【N】祖父母からの啓示
「ご迷惑をおかけしました」
出勤したナースステーションで岸本主任に頭を下げる。
「……いいのよ。大変だったわね、八木山さん」
彼女が手を触れる両腕が温かい。
我慢していた涙が滲む。
「身体がきつかったら、いつでも言うのよ」
我が家の事情を知る彼女は、労りの微笑みの中、真剣な眼差しを向けた。
表向きは、転倒したという理由だが、真相は夫の暴力が誘因ではないのか――彼女は推測している。
「はい。ありがとうございます」
「――さ、着替えて。申し合わせに遅れないでね」
直接問わない優しさに、私も無言で甘えた。
頭を下げて、ロッカールームに戻る。
日勤を終えたベテランの先輩が優しい声を掛けてくれたが、瞳は笑っていなかった。
謝罪とお礼を口にしたが、仕事で取り返すしかない。改めて、同僚の皆さんにかけた迷惑の重さを身につまされた。
しかし――まだ主任にも明かしていないが、この職場に長く留まるつもりはない。
子ども達を養う必要がなくなった今、働く意味すら失ってしまった。
この仕事に戻ってきたのは、目的遂行の準備のためだ。
長年勤めてきた勝手知ったる職場である。その準備を整えるのに、さほど時間はかからなかった。
-*-*-*-
夜勤が4日続き、ようやく休みになった。
夫が仕事に出た後の一人切りのマンションは、心の底からリラックス出来た。
キッチンで軽く食事を済ませ、リビングのソファに身体を丸める。
退院してから半月。
私はソファで寝るようになっていた。
相変わらず、夫に触れられる瞬間は心が凍る。
彼が使っているベッドに身を委ねるなんて考えられない。
『長期欠勤で迷惑をかけたから』という口実で、私は意図的に夜勤のシフトを選び、なるべく顔を合わす時間を減らしていた。
泥のような疲労が意識をさらう。
深い眠りの底で、久しぶりに夢を見た。
「――夏美……なっちゃん」
呼ばれて振り向いた。
「おばあちゃん」
「ごらん、コスモスが咲いたわ。春に蒔いた種がお花になったのよ」
柔らかい日差しを受けた緑色の雲のような光を背景に、おばあちゃんは私を呼んでいる。
白髪に緩いウェーブをかけて、後頭部で結いあげている。顔には皺が幾本か刻まれているが、優しい笑い皺だ。
駆け出した私の歩幅が狭い。足元に視線を落とすと、懐かしい赤い靴を履いた子どもの足がある。
驚いて自分の手を見ると、小さな掌が飛び込んだ。
「なっちゃん、いらっしゃい」
そうか――ここは祖父母の家だ。
小学校に入るまで暮らしていた幸せな日々の記憶の中に違いない。
「――ほら、コスモスよ。可愛いでしょう?」
おばあちゃんの元に駆け寄ると、かがみこんで淡い桃色の花弁を示してくれた。
「コスモスは、秋桜とも言うの。綺麗に花びらが並んでいるから、宇宙という意味もあるのよ」
「うちゅう?」
「そう……お空のことよ」
おばあちゃんは、スッと空を見上げる。つられて私も頭上に目を向けた。
綿菓子のような雲が静かに左右に割れる。明るい昼間のはずなのに、青空ではなく濃紺の闇が覗き――キラキラ星空が広がっていた。
「わぁ……きれい」
感嘆を漏らした私を、おばあちゃんはふわりと抱きしめた。腕の感触はない。暖かな体温に包まれて、見上げた宇宙から声が降ってきた。
「なっちゃん……夏美ちゃん。私達はいつも側にいるわ。おばあちゃんも、おじいちゃんも、お空から見守っているからね」
暖かいのに、声が遠くなる。突然、心細さに身体が震えた。
「おばあちゃん? 待って――夏美を置いて行かないで!」
叫んだ声で目が覚めた。
薄暗いリビングがぼやけている。あぁ、泣いていたんだと気がついた。
夢自体久しぶりだが、祖父母の夢なんて、少なくとも1年以上見ていなかった。
おばあちゃんは、私が寂しい時や悲しい時は、いつも腕の中に包み込んでくれた。
サクラを失って辛い私を見かねて、夢に現れてくれたのだろうか。
「おばあちゃん……おじいちゃん……会いたいわ」
寂しさが心を締め付ける。
幼い頃に暮らした祖父母の家は――あのコスモスが一杯のおばあちゃんの庭は、今どうなっているのだろう。
20年以上前の民家だ。もう取り壊されてマンションでも建っているかもしれない。
一度、見に行ってみようか。
電車で30分程の隣町だ。明日、出勤の前に足を運ぶことにしよう。
突発的に思い付いたプランだが、祖父母からのメッセージのような気もする。
ソファから起き上がり、私は子ども部屋に向かった。
連日吹き掛けた消臭剤のお陰で、ほとんど腐敗臭は気にならなくなっていた。
数日前から、サクラの骨を新聞紙の上に並べて乾燥させている。
これが、最終段階だ。
すっかり乾いたら、用意してある可愛らしいピンク色の蓋付き瓶に、彼女の骨を納めるつもりだ。
その状態であれば家の中に置いておけるし、この先もずっと一緒にいられるだろう。
水分を含んだ古新聞から新しい新聞の上に、骨を移す。
強アルカリ性の洗浄剤に浸したお陰で、骨は酷く脆くなっていた。
注意して動かすが、数本がボロボロ砕けてしまった。
「ごめんね……痛いよね」
呟いて、手を合わせた。
私の強い思いで骨を残したが、こんな形で亡骸を扱われることは、死者に取っては浮かばれるのだろうか。
敬虔な信仰のない私には、分からない。
ただ――愛しい者の、たとえ欠片とでも側にいたい。その一念で動いているのだ。
「いつかあなたにも、あのコスモスの庭を見せてあげたかった」
それが、唯一残されたコミュニケーション手段のような気がして、私は骨を移しながら語りかける。
まるでベッドで微睡む我が子を慈しむように、骨をそっと撫でながら。
「サクラ、という名前は、コスモスの秋桜に由来するの。ママのママ……あなたのおばあちゃんが『秋江』というの。ママは夏に生まれたけれど、あなたは春に生まれたから『サクラ』と名付けたのよ」
サクラがこの世にやって来た日を思い出す。
春風が爽やかな4月。
分娩室で対面した彼女は、ずっと見てきたエコー画像の何倍も美人で愛らしかった。
こんな素敵な宝物を授かって、世界一幸せな母親にしてもらった――そう感じて胸が一杯になったっけ。
「……あなたが欲しがっていたきょうだいが出来たのに、会わせてあげられなくて、ごめんなさい」
サクラの頭蓋骨を撫でる。空っぽの眼窩から、視線を感じた。
お話を読んでいる時に、ふと感じた娘の眼差しに似ている。
「ああ……ここにいるのね、サクラ」
何か霊的なものだとしても、少しも恐怖は起こらない。
むしろ感動に近い喜びに、涙が込み上げてきた。
「……おばあちゃんが、あなたの魂を呼び戻してくれたのかしら? ママ、嬉しいわ」
乾かしている骨を濡らさないように、袖口で拭いながら、でもしばらく涙は止まらなかった。
夢をもう一度反芻し、名前のなかった赤ちゃんを、私は『宇宙』――『ソラ』と名付けることにした。
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夕方、宅配業者が保育園からの荷物を届けてくれた。
段ボールの中に、サクラの上履きや、お昼寝の時に使っていたクマ柄のブランケットが丁寧に畳まれて入っている。
使いかけのお絵かき帳や、お友達と作った折り紙のお花も、担任の保育士さんは忘れずに詰めてくれていた。
箱の一番底に、水色の封筒があり、退園の同意書と園長先生からのお手紙があった。
『……突然のことで、保育士達もお友達も寂しいですが、喜ばしい理由ですから、笑顔で祝福いたします。サクラちゃんは、誰にでも優しく、思いやりのあるお嬢さんでした。新しい保育園でも、すぐにお友達がたくさんできるでしょう。そして、素敵なお姉ちゃんになることでしょうね。母子共々、どうぞ健やかにお過ごしくださいませ……』
また涙が溢れた。
園長先生の気遣いがありがたかったことも理由だが、それよりもお手紙で描かれている未来が現実にはなり得ないことが、切なくて悔しかった。
届いた段ボール箱を閉じて、子ども部屋に片付けた。
ダイニングテーブルに戻り、退園書類に署名・捺印した。
同封の封筒に入れて返送すれば、保育園とサクラの繋がりは消滅する。
また1つ、娘が生きていた証が消えるような気がして、糊付けする指先が震えた。
封筒をバッグにしまい、手帳でシフトを確認する。
次の休みは3日後だ。
目的を果たすための道具は既に入手済みだし、それまでにはサクラの骨も乾くだろう。
カウントダウンは始まっている。
手帳を閉じ、封筒と並べて、丁寧にバッグへしまい込んだ。
「……もうすぐよ、サクラ、ソラ」
緊張がもたらす奇妙な高揚感がヒタヒタと心に満ちてくる。
喪失感に疲弊した心身に活力が甦る気がした。
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その夜。案の定、夫は私が寝室に来ないことに不満を漏らした。
「……まだ、だめなのか? 先生は1週間くらい様子をみて、と言ってなかったか?」
飲んでいないものの、剣呑な目付きの彼に、嫌な気配を感じた。
次の休み――決行予定日まで、あと3日だ。
今夜さえ乗り越えれば、二度と蹂躙されることはないだろう。
「明日、出勤前に検診に行くの。それで許可が出たら大丈夫だから……お願い、もう少しだけ待って」
作り笑顔で柔らかく微笑む。
既にパジャマ姿の夫は、やや俯いて、頷いた。
「そうか――そうだな、分かったよ」
感情を圧し殺した声で答え、物分かり良くリビングを出て行った。
私はホッとして、いつも寝ているソファに腰掛け、ゆったりしたナイトウェアに着替える。そして身を沈め、ブランケットを胸までかけた時だった。
待ち構えていたように、リビングのドアが開き――夫が目の前にやって来た。
「あなた?!」
彼はブランケットごと素早く私を抱き上げると、答えずにリビングを出、ドアを開け放ったままの寝室に直行した。
「待って! まだ――」
ブランケットごとベッドに降ろすと、抵抗する間も与えずに唇を塞がれた。
ゾッと身体中総毛立つ。
「……分かってる、しないから。でも寂しかったんだ、夏美」
低い声で囁きながら、ナイトウェアも下着も乱暴に剥ぐ。
嫌悪感と恐怖で涙が流れた。掌が飛んで来ないだけで、これも歴とした暴力だ。
手足を巧妙に押さえつけ、首筋に、胸に執拗に唇を這わせる。
抑えられずに身体が震えた。
それでも、彼は自分が満足するまで繰り返し、挙げ句、身体をピタリと密着させて、私を背中から抱き締めた。
裸のまま人形のように、彼の腕の中に閉じ込められて、身動きすらできない。
眠りに落ちるまで、彼は何度も私の名を耳元で囁き、その息づかいが頬を掠めた。
『助けて』と悲鳴を上げそうになるのを堪え、奥歯を固く噛み締めた。
深夜――彼が熟睡し、腕の力が緩むのを待って、ようやく抜け出した。
剥ぎ取られた衣服を鷲掴みにして、バスルームに駆け込む。
シャワーの栓を捻るのも待たず、堪えていた感情と吐瀉物が一気に噴き出した。苦しさにむせながら、それでも胃が空になるまで嘔吐は止まらなかった。
夫の感触を消すために、バスタブに捕まって立ち上がる。ふらつく身を壁に持たせかけ、熱湯を浴びた。
もう、身体も心も限界だ。涙さえ枯れたのか、流れない。
全てが終わったら――サクラとソラの元へ旅立とう。
たとえ彼女達に会えなくても、こんな辛い記憶を刻んだ身体から解き放たれるだけで、十分だ。
熱気に目眩を感じ、慌ててシャワーを止めた。
冷水に切り替えて頭を冷やし、排水溝を洗い流してからバスルームを出た。
リビングに戻る気がせず、子ども部屋に滑り込む。
もう頭を撫でてくれる小さな掌はないけれど、サクラの遺骨は守ってくれるような安心感をくれた。
骨を並べた新聞紙の側に寄り添い、眠らずに朝を迎えた。




