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【N】原点回帰

 翌日、ゴミを捨て、正午前にタクシーを呼んだ。


 キャリーバッグとボストンバック、その他にも大型のバッグ3つに荷物を詰めて、更にサクラの遺骨の瓶を入れたリュックが1つ。

 引っ越しとまでは思わなくとも、長期旅行と想像できる物量だ。


 運転手に行き先を告げ、シートに身を預ける。マンションがバッグミラー越しに遠ざかる。

 もう二度と戻ることはない。

 こんな形で『我が家』を離れようとは、思ってもみなかった。

 大通りに合流する交差点を左折すると、見慣れたチョコレートブラウンの外壁が街路樹に隠れて、消えた。


-*-*-*-


 契約したウィークリーマンションは、隣町との境で発展した小さな学園地域にある。


 住民の多くが学生なので、近隣の目を気にすることもないだろう。


 着いた部屋は、3階の角部屋で、オフホワイトが基調の落ち着いた1LDKだ。家具家電一式が備え付いているのが有り難い。


 玄関脇の小部屋に昼間だけ常駐している雇われ管理人が、私の大荷物を運び込むのを手伝ってくれた。


「学生さん……ではないですよね? この町には、お仕事でいらっしゃったんですか?」


 管理人は、私と変わらないくらいの年齢に見える、ロングヘアーの女性だった。

 私に親近感を抱いたのか、臆せずプライベートな領域に踏み込んできた。


「……ええ。転勤先の寮が工事中で……短期間ですけど、お世話になります」


 咄嗟に適当な作り話で合わせた。


「あら、それは大変ですね」


「でも、こちらのマンションは管理人さん――嶋田さんもいらっしゃるので、安心できます。重かったでしょう、すみません」


 敢えて名指しして好意を示しておく。そして、玄関に点在したバッグを1ヶ所に集め、作業が一段落したことを示した。


「いいえ……! また何かありましたら、いつでもご相談くださいね」


 ちょっと頬を染めて、彼女は胸を張った。

 上手くプライドをくすぐったに違いない。


「ありがとうございます」


 畏まらない程度に会釈して、笑顔で彼女を送り出した。

 短期間、日中のみの接点だ。不審に思われない程度の関わりでいい。


 一人になると、ドッと疲労感に覆われた。知らず、緊張していたらしい。

 まだ日は高かったが、ベッドに身体を沈めた。

 荷物の山は、とりあえずクローゼットに押し込んである。

 リュックだけ、ベッドの脇に寄せると、口を開けた。サクラがいるピンクの瓶を覗かせ、そっと蓋を撫でながら、目を閉じた。


-*-*-*-


『――ママぁ……ゴボッ……痛いよぅ……』


 サクラの泣き声がする。暗い。――ここは、どこ?


『ゴボゴボ……お手々が溶けるよぅ……』


 身体が強張る。

 右手の内側にブヨブヨとした違和感がある。

 恐る恐る掌を開くと、可愛らしい紅葉の左手が握られていた。赤黒く変色した小さな掌は、手首までしかなく――そこから先は溶けたように崩れて、ない。


「……ヒッ!」


 思わず手が震えた。ポロリと滑り落ちた子どもの掌は、私の足元でビチャッと耳障りな音を立てた。


『ママぁ……痛い、痛いよぅ……』


 闇のどこからか、サクラの声が響く。


 一歩、踏み出した足の下でグチャリと嫌な音がした。

 ――まさか……。


 足元に視線を向けると、ドロドロと腐って崩れた肉片が、赤黒い液体に浮かんでいる。

 その沼のような腐敗液の中に、私の足首までが漬かっていた。


 この液体は、まるであのバスルームで溶かしたサクラの肉体のようだ。

 いや、むしろゴミ袋で腐敗していた状態そのものだ。


 叫びたいのに言葉が出ない。


 ……ゴボッ……ゴボゴボ……


 その間に、腐敗液の一点が隆起し、何かが浮かび上がって来た。


「――あ……あぁ……!」


 振り絞った自分の声は、涙声だった。恐怖とは違う。後悔に似た激しい憐憫が胸を突いた。


『ママぁ……』


 腐敗液の中から、サクラの頭部が現れた。

 顔の肉は右半分が崩れ落ち、白骨が露になっている。左右の眼窩に眼球はない。サラサラだった髪の毛は、ベッタリ顔に貼り付いている。


「――サクラっ!」


 ズブズブと腐敗液に足を取られながら、頭部に駆け寄った。

 不自然に浮かび上がった娘の頭を拾い上げ、胸に抱きしめる。腕の中から、グチョッと皮膚がずり落ちた音がした。


「ごめんね、ごめんね、サクラ」


『……ママ』


「愛しているのに――あなたを守れなかった……!」


 謝っても謝っても、言葉が足りない。今からでも代われるものなら、私が腐敗し白骨になることもいとわない。

 神が見捨てるのなら、悪魔に全てを捧げても構わないのに。


『泣かないで……ママ』


 『痛い、痛い』と泣いていたのはサクラなのに、この子はこんな姿になっても優しい。


「ずっと一緒にいるからね。もうどこにも行かない。――おばあちゃんとおじいちゃんの家に、ソラと3人で行こうね」


『ママ……』


「ずっと側にいるわ。サクラ、ソラ、愛しているわ」


 涙を溢れるままにして、腕の中のサクラの頭を何度も撫でた。撫でる度に髪の毛や残った皮膚がズルズル落ちた。


『ママ……ずっと、一緒だよ……』


 すっかり白骨になったサクラの頭蓋骨が、クスクスと笑い声を上げた。


-*-*-*-


 枕が涙で濡れている。

室内はすっかり夜に沈み、窓から差し込む月明かりに青白く染まっていた。

 伸ばした右手が、サクラの瓶の中の頭蓋骨に触れていた。


「そう……だから、あんな夢を見たのね」


 呟いて、2、3回骨を撫で、陶器の蓋を閉めた。


-*-*-*-


 1ヶ月の滞在の予定だったが、更に半月引っ越しが伸びた。

 不動産会社によると、しばらく空き家だったせいで、水道やガスなどの配管の検査と交換工事に時間がかかっているのだという。


 内心、焦っていた。

 早く越さなければ、秋にコスモスを開花させるのが間に合わなくなってしまう。


 何度か担当者に掛け合った結果、6月下旬の引っ越しが決定した。


 家具家電を購入した大型量販店で手配したトラックに、同乗させてもらって、遂に祖父母の家に入ることができた。


 引っ越しの日は、細かい雨が降っていた。

 祖父母が嬉し涙で迎えてくれているような気がした。


 荷物を積み降ろしていると、不意に風が舞い、赤いレインコートのフードがパサリと脱げた。

 被り直そうと視線を上に向けた時、カーテンの隙間からこちらを伺っている人影に気が付いた。

 隣家の2階、男の子だろうか。

 ご近所とは、時が来るまでは上手く付き合わなければならない。

 目が合った気がしたので、曖昧に会釈した――が、彼は慌てたようにカーテンを引いてしまった。


 ――まぁ、構わない。


 一息付いて、フードを被り直し、引っ越しの続きに戻った。

 荷台から、巨大なクマのぬいぐるみを抱えて運び込む。

 このクマの腹には、サクラの瓶が納めてある。

 人目に付いても怪しまれないよう、蓋を固定して瓶ごと入れたのだ。


 リビングに置いた小ぶりのソファの上に、ソッと座らせる。


 ――おじいちゃん、おばあちゃん、私の娘のサクラです。サクラ、ここがママが過ごしたおじいちゃんとおばあちゃんのお家よ。やっと、帰って来たわね……。


 クマの頭を撫でながら、胸の内で語り掛けた。


「すみませーん! これで最後なので、サインお願いしまーす!」


 配送トラックのお兄さんが玄関から呼んでいる。


「あ、はーい、すみません!」


 彼らをリビングに残して玄関に向かう。


 書類にサインして、引っ越しが完了した。 これで舞台は整った。

 懐かしい家の中で、ようやく生き返ったような開放感が沸き上がる。


 ――生き返る、か。おかしいわね。


 クマの『サクラソラ』の隣に腰掛けて、クスクス笑いが込み上げてきた。

 笑いはやがて涙に変わり、ひとしきり泣き笑いのような混沌とした気持ちに飲まれながら、『サクラソラ』を抱き締めた。


 そんな私の背中を、あの日の夢で現れたおばあちゃんと同じ、温かい気配がフワリと包み込んでくれた。


 私は幸せな気持ちで『サクラソラ』に寄り添って寝た。

 引っ越しの疲れと、泣き疲れとで、すぐに眠りのさざ波が意識をさらった。


 けれども、この日から眠りを蝕む悪夢が始まった――。


-*-*-*-


 気が付くと、私はいつもバスルームにいる。


 ゴーグル越しの視界はぼやけているものの、私の両手の中には、あどけない表情で眠っているようなサクラの頭部がある。

 傍らには、プラスチックのトレイの上に、既に白骨になった彼女の身体が積まれていた。


 サクラの頭部は段々と血色を無くし、紫色に変化していく。早回しの映像を見るように、彼女の皮膚は腐敗し、ブヨブヨと膨れ出した。


 夢の中の私は冷静だ。

 ゆっくりと、彼女をパイプ洗浄液が満たされたバケツの中に沈めていく。

 漬け込まれた頭部は、ブクブク泡を立てて溶け出した。腐肉も眼球も髪も、全て薬液に消えていく。

 愛しいサクラが、目の前で失われていく。


『ママぁ……』


 真っ白な骸骨になった所で、薬液からブカリと浮かび上がったサクラが、カタカタ顎骨を揺らした。


『ママ……痛いよぅ……苦しいよぉ……どうして、サクラの側にいてくれなかったの……?』


 頭蓋骨がまっすぐに私を捉えて泣き出した。

 後悔を責め立てる娘の訴えが、鋭く心臓をえぐり、身体が震える。


 ごめんね……ごめんなさい! ごめんなさい、サクラ――!


 声にならない叫びを上げて――私は、現実に引き戻される。


 目覚めてもなお、しばらくの間はサクラの声が耳に貼り付いて動けない。

 涙と寝汗で全身がグッショリと濡れている。


 分かっている――。

 これは、深層意識に刻まれた罪悪感が見せているのだ。


 深呼吸を繰り返し、冷静になろうと努めるが、震えている指先は、なかなか治まらない。

 そして、その晩はもう二度と眠りに落ちることはできなかった。


 記憶にこびりついた悪夢は、私から健全な睡眠を蝕んでいった。


 鎮魂の願いを込めて、地元の神社に参拝などしたが、サクラの幻影は週に2、3度は私を苛んだ。


 悪夢を繰り返す地獄のような日々。

 唯一の解放が、コスモスの秋だ――。


 私は満開のコスモスの庭を思い浮かべながら、屍のように、ただただ日常を消化していた。




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