クレア
「終わりました、アストリッド。外に出てもいいですか?」
アストリッドは紙を受け取った。
ここ数週間、アストリッドは大陸の歴史について俺に勉強させていた。
彼女はしばらく紙に目を通した。
「ダメよ。今日はお父様が新しい剣術の教官を連れてくると言っていたでしょう」
俺はため息を吐いた。
*そうだった……剣術はこの家に深く根付いている。 *
突然、扉が勢いよく開いた。
そこにいたのはクレアだった。
「教官がもう来てるよ! 行こう、お兄ちゃん!」
あまりにも嬉しそうに叫ぶ。
「俺を休ませてくれない……」
クレアは俺の腕を掴み、無理やり引っ張っていった。
「クレア、お前も俺と一緒に授業を受けるのか?」
どうやら忘れていたらしい。
「たぶん、そう?」
*最悪なのは、別の小説の教官だった場合だ…… *
引きずられるようにして、俺たちは庭へとやって来た。
「うん……これより悪いことはないか」
*ヴェロニカ・ペンドラゴン。『クソ貴族』出身で、幼い頃に魔力に目覚め、魔法戦士としての適性も持っていた。間違いなく強力な人物だ。何より、とても厳しい教官……俺の運は最悪だな。 *
フェリックスの隣に立っていたヴェロニカが、こちらを振り向いた。
彼女は『クソ貴族』の小説で描かれていた姿とまったく同じだった。
身長はおよそ175センチ。短い黒髪で、手や脚、顔にはいくつもの傷跡がある。年齢はおそらくフェリックスと同じくらいか、それ以上だろう。
そして、彼女を象徴するもの。
古びて、使い込まれた一振りの剣。
フェリックスがヴェロニカと共にこちらへ近づいてきた。
「ハロルド、クレア。彼女がヴェロニカだ。私が現役だった頃、とても世話になった優秀な教官だ」
*そうだ……俺は彼女をよく知っている…… *
「ハロルドだけが魔力に目覚めたから、彼には彼女から魔力操作の個人指導を受けてもらう。剣術については、二人とも彼女から教わることになる」
クレアはしょんぼりした様子だった。
「お父さん、私も最初の覚醒試験を受けちゃダメ?」
クレアがそんな顔をすれば、当然フェリックスが断れるはずもない。
「いいだろう……」
フェリックスはため息を吐いた。
「やってみなさい、クレア」
*ここ数日勉強して分かったことだが、覚醒試験は初回と二回目では方法が変わるらしい。初回では、体内に魔力を注ぎ込んで本人の魔力を活性化させる。そして、そのときの適性次第では、問題なく覚醒に成功することもある。元々のハロルドがそうだったように、成績が悪くなかったにもかかわらず、初回では覚醒できない場合もある。それはつまり、その人の体内には自然な魔力が流れていない可能性が高いということだ。二回目は、成功する可能性がかなり低いらしい。簡単な魔法の詠唱を行うことで覚醒させる。俺の場合は、それによってハロルドが魔法を使えるようになった。 *
俺が考え込んでいる間に、クレアとフェリックスは庭の中央に座った。
フェリックスはクレアの後ろに座り、その背中に両手を添えた。
クレアはゆっくりと目を閉じ、規則正しく穏やかな呼吸を始めた。
フェリックスの手から、催眠術のような淡い光が放たれる。
少しずつ、クレアの呼吸がさらにゆっくりになっていく。
フェリックスはゆっくりとクレアの背中から手を離した。
「クレア。数分前に覚えた詠唱を唱えてみなさい」
クレアは素直に言われた通り繰り返した。
「アクア」
巨大で完璧な形をした水の球が、クレアの目の前に現れた。
*最初の覚醒では、注ぎ込まれた魔力を使う。そのため、試験が終わるとすぐに魔法を使わせる。第一に、魔力をどれだけ上手く扱えるかを見るため。第二に、注ぎ込まれた魔力を体外へ放出するためだ。俺が覚えている限り、ハロルドの最初の覚醒もそうだった。魔力の操作自体は上手かった。だが、残留していた魔力を放出した後、そこには魔力が一欠片も残っていなかった。 *
クレアはフェリックスのもとへ走り、抱きついた。
フェリックスも彼女を抱き返した。
「私の残留魔力だけでこれだけできれば十分だ」
フェリックスは数秒間考えた。
「次は、自分自身の魔力でやってみなさい」
クレアは少し緊張しながら、もう一度詠唱した。
「アクア」
先ほどよりもさらに巨大で、制御の利かない水の球がクレアの手から放たれた。
今にも破裂しそうだった。
フェリックスが驚く中、ヴェロニカが素早く反応し、クレアの手を掴んで空へ向けた。
「投げろ!」
ヴェロニカがクレアに叫ぶ。
クレアはどうにか水球を空へ放り投げた。
そして、水球はそのまま空中で破裂した。
大量の水が俺たちの上に降り注いだ。
フェリックスが笑い始める。
「クレア、お前は天才だ! このレベルの魔力を手に入れるのに、私は何年もかかったぞ!」
そう言いながら、彼女を抱きしめた。
「間違いなく、フェリックス。これだけの魔力があるなら、彼女専用の教官を雇ったほうがいい。一年もすれば、私を超えるでしょうね」
ヴェロニカはそう言いながら、濡れた髪を一房、顔から払いのけた。
クレアはフェリックスに抱きしめられながら、満面の笑みを浮かべていた。
数秒後、フェリックスも満面の笑みを浮かべながら、貴族としての仕事に戻るため屋敷の中へ戻っていった。
ヴェロニカが俺の肩に手を置いた。
「彼女と自分を比べるんじゃない。どこから見ても、彼女は天才よ……」
俺は笑った。
「比べてなんかいませんよ……妹ですから」
自分の口からなぜそんな言葉が出たのか考える暇すらなかった。
「よし。スパーリングをしよう。クレア、お前たち二人で私と戦う。ハロルドは魔法禁止だ」
……
クレアは地面に倒れていて、俺の身体もかろうじて動いている状態だった。
ただ本能だけで身体を動かしている。
ここまで、攻撃する機会は一度もなかった。
「よく避けるわね、ハロルド」
ヴェロニカは笑った。
言葉を理解する暇さえ与えず、彼女は再び俺へと飛び込んできた。
彼女の剣が俺の前髪の先を掠める。
俺は本能だけでそれを避けた。
頭で考えるより先に、身体が反応していた。
ヴェロニカは俺に息をつかせる暇もなく、蹴りを放ってきた。
俺は剣で受け止めた。
それでも身体は吹き飛ばされた。
地面に触れることすらできないまま、彼女はすでに俺の目の前にいた。
だが、今度は彼女の動きが見えた。
彼女は俺の顔へ向かって剣を振った。
しかし、なぜか俺にはそれがフェイントだと分かった。
剣が視界を覆った瞬間、彼女は拳を繰り出した。
俺は剣でそれを弾いた。
そして、ついに隙を見つけた。
俺はその瞬間、彼女の腹部へ向けて斬撃を放った……
「惜しかったわね。あなたの反射神経は平均的な王国騎士より上よ。反射神経だけなら、いずれ私を超えるかもしれないわね」
俺は地面に倒れ、全身が痛んでいた。
「何もできませんでした。あなたを斬れなかったなら、意味がない」
理由も分からないまま、俺は苛立っていた。
もしかしたら、元々のハロルドのほうが、今の俺よりも才能があったからなのかもしれない。
「坊や。お前と同じ年齢で、そんな反射神経と判断力を持っている人間がどれだけいると思う? 誇りなさい。お前は父親と同じくらい才能がある」
ヴェロニカは顎に手を当てたまま、しばらく黙った。
「……もしかしたら、父親よりも才能があるかもしれないわね」
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それから数週間は地獄だった。
アストリッドとの勉強に加えて、ヴェロニカとの剣術と魔力の訓練。
普通の人間の健康には、間違いなく良くない。
まあ、ハロルドもクレアも、この世界の誰も普通じゃないけど。
「フェリックス、シャルロット。二人をダンジョンへ連れていく。クレアとハロルドをね」
食卓にいた全員が、ヴェロニカの言葉を聞いて沈黙した。
最初に口を開いたのはシャルロットだった。
「ダメよ、ヴェロニカ」
短い言葉だった。
だが、その声はとても真剣だった。
ここへ来てから、シャルロットがあんな口調で話すのを聞いたのは初めてだった。
ハロルドの記憶の中にも、こんな姿はなかった。
「シャルロット。私はずっと前から決めていた。特に、この数週間のこともあるからね」
ヴェロニカはそう言った。
*この数週間? 何の話だ? *
「どういう意味だ、ヴェロニカ?」
食卓にいた全員が俺を振り返った。
「誘拐よ。この数年、子供たちの誘拐が相次いでいる。特に狙われているのは、貴族や才能のある子供たちだ」
シャルロットは顔を覆った。
「それでも、子供たちを死地へ送り込むくらいなら、護衛に金をかけるほうがいいわ」
*これは『クソ貴族』の小説にはなかった……。こんなのは違う。こんなことは一度もなかった…… *
「訓練が必要なのよ。護衛がいつも一緒にいられるとは限らないでしょう、シャルロット。分かって」
シャルロットが何か言おうとした。
しかし、フェリックスが手を上げた。
「ヴェロニカの言う通りだ、シャルロット」
フェリックスが断固とした口調で言った。
食卓にいた全員の視線がシャルロットへ向いた。
シャルロットは拳を握りしめた。
「フェリックス・フォン・シルフォード。もしこの子たちに何かあったら、あなたたち二人を殺すから。本気で言っているわよ、フェリックス」
彼女は勢いよく立ち上がり、食事を残したまま部屋を出ていった。
クレアが叫びながら彼女を追いかける。
「お母さん!」
そして、なぜか俺の身体も二人を追って走り出していた。
部屋を出る直前、俺が見たのは、頭を抱えるフェリックスと、何事もなかったかのように食事を続けるヴェロニカだけだった。
シャルロットはクレアを抱きしめていた。
「私の可愛い子……お願いだから、気をつけてね」
クレアはただ頷いた。
俺が部屋の入口にいることに気づくと、シャルロットは俺の顔を見た。
その目には、乾いた涙の跡が残っていた。
俺は無意識に彼女を抱きしめた。
……
朝の日差しが俺を目覚めさせた。
どうやら、俺とクレアはフェリックスとシャルロットの寝室で眠ってしまったらしい。
そして、認めるのは少し恥ずかしいが、昨夜の俺はクレアと一緒にシャルロットの膝の上で眠ってしまった。
その夜、俺は夢を見た。
両親の夢だった。
奇妙な夢だった。
二人は何かを話していたが、怒っているようには見えなかった。
*母が何を言っていたのか、よく思い出せない……。「そう、今のあなたの両親はこの人たちなのね……。じゃあ……」みたいな感じだった。二人とも、本当に嬉しそうだった。何か他にも言っていた気がするけど、覚えていない…… *
やがて、穏やかな声が俺を起こした。
「ハロルド、クレア。ベッドから出なさい。もうすぐ午後二時よ……」
シャルロットだった。
どうやら俺とクレアがフェリックスとシャルロットのベッドで眠っている間、二人とも起こさなかったらしい。
俺はまだ眠気が残ったまま、ベッドから起き上がった。
俺の後ろにいたクレアが、俺のシャツを掴んだ。
「クレア?」
まだ目を閉じたままだった。
「お風呂場まで連れていって。まだ目を開けたくない……」
いつもより遅い時間に、俺たちはヴェロニカの待つ訓練場へ向かった。
*アストリッドの授業をサボれた! やった! *
「ハロルド。しばらくアストリッドとの授業はないわ」
*嫌な予感がする…… *
ヴェロニカは小さく笑った。
「今日から一か月後、ダンジョンへ行く日まで、訓練時間を倍にする。そして、お前たちを今までの倍苦しめる」
クレアと俺は顔を見合わせた。
これは間違いなく、死刑宣告だった。




