ダンジョン
—ハロルド、クレア、道中は気をつけて。はぐれないようにね。
ヴェロニカはそう言いながら、俺たちのほうを見た。
俺たちは同時に答えた。
—はい。
*こんな、テンプレ小説みたいにはいかなかった……。一ヶ月経っても、俺は魔法で何の進歩もしていない……。剣術も……まあ、前よりは攻撃を避けられるようになった。でも、反撃はほとんどできない……ヴェロニカが先に攻撃してこなければの話だけど。 *
—ハロルド!
クレアは俺の手を掴み、ヴェロニカのほうへと早足で歩き始めた。
*クレアのほうはというと、剣術も魔法もかなり上達している……それに比べて、俺はずっと停滞しているような気分だった。 *
—楽しみなのか、クレア?
歩みを止めることなく、クレアが答えた。
—もちろん! 冒険者だけがダンジョンに入る機会を持ってるんだよ! それに、貴族が冒険者になることなんて普通はないし!
その声からも、彼女がどれだけ楽しみにしているのかが分かった。
俺たちが向かっているダンジョンは、『クソ貴族』の小説に登場する場所だった。
簡単で、特に問題も起こらないダンジョン。
すべて順調に進めば、ヴェロニカが引率する学校の遠足みたいなものになるはずだった。
—よし、二人とも。第一のルール。常に私の近くにいること。そして第二のルール。私だけを信じること。
—はい、ヴェロニカ。
クレアが答え、俺はただ頷いた。
*ヴェロニカは俺たちに、目立たず動きやすいようにという理由で、簡素な防具を身につけさせた……まあ、彼女を責めることはできない。結局、俺は彼女のような冒険者じゃないんだから。 *
ダンジョンの入口は巨大だった。
そして、それだけ巨大なら当然のように人も多かった。
多すぎるほどに。
クレアが俺の服を掴んだ。
—ハロルド、人がいっぱい……。
少し怯えたような声だった。
*原作では、もっと社交的で明るかったはずなんだけどな……。 *
俺は小さく笑った。
—大丈夫だ。ヴェロニカと一緒なんだから。
その言葉で、クレアは少しだけ落ち着いた。
—そうだね!
最初の数階は、そこにいた他の冒険者たちによって、ほとんど魔物が残っていなかった。
七階までは。
そして、最初の敵が現れた。
コボルト。
ファンタジーではお馴染みの魔物だ。
—よく見ておきなさい、クレア、ハロルド。こうやってコボルトを殺すのよ。
ヴェロニカはコボルトの背後へと近づいた。
そして、その首を斬った。
血が地面へと飛び散った。
ゲームやアニメで見るものとは違った。
吐き気がした。
目の光が消えていくのが見えた。
そして、首の血管まで見えてしまった。
俺はその場で吐いた。
俺だけではなかった。
クレアも吐いた。
ただ、彼女のほうが少しだけ耐えていた。
—慣れるしかないわ。こういうのが日常になる人もいるんだから。
分かっていた。
その通りだった。
それでも、これを見ることには耐えられなかった。
俺たちはしばらく七階を進んだ。
ヴェロニカが突然立ち止まった。
—今度はあなたたちがやりなさい。
彼女は少し間を置いてから続けた。
—これは遊びじゃない。自分自身で生き残る術を身につけなさい。
ヴェロニカはその場から動かなかった。
目の前には三体のコボルト。
こちらには気づいていないようだった。
それでも、俺は動けなかった。
自分の手で殺す。
それが、あまりにも重く感じた。
グロテスクだった。
気持ち悪かった。
だが、先に動いたのはクレアだった。
一体の背後へ回り、その首を斬り落とした。
血が雨のように降り注いだ。
頭では動けなかった。
それでも、身体が勝手に動いた。
俺は一体の腹を斬り裂いた。
—《ヴェントス・ブレード》!
クレアが詠唱し、三体目のコボルトを斬り裂いた。
簡単だった。
だが、気持ち悪かった。
俺たちは血まみれになっていた。
そこからは、ゆっくりと、安全を確認しながら下へ進んだ。
人を殺すことには少しずつ慣れてきた。
だが、血を見ることには慣れなかった。
そして、俺たちは初めての大型の敵に遭遇した。
オーガ。
—二人で倒しなさい。死なない程度には私が見ている。
考える時間は?
作戦を立てる時間は?
そんなものはなかった。
ヴェロニカがオーガへ石を投げた。
—戦場では、いつも作戦を考える時間をくれるとは限らないわよ!
そう言って、彼女は素早く後ろへ下がった。
オーガが棍棒を振り下ろした。
俺は簡単に避けた。
クレアは、なんとか避けたものの、かなり苦戦していた。
—それぞれがどう戦うのか考えなさい!
ヴェロニカが叫ぶ。
—クレア、離れろ。遠距離から攻撃するんだ。
クレアは素直に距離を取った。
すぐに、オーガの視線が俺へ向いた。
再び棍棒が振り下ろされる。
俺はそれを避けた。
—《ヴェントス・ブレード》!
風の刃がオーガの肩へと直撃する。
だが、何も起こらなかった。
ただ、さらにオーガを苛立たせただけだった。
オーガがクレアを見る。
俺はその隙を利用して、脚を斬りつけた。
深くはない。
オーガの視線が再び俺へ戻る。
そして、間髪入れずに攻撃してきた。
だが、ヴェロニカの攻撃よりは遅い。
俺は避けた。
—もっと強い魔法を詠唱しろ!
クレアは素直に従い、より長い詠唱を始めた。
オーガが俺だけを見ている間、俺はひたすら攻撃を避け、隙があれば斬りつけた。
数秒だったのか?
それとも数分だったのか?
分からない。
身体が勝手に動いていた。
自分が何をしているのかも分からなかった。
それでも、上手くできていた。
クレアの詠唱が終わりに近づいていた。
—……炎よ、太陽の娘たちよ! 《イグニス・アロー》!
巨大な炎の矢がオーガへ向かって飛んでいった。
中級魔法。
九歳の少女には不可能に思えるほどの魔法。
だが、クレアなのだ。
炎の矢はオーガの顔面へ直撃した。
オーガはその場に倒れた。
まだ死んではいない。
最後の力を振り絞り、俺へ向かって攻撃してきた。
完全に不意を突かれた。
あと少しで直撃する。
だが、ヴェロニカがその攻撃を止め、オーガの首を斬り落とした。
—二人ともよくやったわ。でも、もっと周りを警戒しなさい。
ヴェロニカは一度息を整えた。
—ハロルド。回避は上手かった。でも、無駄な動きが多すぎる。ほとんど反撃できていなかったし、いつも身体より思考が遅れているように見える。頭で身体を動かすんじゃなくて、身体の動きに思考を合わせなさい。もっと言えることはあるけど、今はここまでにしておくわ。
ヴェロニカはクレアを見る。
—あなたに言うことは少ないわね。まだ幼いんだから。でも、もっと正確に狙うこと。マナをもっと上手くコントロールすること。それから、一撃で仕留めたいなら、マナを攻撃だけに集中させて、さらに速く詠唱しなさい。
—別に二人を責めているわけじゃないわ。まだ幼い。これからいくらでも伸びる。でも、手遅れになる前に直しておいたほうがいい。
俺たちには、勝利を喜ぶ時間すら与えられなかった。
空気が張り詰める。
—次は役割を変える。ハロルド、あなたが遠距離攻撃。クレア、あなたは近距離よ。
……
そうして、俺たちは何階も進み続けた。
最初はかなり苦労した。
それでも、互いに足りない部分をほんの少し補える程度には、適応することができた。
だが、下へ進めば進むほど、ヴェロニカの様子がおかしくなっていった。
—どうしたんだ、ヴェロニカ?
ヴェロニカのような人がこんな状態になるのは珍しい。
—何でもない。ただ戦い続けなさい、ハロルド。気を散らさないで。
それでも、彼女が緊張しているのは明らかだった。
クレアが俺の手を取った。
—ハロルド! 前にコボルトがいるよ! 行こう!
クレアは……まあ、この空気には気づいていないらしい。
下へ。
下へ。
さらに下へ。
何階かに一度は見かけていた冒険者たちも、もういなくなっていた。
ヴェロニカはさらに警戒を強めていた。
視線をあちこちへ走らせている。
それなのに……クレアは相変わらず自分の世界にいた。
シャルロットとのお茶会で聞いたらしいメロディーを、鼻歌で歌っていた。
本人がそう言っていた。
—ハロルド! ヴェロニカ!
クレアの叫び声に、俺は驚いた。
どうやら二人にはそれがおかしかったらしく、笑っていた。
俺の顔が少し赤くなる。
—どうしたの、クレア?
ヴェロニカは笑いをこらえながら尋ねた。
—あ、そうだ。宝箱を見つけたの。
クレアが指差した。
宝箱。
どう見ても怪しい。
ヴェロニカが先頭に立ち、宝箱へ近づいていく。
そして、近くまで来た瞬間――
—ハロルド! クレアを支えて!
直後。
爆発が起きた。
俺の意識が吹き飛びそうになる。
どうにかクレアの手を掴んだ。
視界がぼやけていた。
感覚が狂っていた。
身体もほとんど動かなかった。
何かに引っ張られた。
ほとんど何も聞こえない。
—ハロルド、お願い、離さないで!
クレアだった。
そして、もう一つの声が必死に叫んでいた。
—ハロルド、クレア、走れ!
どうにか走った。
何度もつまずきながら。
何も見えないまま。
何も理解できないまま。
ただ、走った。
やがて、視界が安定してきた。
四人以上いる。
四人の人間。
魔物ではない。
大人と、少年少女たち。
それが、どんな魔物よりも恐ろしかった。
俺は剣を抜いた。
だが、ただ震えることしかできなかった。
そこにいた男の一人が手を上げた。
そして、残りの三人が俺たちへ飛びかかってきた。
運良く、一人の指を切り落とすことができた。
俺の後ろでは、クレアが泣いていた。
少なくとも、そう見えた。
—……汝、天を統べる者よ……《フルグル》!
クレアの手から雷が放たれた。
二人の叫び声が響いた。
一人を殺し、もう一人を負傷させた。
リーダーらしき男が笑った。
—その娘か。
それだけだった。
俺は一瞬気を取られ、腹に攻撃を受けた。
息ができなくなった。
ただ、クレアが連れ去られていくのを見ることしかできなかった。
—嫌! お願い、やめて!
俺は這いずった。
爪が割れた。
それでも追おうとした。
だが、立ち上がることができなかった。
ほんの数分だった。
なのに、何時間にも感じた。
足音が聞こえた。
身体が動かない。
*俺は死んだ。 *
—ハロルド!
ヴェロニカだった。
俺たちを守るはずだった人。
それが、地面を這うようにして戻ってきた。
*彼女がこんな状態なら……俺はどうなる……? *
ヴェロニカが俺へ近づいてきた。
だが、俺の頭の中にあるのは一つだけだった。
感覚の中に。
鼓動の中に。
ただ、それだけがあった。
—俺たちは死ぬ。
*俺たちは死ぬ。 *
俺たちは死ぬ。
ヴェロニカが俺の頬を強く叩いた。
—しっかりしなさい、ハロルド!
たぶん何時間ぶりだったのか。
俺は初めて、ヴェロニカの顔を見た。
彼女は……怯えていた。
俺と同じくらい。
身体中が切り傷と血と傷跡だらけだった。
—ハロルド。クレアを助けに行くわ。
*……クレア……? *
—クレアって、誰?
俺の頭は思考を作ることすらできなかった。
いや。
もしかしたら、俺自身がそうしたくなかったのかもしれない。
ヴェロニカは俺の額に自分の額をぶつけた。
—二度とそんなことを言うな。
悲しそうな声だった。
静寂の中、ヴェロニカから滴り落ちる血の音だけが響いていた。
彼女は俺の肩を掴んだ。
—魔法戦士でも、貴族でも、平民でも、死んだ人間でもいい。でも、今ここにいるハロルドが必要なの。
一度、息を吸う。
—あなたの身体にマナを巡らせる。クレアを助けるために、あなたの力が必要なの。
ヴェロニカは俺の背後へ回り、俺の背中に手を当てた。
熱いマナの波が押し寄せてくる。
熱すぎる。
身体の中へ入り込んでくる。
焼ける。
燃える。
死んでしまうような感覚だった。
それでも、ヴェロニカは止めなかった。
さらに。
さらに。
そして、さらに。
増えていく。
死んでしまいたいと思うほどに。
秒が、時間へと変わっていくようだった。
—今、私のマナを一部渡した。あなたのマナの総量を強制的に増やしたのよ。これを知っているのはペンドラゴン家だけ。絶対に他人へ話さないで。
俺はふらつきながら立ち上がった。
少しだけ身体が軽くなった。
頭も、ようやく考えられる程度には晴れていた。
—クレアを……助けに行こう。
俺たちはクレアが連れていかれた方向へ進んだ。
そこには――
大量の……。
殺された人間たち。
切断された死体。
刺し殺された者。
命を失った者。
中には、まだ息をしている者までいた。
それでも――
ヴェロニカは彼らを無視した。
—クレアのことだけを考えなさい。分かった、ハロルド?
数分が過ぎた。
そして、足音が聞こえた。
—五人……。私が正面から攻撃する。あなたは殺せる奴を殺しなさい。
*……人を殺す……。そんなこと、今まで考えたこともなかった……。俺に、人を殺せるのか? たとえ自分の命が懸かっていても……俺は殺せるのか? *
ヴェロニカが俺を見る。
—殺すか、殺されるかよ。そして、あなたが死ねば、私も死ぬ。クレアも死ぬ。泣いてもいい。吐いてもいい。叫んでもいい。何をしたっていい。でも、それは後にしなさい。今は殺す必要がある。あいつらは魔物よりも怪物よ。
俺は最後まで理解できなかった。
ヴェロニカはすでに正面から飛び込んでいた。
頭が一つ飛んだ。
ヴェロニカのものではない。
腕。
脚。
もしここに立ち尽くしていたら――
また誰かを失う。
—マナよ、我がすべてを捧げる。その代わりに、我が身体、心、魂を包み込め。
マナを身体に纏わせるこの詠唱は、まだマナを上手く扱えない者が使うものだ。
俺は最初に目についた男へ走った。
首へ向かって飛びかかる。
斬った。
男の目から光が消えていくのが見えた。
そして、俺の手は血で染まった。
だが、後悔している暇はなかった。
別の男が俺へ向かってきた。
俺たちがそこにいた者たちを殺し終えたとき、俺はあることに気づいた。
全員、俺と同じくらいの年齢の少年たちだった。
そのとき、笑い声が聞こえた。
身体が震えた。
—驚いたな。まさか自力で全員倒してしまうとは……。この私が、ペンドラゴン嬢。君に最高の部下たちを送り込んだというのに。
ようやく、俺はその人物を思い出した。
原作とまったく同じだった。
『クソ貴族』の人物ではない。
三人の聖人の一人。
剣聖。
主人公の一人。
こいつがやった。
考える時間はなかった。
そいつが俺へ飛びかかってきた。
—俺を知っているのか?
ヴェロニカが俺の前に立ち、剣を受け止めた。
男は苛立ったように言った。
—聞いているんだ。俺を知っているのか?
そして、止まることなく攻撃を続けた。
ヴェロニカはただ耐えていた。
—俺を知っているのか!?
同じ言葉を繰り返しながら、怒涛のような連撃を繰り出してくる。
俺には何もできなかった。
マナがあっても。
なくても。
俺が相手にできる存在じゃなかった。
主人公だった。
やがて、男は攻撃を止めた。
—ああ、そうか。どうして気づかなかったんだ。お前も……。
その言葉を遮るように、雷が男の頭へ落ちた。
クレアだった。
—お嬢ちゃん、礼儀ってものを教わらなかったのか?
男はクレアへ向けて手を上げた。
ヴェロニカが走り、クレアの前に立つ。
だが、何も起こらなかった。
—ああ、そうか……ここではそれは使えないんだったな……。
ヴェロニカの目を見た。
それだけで、すべてが分かった。
……
俺は男の首を斬った。
頭が飛んだ。
俺の身体は血まみれになった。
人間の血で。
俺を殺そうとしていた人間の血で。
俺たちは無言でダンジョンを出た。
入口の周囲には大勢の衛兵がいた。
そして、そこには二人の重要な人物がいた。
フェリックスとシャルロット。
クレアは二人のもとへ走った。
そして、泣いた。
泣いて、泣いて、泣き続けた。
俺はただ、それを見ていた。
自分が汚れているように感じた。
気持ち悪い。
吐き気がする。
自分が、ひどく醜いものになったように感じた。
そして、フェリックスが最初に動いた。
何も言わず、俺へ近づき――
俺を抱きしめた。




