魔女の逆襲
霧深い森の最奥。帝国の地図から消された「空白の地」に建つ隠れ家は、この五年間で、静かなる要塞へと変貌を遂げていた。
二十六歳となったユウナは、テラスでハーブティーを淹れながら、静かに森の境界を見つめていた。その美しさは、もはや人間離れした神秘性を帯びている。銀糸の髪は日の光を吸い込み、凪いだ瞳は世界の理を透かし見るかのように深い。彼女がただそこに立つだけで、周囲の空間は絶対的な「静寂」に支配される。
「ユウナ、また難しい顔をして。せっかくの朝食が冷めてしまうわよ」
声をかけたのは、同じく二十六歳のマーリンだった。かつての面影はどこにもない。短く切り揃えられた金髪は快活な意志を象徴し、その瞳には自信と力が溢れている。彼女の背後では、無意識に漏れ出す膨大な魔力が微かな風の渦を作り、周囲の木の葉を舞わせていた。
「……境界の結界に触れる者がいます、マーリン。それも、今までにない規模の軍勢です」
「ふん。五年も泳がせておいて、ようやく本気を出したってわけね。保安局も、今度は本物の軍隊を動かしたみたい」
二人の視線の先、森の入り口では、帝国の最新鋭装甲車と三千の歩兵、そして何より「魔女対策課」の精鋭たちが、死神の鎌のように森を包囲していた。
「――お待たせ。二人とも、準備はいいかしら」
その鈴を転がすような、しかし凛とした声に、二人は即座に膝を突いた。
部屋から現れたのは、五歳になったラビスだった。
紫の髪は宝石のように輝き、その小さな身体からは、かつての「全盛期」を凌駕するほどに洗練された魔力の波動が放たれている。五歳児の愛らしさと、数多の修羅場を越えた覇者の威厳。そのアンバランスな存在感こそが、今の彼女の真骨頂だった。
「ラビス様。敵軍、結界内への侵入を開始しました。……いかがなさいますか」
ユウナの問いに、五歳の女王は傲慢に口元を歪めた。
「決まっているわ。魔女の処刑を喜んだ大衆と、それを扇動した国家。彼らが信じる『力』が、いかに脆く、無価値なものかを教えてあげるわ。……さあ、進軍の時間よ」
森の開けた場所で、帝国軍は驚愕の光景を目にした。
三千の軍勢の前に、たった一人の銀髪の女性――ユウナが、道を防ぐように立っていたからだ。
「警告します。これより先は、魔女の領域。立ち入る者は、己の魂を代償にすることになります」
「笑わせるな! たかが魔女一人が!」
軍を率いる将軍が、最新式の魔力遮断盾を掲げ、突撃を命じた。
「我々の装備は、あらゆる魔力を弾く科学の結晶だ! 貴様らの呪いなど届か――」
「……『精神の牢獄』」
ユウナが静かに、その瞼を伏せた。
その瞬間、最前線の兵士たちが一斉に崩れ落ちた。物理的な衝撃ではない。彼らの脳内には今、自らが処刑してきた無実の魔女たちの断末魔と、己が最も恐れる地獄の光景が、一秒に千回という速度で叩き込まれていた。
どれほど堅固な装甲も、どれほど最新の科学も、人間の「精神」という内側からの崩壊を食い止めることはできない。
「な、何が起きた!? 射て! 掃射しろ!」
後方のガトリング砲と、対魔女用の毒ガス弾が一斉にユウナを襲う。
だが、そのすべては空間に固定されたかのように停止した。
「……私の風からは、光さえも逃げられないわ」
空から舞い降りたマーリンが、指を優雅に振るう。
「――『真空の断頭台』!」
凄まじい暴風が、軍を真っ二つに薙ぎ払った。弾丸は押し戻され、毒ガスは空の彼方へと霧散する。かつて街を追われ、泣き叫んでいた金髪の少女は、今や一軍を単騎で壊滅させる暴風の化身となっていた。彼女の風は、装甲の継ぎ目から侵入し、鉄の塊を内側から引き裂いていく。
戦場が混沌と絶望に染まる中、ゆっくりと歩みを進める小さな影があった。
五歳のラビス。
その足元、彼女が一歩踏み出すたびに、大地は黒い結晶へと変わり、草花は平伏するように枯れていく。
「あ、ああ……あぁぁぁ……!」
生き残った兵士たちが、本能的な恐怖に絶叫した。彼らの瞳には、五歳の少女ではなく、天を衝くほどの巨大な「死神」の幻影が映っていた。
「よく聞きなさい、愚かな人間ども」
ラビスの声が、魔力を媒介にして全軍の脳に直接、雷鳴のように響き渡る。
「今日、この日を以て、魔女狩りの時代は終わる。私はラビス。あんたたちが『悪魔』と呼び、五年前、広場で『殺した』はずの魔女よ。……死に損ないの復讐、存分に味わわせてあげるわ」
ラビスが小さく手を掲げた。
その指先には、かつて王都を灰にしたあの「暴走」とは比較にならないほど、緻密に、そして凶悪に制御された暗黒の魔力が収束していく。
「ユウナ、マーリン。道を開けなさい」
「「はい」」
二十六歳の二人の最強の魔女が、五歳の主君の前に跪き、道を空ける。
「――『終焉の焔』」
黒い炎が放たれた。
それは熱を奪い、光を吸い込み、万物を虚無へと還す死の輝き。
討伐軍が、装甲が、そして彼らが盲信していた「魔女を殺す科学」の拠り所が、一瞬にして音もなく消滅していった。
跡に残ったのは、完璧なまでの更地と、静寂。
「さて……」
ラビスは小さな手で服の埃を払うと、振り返ってユウナとマーリンに微笑んだ。その笑みは、かつて隠れ家でお粥を食べていた頃の愛らしさそのものだった。
「準備はいい? 私たちの国を……魔女が魔女として、人間が人間として笑える国を、取り戻しに行くわよ」
「どこまでもお供いたします、ラビス様」
ユウナは慈しむような、しかし鋭い眼光を宿して応えた。
「私も。あの日助けてもらった魔法を、今度は世界を変えるために使います」
マーリンも力強く頷く。
二十六歳の二人の従者と、五歳の小さな師匠。
歪んだ歴史を正し、帝都の頂に魔女の旗を掲げるための、本格的な「進撃」が今、始まった。




