【N】虚構と真実の涙
夫は昨夜の行為で満足したのか、独りで淡々と身支度を整えて出勤していった。
朝食も作らずに、子ども部屋で身を縮めていた私を気にも止めず、何事もなかったように。
そう――彼に取っては何事もなかったのだろう。
私は、それだけの存在なのだ。
彼の欲望を満たすための道具、いわば人形みたいなものだ。
人形は、叩いても殴っても文句を言わない。持ち主が好きな時に怒りをぶつけても構わないし、過剰に抱き締めても構わない。
思い返すと、最初から夫はそういう人だった。
私に対する感情は、常に一方的で、行動は独善的だ。
結婚前、彼は熱心に私にアプローチした。プレゼントをくれたり、新しいお店に食事に連れて行ってくれた。
私は、それらを優しさ、愛情と受け止めて結婚を決断したが、あれは彼が『お気に入り』を手に入れるために必要な――彼自身の欲求を叶えるための行動だったのだろう。
多分、戦略ですらなかったに違いない。
その証拠に、彼はデートプランを細かく立てて、あちこち連れて行ってくれたが、私の行きたい場所がないかとは一度も尋ねてくれなかった。
私が買い物に付き合って欲しかった時も、『出張』だの『会議』だの理由を並べ立てて、結局一度も付き合ってくれなかった。
結婚して1年後、そのことで言い争いになった。
逆上した夫は、初めて私を殴り付けた。
顔も身体も容赦なく、男の力を加減することもせず、気が済むまで拳を振るった……。
一晩中泣いた翌朝、全身の痛みとショックでベッドに倒れたままの私に、彼は土下座して謝ってきた。
『どうかしていた。許してほしい。二度と手を上げない』――涙でグシャグシャの顔で、心から後悔している様子を見て、私は許してしまった。
けれどもそれは、暴力の後の常套句になった。
その後も些細な不満で、彼は私が動けなくなるまで叩きのめし、しばらくすると惨めたらしく謝罪した。そして、反動のように甘く優しく私を扱った。
それが典型的なDVの行動なのだと、岸本主任に教えられた頃には、既にサクラが生まれていた。
娘のために――私は彼女には父親を与えたかったから、それからも幾度となく血と涙を飲み込んできたのだ。
あと3日。
人生を奪われた娘達の悲しみも、虐げられてきた私の苦しみも、全て昇華させてみせる。
私の、この手で。
「……ママに力を貸してね、サクラ、ソラ」
そっと撫でた娘の頭蓋骨が、にっこり笑顔を向けてくれた気がした。
-*-*-*-
祖父母と暮らした町は、地方の中核都市の郊外に隣接する小さな田舎町だ。
都会の華やかさを遠巻きに眺めながら、それなりの利便性を保ちつつ、ゆっくりと衰退していく、ありふれた町だった。
クリニックの勤務は19時からなので、1時間前までに着けばいい。
育った町をゆっくり歩きたいと思ったので、お昼前にマンションを出た。
電車を最寄り駅で降りて、駅前の商店街を歩く。
20年以上前に4、5歳だった私を、知る人もいないだろう。
住んでいた頃は幼かったから、町の記憶はあまりない。
近所の家並みと、夜店にワクワクした神社の夏祭りをおぼろ気に覚えている。
商店街は、意外と店舗が営業していた。店の造りは年期入りだが、地方都市にありがちなシャッター街ではなかった。
200m程の商店街を抜け、信号機に付いた住所で確かめながら、住宅街を目指す。
ブランコで遊んだ覚えのある小さな公園を抜けると――突然、記憶と現実が重なった。
「――ここ……!」
飛び込んできた風景に、心が震えた。
気が付くと小走りになっていた。
ブロック塀が敷地を囲み、家の左側には広い庭がある。庭に面したガラス張りのベランダも、古びたベージュ色のモルタルの外壁も、ちょっと庭側に傾いた瓦屋根も、記憶に馴染む。
祖父母と過ごした懐かしい佇まいが、あの頃のまま、そこに建っていた。
見上げていた世界を眺める角度が少し異なるのは、私が大きくなった証だ。
『お帰り、なっちゃん』
祖父母の声が聞こえた気がした。
ああ、やっぱりあの夢はメッセージだったんだ――。
感動に叫びたい気分だ。
雑草が疎らな庭にはコスモス一輪すらなかったが、代わりに『売家』の大きな看板が設置されていた。
塀の上に手帳を広げ、不動産会社の連絡先を書き写す。
家を買うほどの大金の蓄えはないが、短期間借りるくらいは何とか用立てできるかもしれない。
築年数は半世紀近い空き家だ。交渉するだけの価値があるだろう。
「――おや、アンタ……」
夢中になっていて気付かない間に、すぐ側にかなり高齢の老人が立っていた。
濃いグレーのズボンに茶色いフリース生地のジャンパーを着ている。白髪が覗く頭に、千鳥柄の赤いハンチングを被って、節くれだった左手に太い杖を持っている。
私の記憶にはない顔だ。
会釈すべきか戸惑っていると、80代後半には見える老人は、突然ニカッと皺だらけの顔を輝かせた。
「アンタ、清瀬さん家の娘さんじゃな? 帰ってきたのかね?」
しゃがれた声に張りがある。見た目の割りにしっかりとした口調。
しかし、そんなことよりも――愕然として言葉が出なかった。
「ワシャ、裏の竹山ちゅうモンじゃが……利三さんは、どうしてるかの……元気でいるかね?」
「あ……あの、私……清瀬さんじゃないです。人違いされてるんじゃないでしょうか」
声の震えを抑えながら、急いで手帳をバッグに押し込む。
笑顔を怪訝に曇らせて、老人は何か言い掛けた。
私は慌てて会釈すると、
「ごめんなさい、失礼します」
逃げるように踵を返した。
「あ――待ちなさい、アンタ……!」
老人の声が背中の先へ追って来たが、私は立ち止まらずに来た道を引き返した。
只々、心臓が尋常ならざる早鐘を打ち続けている。
――祖父母を知る人が、まだ近くにいたなんて!
公園を抜け、住宅街を俯きがちに、駅前へ突き進む。
既知の人がいない解放感が一転、誰も彼もが私の素性を知っているのではないか、という妄想的な疑心暗鬼が身を竦めさせた。
『清瀬利三』は、紛れもなく私の祖父の名だ。
記憶にはないが、竹山と名乗った老人は、きっと祖父と親しかったのだろう。
私のことを『娘』と言った。亡くなった母と間違っているようだ。
それなら――まだ、白を切り通せるかもしれない。
予定よりかなり早く帰りの電車に乗ることになったが、収穫は大きかった。
既に、私の心は決まっていた。
あの家に戻ろう。
あの広い庭を、おばあちゃんが愛したコスモスで埋め尽くそう。
そして、その庭で――。
最後の迷いが消えた。
残りの人生を只1つ、思い描く目標に向けて、全ての情熱を注ぎ込もう。
平日の午後3時。乗客の疎らな電車の中で、ふと顔をあげると――向かいの車窓に映る私は、晴れやかに笑っていた。
-*-*-*-
不動産会社との交渉は、呆気なく片付いた。
前の住人が手離してから3年が経ち、築年数が限界に来ているあの家は、取り壊しまで秒読み段階だったらしい。
『1年間だけ貸して欲しい。家賃は全額先払いするから』――私の奇妙な申し出は、取り壊しの費用を埋めるのに十分な金額だったようだ。
電話の向こうの若い男性担当者は、速達で契約書類を送ると弾んだ声で会話を終えた。
回り始めた歯車は、とんとんと日常を動かして行く。
そんな展開さえ、私は祖父母の導きのように思えてならなかった。
-*-*-*-
「岸本主任、少しお時間いただけますか」
クリニックに着いたのは17時半だった。
まだ日勤の看護師が働いている時間だが、夜勤の同僚が来る前に主任を捕まえたかった。
彼女が始業時間の1時間以上前に出勤しているのは、いつものことだ。
「――いいわよ。ここでいい?」
ナースステーションでデスクワークをしていた岸本主任は、顔を上げて微笑んだ。
私の早すぎる出勤時間を特に気にした様子もない。
「大丈夫です。ありがとうございます」
一礼して、示された右側の椅子に腰かけた。彼女とはテーブルを挟んで90度の向きになる。
これは相談や面談の時、相手が話しやすい位置関係だ。
「急なことで大変申し訳ないのですが……明後日を最後に、このクリニックを退職しようと思います」
主任に向き直り、きっぱりと告げる。
社会人として、ルール違反であることは重々承知で、身勝手を非難されても仕方がないと覚悟していた。
老眼鏡の奥の目尻に、微かに皺が刻まれた。
「……原因は、ご主人?」
短い沈黙の後、静かに問われた言葉に、私も感情を抑えて頷いた。
「――はい。今回のこと……赤ちゃん、夫に奪われたんです」
「そう……そうじゃないかと思っていたわ」
彼女は、悲し気に自分の手元に視線を落とした。
「主任には、前からアドバイスいただいていたのに。対処できなかった私にも責任はあります」
「八木山さん、だめよ。あなたは被害者なのよ」
慌てたように私に焦点を合わせると、彼女は私の腕に手を伸ばして、そっと触れた。
温もりに胸がざわつく。
「分かってます。今度のこと、DV被害者の支援団体に相談したんです。すぐに緊急避難所を手配してもらえました。この町を離れて、離婚の手続きを進めるつもりです」
行き先を告げずに生活圏を離れる理由を思案した末、たどり着いた答えは、リアルと虚構の入り交じったものになった。これなら、主任を納得させられるだろう。
「良かった……退職は残念ですけど、あなたに取ってもサクラちゃんに取っても、その決断は正しいと思うわ」
「主任には……ご心配とご迷惑をかけっぱなしで、本当に申し訳ありません」
これは本心だ。彼女が実の母ならば、さぞかし私は親不孝な娘だろう。
最後まで欺かなければならない罪悪感は重く、この先の大義がなければ、必ず私を挫いたに違いない。
「八木山さん――あなたを見ていると、娘を思い出すの」
畏まって頭を下げた私の肩に触れ、そっと顔を上げるように促す。
「私の娘も、DV被害者だったの」
「え……」
主任はいつも『年寄りの独り暮らし』と言っていた。
クリスマスも正月もお盆も、独り切りで過ごすのは侘しいからと言って、勤務や当直を引き受けていた。
お嬢さんがいたなんて……初耳だ。
「優しい子でね、私に心配かけないようにと、一言の相談もせずに我慢して」
かけていた老眼鏡を外し、胸ポケットから小さなクロスを取り出して、レンズを拭く。彼女は淡々と語ったが、不意に一息付いた。
「我慢して――自殺してしまった」
「――えっ」
瞳を伏せた横顔に苦悩が滲む。突然、彼女が小さくなった気がした。
「私が夜勤から帰ったら、家の留守電に『ごめんなさい、先に逝きます』……娘の声が残っていたわ」
「主任……」
「一言、言ってくれたらね、何としてでも守ったわ。母ですもの」
彼女の顔に刻まれた皺や白髪混じりの頭髪は、その出来事がもたらしたのだろうか。
きっと想像を絶する後悔に苛まれたに違いない。
「あなたは、ちゃんと人生を立て直すのよ。サクラちゃんを守ってあげてね」
「主任……っ」
私は涙を堪えられなかった。泣かない彼女の痛みの深さは、守れなかった子ども達に向ける私自身の悔恨の深さと通ずるはずだ。
もう、全て白状しても、この人なら分かってくれるのではないか――。
真摯な誘惑が、固く施錠したはずの心の扉をノックする。弱音を上げたいもう一人の自分が、身をよじって叫んでいる。
私はグッと奥歯を噛みしめた。
「夏美さん、ご主人とのこと片付いたら、またどこかで看護師に戻ってね。あなたの仕事ぶり、私は評価しているわ」
スッと立ち上がり、彼女は自分の胸に私の頭を抱き寄せた。
声を殺して涙を流す私を、彼女は上司とも母ともつかぬ労りで包み込み、背中を幾度も撫でてくれた。
「退職の手続きは、私が責任持って処理します。今日を含めた残り3日間、しっかり働いてくださいね」
「はい……ありがとうございます……!」
辛いのは彼女も同じ、いやもしかすると私以上なのかもしれない。ずっと独り身だった孤独より、側にいた存在が消える喪失感の方が何倍も激しく精神を蝕むのだ。
「――幸せになるのよ、夏美さん」
自分で作り上げた虚構がキリリと心臓を締め上げる。
やっとの思いで「はい」と掠れた声を返した。
主任が願う幸せは実現しないが、別の形の幸せになるために、私は祖父母の家に戻るのだ。
真相を告げない不義理を、声に出さずに何度も何度も詫び続けた。
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事情に配慮して、私の退職はごく一部の者――クリニックの院長夫妻と事務長――にしか伝えられなかった。
岸本主任が話を通してくれたお陰で、彼らもまた私を責めずに送り出してくれた。
「この業界は売り手市場だけど、条件のいい働き口を探すなら、いつでも紹介状を書くからね」
院長先生とは、直に接する機会は少ない。ここでも岸本主任が力添えしてくれたに違いない。
何度も感謝とお詫びを繰り返し、7年間働いたクリニックを後にした。




