生命の愚弄
リンドルの劇的な解放から数日。街はかつての重苦しい静寂を脱し、活気と熱気を取り戻しつつあった。
魔女から不当に魔力を搾り取っていた収容所は解体され、解放された魔女たちの一部は自発的に「魔女自衛団」を組織していた。街の広場では、金髪の魔女マーリンが彼女たちに魔法の基礎や魔力の効率的な循環方法を教えている。かつては理不尽な暴力に怯えるだけだった少女や女性たちが、自らの意志で立ち上がり、その瞳に希望の光を灯していく姿は、マーリンの心にも戦うための新たな使命感を強く植え付けていた。
「ユウナ、不思議なことがあるの」
二十六歳となったマーリンが、作戦室の机に広げた地図を指差しながら、険しい表情で告げた。
「帝都へと続く街道にある軍事拠点や砦が、すべて沈黙しているのよ。哨戒の兵すら配置されていない。まるで……私たちを何一つ遮るものがない状態で、帝都へとおびき寄せているみたいに」
「ええ。グレイブという男、完全に理性を捨てて私たちを待ち構えているのでしょう」
その傍らで、二十六歳のユウナは、抱いた五歳のラビスをそっと支えながら応じた。
ユウナの波立つような銀髪の奥、その鋭い双眸は、帝都の方角から漂ってくる異様な「魔力の淀み」をはっきりと感知していた。それは自然界に存在する精霊たちの息吹でも、魔女が紡ぎ出す純粋な魔力でもない。死者の未練や、無理やりこねくり回された生体組織の怨嗟が混ざり合った、悍ましく生温かい、人為的な魔力の腐臭だった。
胸元のラビスが、小さな鼻先をピクリと動かし、退屈そうに冷笑した。
「ふん、安直な小細工ね。自慢の『科学の鎧』が精神魔法であっけなく無力化されたから、今度は魔女の生体細胞でも弄び、人間ベースの『操り人形』でも作り出したかしら。人間という生き物は、いつの時代も、神聖な領域に泥足で踏み入ることに奇妙な快楽を覚えるものだわ」
ラビスの言葉には、かつて母クレアを裏切り、戦いが終わった瞬間に魔女を虐殺し始めた人間たちへの、根深い侮蔑が込められていた。
「行くわよ、ユウナ、マーリン。相手がどんな泥をこねて待っていようと、私たちの歩みを止める盾にはなり得ないわ。そのおぞましい玩具ごと、粉々に噛み砕いてやりましょう」
その幼くも絶対的な女王の号令と共に、三人は帝都への最終行軍へと足を踏み出した。
帝都を眼前に控えた、不毛の荒野。
かつて多くの戦争が繰り広げられ、今や枯れ草と赤土だけが広がるその平原に差し掛かった瞬間、突如として大気が激しく軋んだ。
「――っ! ユウナ、上から来るわ!」
マーリンが叫ぶと同時に、赤茶けた地を割って、巨大な「何か」が猛烈な土煙と共に飛び出してきた。
「オオオオ、オオオアアアアアッッ!!」
それは、かつて安全保安局の魔女対策課が身にまとっていたあの重厚な防魔の鎧を、人間の皮膚や骨肉そのものと強引に融合させたような、見るに耐えない異形の怪物だった。
怪物の背中や関節部からは、数寸の真鍮製の魔力抽出管が直接突き刺さっており、その管の内部をドクドクと禍々しい紫色の液体が脈動しながら巡っている。かつてそれが「人間」であったという名残は、苦悶と憎悪に引き攣った顔の右半分にしか残されていない。左半分は完全に金属の肉塊と同化し、血走った巨大な単眼が狂気に濁っていた。
グレイブが、魔女の細胞を犯罪者や志願兵に移植し、強制的に魔力を暴走させて作り出した人造魔女兵『ナンバーズ』。
「これが、貴方たちの誇る科学の行き着いた先ですか。……どこまでも浅ましく、救いようがありませんね」
ユウナが一歩前に出る。その瞳からは完全に温度が消え去り、極寒の絶対零度のような魔力が立ち昇る。
「――『精神崩壊』」
ユウナの視線が、怪物の狂った単眼を捉えた。かつてなら、どれほど屈強な兵士であっても一瞬で廃人にする高位の精神波。
しかし、キィンと不快な金属音が響き、ユウナの放った不可視の精神波は、怪物の手前で激しく弾かれた。
「効かない……!? いいえ、これは……」
ユウナがわずかに眉をひそめる。
「無駄よ、ユウナ」
ラビスが胸元から冷徹な声で遮った。
「その人形、中身が『空っぽ』だわ。恐怖や苦痛を感じる脳の部位をあらかじめ物理的に破壊され、ただ『殺戮』の命令だけを注ぎ込まれた生体兵器。精神そのものが存在しない肉塊に、精神干渉は作用しない」
「だったら、物理的にその動きを止めるまでよ!」
マーリンが前方に躍り出る。その腕の周囲に、白銀の気流が渦を巻いた。
「――『暴風の神剣』!」
真空を伴う超高速の風の刃が、十重二十重となって怪物の巨体へ襲いかかる。鎧の隙間、肉が露出した関節を狙った完璧な一撃。しかし、怪物は驚異的な瞬発力でその刃を硬化した右腕で受け流し、逆に背中の管から、腐食性の紫色の魔力弾を乱射した。
ドガガガガッ! と荒野の地面が爆発し、強酸の煙が周囲を包み込んでいく。
「キャッ……!?」
「マーリン、下がって!」
ユウナが即座に防魔の障壁を展開し、マーリンを背後に庇う。紫の煙が障壁に触れるたび、チリチリと嫌な音を立てて空間が侵食されていく。それは、命を削り、死した同胞たちの残留思念を無理やり燃料に変えて放たれる、最悪の「呪いの魔力」だった。
「……止めて」
紫の煙の向こうで、怪物がさらに魔力を膨らませ、狂ったように自らの肉体を自傷しながら力を引き出そうとする姿を見て、ユウナが静かに、しかし地響きのような怒りを込めて呟いた。
「同胞の死体を弄び、生きている者の魂を冒涜し、そうまでして私たちの『魔法』に縋らなければ、貴方たちは戦うこともできないのですか」
ユウナの銀髪がフワリと重力を無視して逆立ち、彼女の足元から、底知れない黒と銀の魔力障壁が展開される。その圧倒的なプレッシャーに、突風を操るマーリンですら一瞬息を呑むほどだった。全盛期のラビスと並ぶとされる、ユウナの真の魔力の解放。
「魔女を恐れ、悪魔と呼び、排除しようとしながら、その力を最も欲しているのは貴方たち人間だ。……どこまで彼女たちを、命を愚弄すれば気が済むのですか、グレイブ!」
怪物が再び咆哮し、巨大な金属の拳を振り下ろして突進してくる。
だが、ユウナは避けない。彼女が両手を静かに左右に広げた瞬間、荒野の空がにわかに暗転した。怪物の全方位を取り囲むように、虚空から数百、数千のまばゆい「光の杭」が出現する。
「『魂の鎮魂歌』」
それは、相手を肉体的に破壊する魔法ではない。
強引に精神を破壊され、肉体と融合させられて悲鳴を上げている、無数の名もなき魂の破片を、元の安らかな場所へと優しく還す、究極の救済魔法。
光の杭が怪物の肉体を優しく貫くたびに、噴き出していた紫色の禍々しい魔力が、温かな白い光へと浄化されていく。
怪物の狂暴な動きが、ピタリと止まった。
血走っていた巨大な単眼から、狂気の色がすうっと引いていく。金属と同化していた顔の半分が、ほんの一瞬だけ、静かに眠るかのような穏やかな「人間」の表情を取り戻した。
「……あ……が……と……」
声にならぬ感謝の吐息を残し、異形の巨大な肉体は、サラサラと崩れる砂のように、温かな光の粒子となって荒野の風に溶けて消えていった。
跡に残ったのは、焼け焦げた赤土と、かつて彼が安全保安局の兵士であったことを示す、一枚の歪んだ金属の認識票だけだった。
ユウナは、地面に落ちたその認識票を見つめ、静かに拳を握りしめた。その指先が、怒りで微かに震えている。
「これを作った張本人は、まだ帝都の奥でふんぞり返っているわ」
ラビスがユウナの肩をそっと叩き、その紅い瞳で帝都の城壁を見据えた。
「行くわよ、二人とも。科学という名の独善で、命の価値を歪め続ける奴らに、本物の『魔女の鉄槌』を下す時よ」
「……はい、ラビス様。グレイブ、そしてこの国の歪みすべてを、今度こそ終わらせます」
ユウナは認識票を静かに大気の中に消し去り、フードを深く被り直した。その瞳に灯る炎は、かつてないほどに静かで、そして何よりも激しく燃え盛っていた。
帝都の門が、すぐ目の前で不気味に口を開けて待っていた。




