伝説の魔女?赤ん坊?
ラビスの魂を見つけ出し、さらに一年の月日が流れた。
あの霧深い森の奥、新たに構えた小さな隠れ家で、二十歳になったユウナは、静かに大釜のスープをかき混ぜていた。銀糸の髪を後ろで緩く束ね、エプロンをつけた彼女の佇まいは、かつて深く被っていたフードの下の陰鬱さを感じさせないほどに落ち着いている。
「――ユウナ。おむつを替える手つきが、いささか雑ではないかしら」
頭の中に直接、響き渡る声があった。
それは、傲慢で、艶やかで、世界のすべてを見下すような、あの懐かしい女王様の声。
だが、声の主は、ユウナの足元で短い手足をバタバタとさせている、紫色の髪をした一歳児の赤ん坊であった。
「申し訳ありません、ラビス様」
ユウナはスープの火を止め、無表情のまま屈み込んだ。
「ですが、一日に十回もお召し替えを要求されるのは、いささか過剰かと存じます。今のラビス様の胃腸は非常に健康であり、先ほど排泄されたばかりです。濡れてもいないおむつを替える必要性はございません」
「ふん。湿り気というのは、高貴な皮膚にとって最大の敵なのよ。それよりも、このドロドロとした離乳食はなんなの。味の深みが微塵もないわ。せめてトリュフの香りでもつけなさい」
「ラビス様、現在は一歳の幼児でございます。味の濃いものは内臓への負担となりますので、ぬるま湯でふやかしたお粥以外は差し上げられません。大人しくお召し上がりください」
「くっ……この不便な肉体、本当にやべーわね……」
赤ん坊ラビスは、幼児特有のふにふにとした短い腕を組み、脳内で激しく毒づいた。
中身はあの最強魔女。しかし、肉体は生まれてわずか一年の赤ん坊。
時折、自尊心が許さないのか、強力な魔法を発動しようとしては、幼児の極小の魔力キャパシティが耐えきれずに知恵熱を出して寝込む……というのを、この一年で何度も繰り返していた。
ユウナはそんなラビスを抱き上げ、スリング(抱っこ紐)でしっかりと自らの胸元に固定した。
立場は逆転し、かつて育てられた少女が、今は母親のようにかつての師を育てている。妙にシュールで、しかし確かな愛おしさに満ちた、二人の新しい日常だった。
「さて、ラビス様。本日は少し離れた南の森まで、薬草の採取に赴きます。大人しくしていてくださいね」
「わかったわ。寝心地が良いように、歩き方には細心の注意を払いなさい」
胸元でふんぞり返る紫髪の赤ん坊をあやしながら、ユウナは静かに隠れ家の扉を開け、鬱蒼とした森の中へと足を踏み切った。
同じ頃。
ユウナたちが向かっている南の森の境界近くでは、激しい呼吸の音と、荒々しい足音が静寂を引き裂いていた。
「はぁ、はぁ、っ……!」
木々の間を、必死に走り抜ける、ユウナと同じ年頃の一人の少女がいた。
名はマーリン
木漏れ日を浴びてきらめく、美しい金髪のロングヘアが乱暴に揺れている。彼女は必死に脚を動かしながら、心の中で自らの不運を呪っていた。
(どうして……ただ、助けたかっただけなのに……!)
ほんの数日前。彼女は暮らしていた街の広場で、二階の窓から転落しかけた幼い子供を目撃した。
考えるより先に身体が動き、風の魔法で子供の身体を優しく受け止めた。子供は無傷。母親は泣いて喜ぶ――はずだった。
しかし、周囲の人間たちが彼女に向けたのは、感謝ではなく、凍りつくような「恐怖」と「敵意」の視線だった。
『魔法を使った!』
『あの女、魔女だぞ! 保安局を呼べ!』
人の悪意は恐ろしいほどに速い。密告は一瞬にして安全保安局へと伝わり、マーリンは住み慣れた家も、温かい日常も、すべてを奪われて追われる身となった。
それから不眠不休で走り続け、国境近くのこの深い森まで逃げ込んできたものの、体力はとうに限界を迎えていた。
「――そこまでだ、魔女め」
冷酷な声が、前方から響く。
ハッとして足を止めたマーリンの前に、黒い外套をまとった男たちが立ち塞がった。胸元に輝くのは、安全保安局『魔女対策課』の天秤の紋章。彼らは、重厚な金属の鎧を身にまとっている。
「いや……来ないで……!」
マーリンは恐怖に顔を歪めながらも、右手を前に突き出した。
「――『烈風の刃』!」
彼女が放った鋭い風の刃が、先頭の兵士を直撃する。
だが。
キィィン、と鈍い音が響き、風の刃は兵士の鎧に触れた瞬間、煙のように霧散してしまった。
「無駄だ。我々の鎧は、すべての魔法を無効化する。貴様ら悪魔の小細工など、一切通用せん」
「そんな……魔法が、効かない……!?」
マーリンは絶望に目を見開いた。
この世界の「科学」が生み出した、対魔女用の絶対無効化兵器。それを前にして、彼女の魔法はただの無駄骨に過ぎなかった。
「抵抗は終わりだ。大人しく縛り首になれ」
数人の兵士が、魔力封じの手枷を構え、じりじりとマーリンを追い詰めていく。
尻もちをつき、後退りするマーリン。背後は険しい崖。もう、逃げ場はどこにもなかった。
「失礼いたします」
緊迫した空気に、場違いなほどに透き通った、丁寧な敬語が響き渡った。
「――あ?」
兵士たちが、怪訝そうに声のした方を振り返る。
木々の影から静かに歩み出てきたのは、月の光のような銀髪をなびかせた、二十歳の美しい女性。胸元には、不機嫌そうな顔をした紫色の髪の赤ん坊を抱いている。
「何だ、お前は。ここは安全保安局の執行現場だ。立ち入る者は同罪とみなすぞ」
兵士の一人が、ユウナに向けてガトリングの銃口を向けた。
しかし、ユウナの瞳は、凪いだ湖のように平坦なままであった。
「そちらの金髪の女性を、これ以上傷つけることは、私が許しません。お引き取りください」
「ふん、魔女の仲間か! 鎧の効力を知らぬ愚か者が。おい、そいつを蜂の巣に――」
兵士が引き金を引こうとした、その刹那。
「……『精神崩壊』」
ユウナが静かに、その唇を動かした。
それは、三年前に養母ラビスが発動した、あの精神魔法。
物理的な攻撃や魔力の衝撃は、彼らの防魔の鎧によって無効化される。だが、鎧で防げるのは「肉体への干渉」だけだ。人間の「精神」に直接、幻覚と恐怖の深淵を叩き込む高位魔法は、物理的な装甲など何の意味もなさない。
ユウナはこの三年間、ただ逃げ回っていたわけではない。ラビスの無念を晴らすため、そして彼女を守るため、あの精神魔法を完全に自らのものとし、マスターしていたのだ。
「が、あ……っ!?」
引き金を引こうとした兵士の指が、ピタリと止まった。
次の瞬間、兵士たちの瞳から光が消え、まるで魂を抜かれたかのように泥人形のようになり、その場に次々と崩れ落ちていった。
口から微かに泡を吹き、意識を完全に失っている。
彼らの脳内には今、己の最も恐れる「絶対的な悪夢」が無限に再生されている。鎧がどれほど魔力を弾こうとも、脳を直接支配された彼らに抗う術はなかった。
静寂が、森に戻る。
十数人の魔女対策課の精鋭が、一瞬にして全滅した。
地面にへたり込んだまま、金髪の少女――マーリンは、呆然と一部始終を見つめていた。
「あ、あり得ない……。あの鎧は、魔法が効かないはずなのに……一瞬で……?」
ユウナは倒れた兵士たちを一瞥もせず、マーリンの前へと歩み寄り、すっと白い手を差し伸べた。
「お怪我はございませんか」
「え……? あ、はい。大丈夫、ですけど……」
マーリンは、差し出された手を恐る恐る握り、立ち上がった。
「あの、あなたは……? どうして私を助けてくれたんですか?」
「私はユウナと申します。貴女と同じ、魔女でございます」
ユウナは静かに手を引っ込め、いつもの無表情で応じた。
「南の森の境界近くで、強い魔力の衝突を感じました。何事かと思い赴いたのですが、間に合って何よりです。……マーリン様」
「えっ、どうして私の名前を!?」
マーリンが驚きに目を見開く。
「街で噂になっておりましたよ。金髪の美しい魔女マーリンが、人助けのために魔法を使い、追われていると。それを耳にしてから、ずっと気にかけておりました」
「そう、だったんだ……。本当に、ただの噂から私を……」
マーリンは安堵からか、小さく息を吐き出してへなへなと肩の力を抜いた。
「でも、本当に助かった。ありがとう、ユウナ。……あの不気味な鎧の男たち、魔法が全然効かなくて、もう死ぬかと思ったから」
「魔女対策課の鎧は、物理的な魔力を完全に遮断する仕組みになっております」
ユウナは淡々と説明を続ける。
「ですが、人間の『精神』までは防げません。脳に直接干渉する精神魔法であれば、あの鎧はただの重い鉄クズでございます」
「精神魔法……凄い。そんなの、私、聞いたこともないよ……」
マーリンが感嘆の声を漏らした、その瞬間だった。ユウナの胸元のスリングが、もぞもぞと動いた。
「おい、ユウナ。いつまで私をこんな狭い布の中に閉じ込めておくつもり? 蒸れて暑苦しいのよ。早く出しなさい」
赤ん坊の口から直接発せられたわけではない。
だが、マーリンの脳内に直接、地響きのような威厳に満ちた「念話」が響き渡った。
「ひゃいっ!?」
マーリンは短い悲鳴をあげて飛び退いた。
「な、何!? 今、私の頭の中に直接、ものすごい美人の声が聞こえたんだけど……!?」
「お黙りなさい、小娘」
赤ん坊ラビスは、むくれた顔でマーリンを睨みつけた。
「この私を指して『何』とは、ずいぶんと礼儀の欠けた物言いだねえ。これだから最近の若い魔女は困るわ」
ユウナは、スリングからラビスをそっと抱き上げ、戸惑うマーリンの目の前に差し出した。
極めて生真面目な、非の打ち所のないお辞儀を添えて。
「マーリン様。改めてご紹介いたします。
こちらが私の師であり、世界最強にして、三年前に保安局によって処刑されたはずの、世界最悪の魔女――ラビス様でございます」
「は、はあぁぁぁッ!?」
マーリンの絶叫が、静かな森にこだました。
目の前にいるのは、紫色の髪をした、どう見ても一歳児の可愛らしい赤ん坊。
しかし、その瞳に宿る輝きは、この世のすべてを支配する覇王のそれであった。
「……嘘でしょ? あの、国を滅ぼしかけた伝説の魔女ラビス……様が、そんな……おむつ履いてる幼児になってるなんて……」
「失礼なことを言うんじゃないよ。これは一時的な転移による弱体化に過ぎないわ。あと十年もすれば、あんたなんて指先一つで消し炭にしてやれるんだから」
フンス、と赤ん坊ラビスは鼻を鳴らし、ユウナの胸元に再び収まった。
ユウナはいつもの無表情のまま、呆然とするマーリンを見つめ、静かに語りかけた。
「マーリン様。貴女が人助けのために魔法を使い、理不尽に追われる身となったこと、心から同情いたします。この国は、やはり狂っています」
ユウナの瞳の奥に、かつてない冷徹な、しかし確固たる「光」が灯った。
「私たちは、この狂った世界を正しく導くために、再び立ち上がります。
マーリン様。もしよろしければ、私たちの隠れ家へいらっしゃいませんか? 暖かいハーブティーとお粥(ラビス様用)がございます」
「あ、お粥……うん、お腹空いてたから、喜んで……で、でもラビス様に殺されないかしら」
マーリンはまだ状況を完全に飲み込みきれていない様子だったが、ユウナの圧倒的な安心感と、赤ん坊が放つ本物の威光に、ただ頷くことしかできなかった。
銀髪の少女、紫髪の赤ん坊、そして金髪の美少女。
この狂った世界に対する、魔女たちの小さな、しかし確実な反撃の第一歩が、霧深い森の奥で静かに踏み出されたのであった。




