」


 ベッドに降ろすな否やブラウスのボタンに指をかける。その間も私の名前を繰り返しながら唇に首に彼の唇が吸い付く。込み上げる悲鳴や震えを頑なに押さえ付けるが、嫌な汗がじっとり滲んだ。


 彼に暴力を受けるようになってからも、しばらくは求めに応じていた。けれどもいつしか、一方的に彼だけが満たされる儀式に変わっていった。私が拒否しても、力付くで欲望を吐き出した。そこに愛情などというファンタジーは既に無く、もはや単なる屈辱の時間でしかなかった。


「……あ……何だ――」


 私のスキニーパンツを引き下ろしていた夫の動きが、突然止まる。


「……あなた……?」


 瞼を恐る恐る開くと、興奮に上気している夫が、戸惑ったように顔をしかめ――はだけた私の乳房の間に突っ伏した。


「あなた……?」


 彼の体重がのし掛かる。私の身体の上で、夫は脱力し、眠りに落ちていた。


 助かった。


 ベッドサイドの置時計を見ると、夕食から30分強経っている。

 あの『特別なパウダー』――強力な睡眠薬の粉末は、ほぼ予定通りの速効性を発揮した。


 だらしなく寝息を立てている夫の鼻を指で摘まむ。

 口呼吸に変わるが、目覚めない。大丈夫、熟睡している。


「――ふぅ」


 彼の身体の下から這い出して、脱がされた衣服を身につける。バスルームに駆け込みたい衝動を我慢する。まだだ。全てが終わるまで、あと少しの辛抱だ。


 嫌悪感を堪えていたために、身体のあちこちが強張っている。手足をうんと伸ばして、緊張をほぐした。


 長い夜の第二幕の始まりだ。


-*-*-*-


 高いびきをかいているベッド上の夫を見下ろして、私は1つ息を付いた。


 この日のための道具一式をローテーブルに並べてある。着実に準備し、子ども部屋に隠してあったのだ。

 ステンレスのバットの中には、駆血帯とガーゼ。100mlの注射器。注射針は予備を含めて2本用意した。

 そして、アルコール。消毒用ではない。未開栓のずんぐりとしたウィスキーボトルが1本。度数45度、750mlの『命の水』だ。


 まずは夫の身体を仰向けに動かす。

 熟睡した身体は重く、それだけで一汗かいた。

 彼自身が脱ぎ捨てたスウェットのトレーナーはそのままにして、胸までたくしあげていた肌着のランニングを下腹部へ引き下ろした。


 ベッドサイドに腰掛けて、注射器に針を付ける。

 ウィスキーボトルの口を開け、100mlの注射器で琥珀色の液体を吸い上げる。

 軽く注射器を弾いて空気を集め、中筒を押して抜く。ツッ……と芳醇な香りを含んだ液体が滴った。


 クリニックで患者さんに処置する時と、何ら違いはない。

 この先、夫に起こる事態を理解しているが、特別な感情もなく、至って冷静な自分がいる。


 左下腕の手首近くに駆血帯を締めると、怒張した静脈が手の甲に青く浮き出た。弾力のある血管の位置を確認し、針を突き刺す。

 駆血帯を外し、ゆっくり、ゆっくりと、それが薬液であるかのように注ぎ込む。液量が多いので、急いで入れると血管に負担がかかってしまう。破れて内出血を起こさないよう、置時計の秒針を見ながら、注入速度に気を配った。

 約5分かけ、筒内を空にする。シーツに血痕を残したくないので、ガーゼを当てて止血した。


 注射器に、再び100ml、ウィスキーを吸い上げる。駆血帯を左上腕に結ぶ。呼吸の深い夫の様子を観察しながら、左下腕の肘より下の内側に浮き出た静脈に再び針を刺した。


 空になると、更に100ml、肘の下の外側の静脈に注射した。


 上肢下腕の静脈は、親指側の橈骨に沿って1本、小指側の尺骨に沿って1本走っている。これが肘のところで繋がるので、静脈注射や点滴には肘の内側の静脈を使うことが多い。

 だが今回は、通常医療機関では行わない短時間での連続注射だ。同じ血管に続けて針を入れると、血管が破損したり、破損箇所から液漏れする恐れがあるので、注入場所を変える必要がある。


 空になった注射器に、さらにウィスキーを満たす。ベッドをぐるりと回り、夫の右側に腰掛けた。

 駆血帯を巻くために触れた右腕が熱くなってきた。脈拍を測ると、明らかに速い。

 急性アルコール中毒の初期症状だ。


 急性アルコール中毒は、血中のアルコール濃度の急上昇で起こる。通常、胃や小腸で吸収されたアルコールは、血管を通じて全身に回る。最終的に肝臓に集まり、酵素によって代謝・分解されて無害化され、体外へ排出される。肝臓で分解しきれなかったアルコールは、有害なアセトアルデヒドの状態で体内に留まり、人体に作用する。ほろ酔いの微酔状態から始まり、酩酊、泥酔と進み、昏睡状態になる。最後は脳幹が麻痺することで呼吸器系が抑制されて、死に至る――。


 飲酒の場合、胃や小腸で吸収されてから肝臓での分解まで、およそ30分。胃に食物がある状態であれば、消化に伴って吸収が進むので、中毒症状の発現はさらに時間がかかる。

 静脈注射によって消化・吸収の経路を省いた分、中毒症状が早く現れ始めたのだろう。


 右側も、手の甲と下腕の2ヶ所から100mlずつ、ウィスキーを注入した。

 これで合計600ml。急性アルコール中毒で死に至る目安は、『30分以内に、30度のウィスキーをボトル1本摂取』と言われている。

 作業を始めて既に40分が経過した。注入速度を遅くする必要があるため、時間がかかってしまうのは仕方がない。その代わり、アルコール度数は45度を用意した。


 残り、150ml。

 注射器を手に、左足の甲の静脈を探す。駆血帯が浮かび上がらせた青い血管に、迷わず針を刺した。


 突然、ゴブッという奇妙な音が聞こえた。

 注入したまま、瞳だけチラと向けると、顎の辺りに茶色い液体が見えた。喉仏の動きから、嘔吐していることが伺えた。

 注射器を空にした後、枕元に行くと、やはり未消化のルゥと米粒が口外に溢れていた。気管に入れば窒息するだろう。それでもいい。これも想定の内だ。


 右足の甲の静脈を探して駆血帯を巻いていると、異臭を感じた。

 スウェットの股関の辺りが濡れている。失禁だ。脱糞も起きているようだ。泥酔状態では珍しくない。

 見つけた静脈から注射器半分程の40mlを入れる。

 止血していると、ビクンと数回痙攣が起きた。夫の顔は窒息によるチアノーゼで土気色になっていた。

 吐瀉物を取り除かないため、喉の奥がゴボゴボ低い音を立てている。むせ込む気配もないのは、反射すら失われたに違いない。


 駆血帯と注射器をバットに戻し、ぐったりと意識のない夫の脈を取る。

 熱かった腕は冷え、脈は不規則に遅い。

 もはや救急搬送されても、命を保てるか難しい段階だ。

 ベッドサイドに腰掛けて、脈を測り続ける。脳が酸欠になり苦しいはずなのに、吐瀉物が溜まった喉は、ほとんど動かない。

 窒息と脳幹の麻痺、いずれにせよ生命維持に必要な機能が失われた現状では、死を回避することは不可能だ。


 脈は更に弱まり、10分も立たない内に測定不能な状態になった。頸動脈を確認したが、脈は触れない。

 半開きの瞼から飛び出した眼球は、既に瞳孔が開いていた。


 終わった――。


 夫の死を確認すると、途端、力が抜けた。

 ローテーブルの脇で、へたへたと膝から崩れた。


「……仇を……取ったわよ、サクラ、ソラ」


 指が震えている。

 看護師になって、多くの死の場面に立ち会った。

 夫より壮絶な臨終に遭遇したことも一度や二度じゃない。


 けれども決定的に違うのは、患者さんが絶望的な状態であっても、命を救うための処置だった。

 今夜の私のように、当然助かる命を積極的に奪ったことはない。


 手が震えるのは、その違いのせいだ。

 後悔はしていない。罪悪感など微塵もない。

 でも――もっと達成感に満たされるはずだった。


「あと少し……もうちょっとだから」


 誰に言うともなしに呟いて、両手でパンと自分の頬を叩いた。

 数回深呼吸をして、何とか立ち上がる。

 まず、事切れた夫の身体から、止血のために貼っていたガーゼを剥がした。

 注射のために捲り上げていたズボンの裾を足首まで伸ばす。今更ながら、筋弛緩のために溢れた糞尿の臭いに息が詰まった。


 惨めな最期だ。

 変わり果てた姿を前に、改めて眺めると、徐々に冷静さを取り戻す自分がいた。


 サクラだって、同じように苦しかったはずだ。まして、あの子は意識があった。どれだけの恐怖だったことだろう。


 ボトルの底、僅かに残したウィスキーを、吐瀉物で汚れた口から枕に向けて流す。

 空いたボトルは、夫の右手と左手の両方に握らせてから、ベッドの左下に転がした。


 私の指紋は敢えて拭わなかった。

 日本の法医学のレベルを素人の偽装が欺けるとは思っていない。

 だから、私が夫に施しているのは、時間稼ぎだ。

 秋――せめてコスモスが咲くまでは、あの家を離れる訳にはいかない。

 遺体の発見まで数日経過すれば、サクラの時と同じように腐敗が進む。注射痕が消えさえすれば、事故か他殺かの判別は困難になるだろう。それで十分だ。


 バットに使用した道具一式を納めて、リビングに片付ける。

 寝室のクローゼットからキャリーバッグとボストンバックを引っ張り出して、必要最低限の衣類と日用品を詰めた。

 通帳や印鑑、カード類は、既に通勤用のショルダーバッグに入れてある。


 明日、夜になる前に、このマンションを離れよう。

 不動産会社との契約で、祖父母の家に移るのは約1ヶ月先だ。それまでは、ウィークリーマンションを借りる手はずを済ませている。

 当分、ウィークリーマンションを拠点にして、引っ越し後に必要な家具や家電を買い揃えに動かなくてはなるまい。


 夫の死に、呆けている暇などない。

 転がり始めた岩をゴールに導くためには、まだまだ気が抜けないのだ。


 その夜の内に、夫に中断されたキッチンの洗い物を片付けて、分別したゴミを袋にまとめた。


 バスルームにたどり着いたのは朝方になっていた。ヘトヘトの身体に鞭打って、最後の禊を行った。

 着替えて、いつものソファに横たわる。身体に馴染んだこのソファを置いていくのは少し惜しいが、今後は自分だけのベッドを手に入れるのだ。


 ブランケットにくるまると、睡魔ではなく疲労が意識を鷲掴みにさらっていった。




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