楽園
帝都を去り、冷酷な人間たちの支配が及ばない北の大地へ歩みを進めてから数ヶ月。
年中凍てつく吹雪が吹き荒れ、いかなる動植物の生存も拒んできた「永久凍土の森」の最奥には、今、奇跡のような美しい温もりの光景が広がっていた。
「――よし、これで西側の対流も完璧。完成よ!」
マーリンが清々しい声を上げ、額ににじんだ汗を細い指先で拭った。
彼女が両手をかざした先には、幾重もの緻密な風の結界に守られ、外の極寒が嘘のように穏やかな木漏れ日が差し込む広大な「楽園」が完成していた。
結界の内部には、マーリンの精密な風の魔法で切り出された美しい木造の家々が建ち並び、ユウナが土壌の精神を安定させて育んだ瑞々しいハーブの畑が青々と広がっている。
そして、帝都でのラビスの宣言を聞きつけた国中の魔女や、人間社会で魔女の血筋として虐げられ、行き場を失っていた心優しい人々が、次々とこの地――自治領『ネーベル』へと集まり始めていた。
「素晴らしいわ、マーリン。風の循環が完璧よ。これなら、凍土の下に眠る大地の魔力も、植物たちの根に満遍なく行き渡るわね」
ラビスがテラスの椅子に深く腰掛け、上品にハーブティーを啜りながら満足げに頷いた。その佇まいは、数ヶ月前よりもさらに大人びており、小さな身体の背後に漂う魔力の密度は、すでに三十年前の全盛期を上回るほどに研ぎ澄まされている。
「ありがとうございます、ラビス様! でも、本当に驚きました。まさか、こんなにたくさんの仲間たちが、私たちを信じて集まってくれるなんて……」
マーリンの視線の先では、新しく移り住んできた魔女たちが笑顔で畑を耕し、子供たちが魔法の火種を追いかけて元気に走り回っていた。かつて誰もが日陰で息を潜め、隣人の密告に怯えていたのが嘘のような、絵画のように温かい光景だった。
「ですが、ラビス様」
ユウナが静かに、温かいおかわりのハーブティーを乗せたお盆を持って二人の元へ歩み寄った。彼女の美しい銀髪は、結界を通り抜けた陽光を浴びてキラキラと優しく輝いている。
「ここ数日、結界の外周を監視する風の精霊たちの動きに、微かな緊張が見られます。……帝国の『人間』たちが、私たちの動向を窺っているようです。グレイブを失ったとはいえ、彼らの恐怖心はまだ、この聖域を脅かそうとしています」
マーリンの顔から笑みが消え、少し不安そうにラビスを見つめた。
「また、戦いになるんでしょうか……」
ラビスはカップを机に置くと、ふっと寂しげな、自嘲気味の笑みをこぼした。
「戦う? いいえ、そんな必要はないわ。……なぜなら、私が『最悪の魔女』だからよ」
「ラビス様……?」
ユウナが静かに眉をひそめ、主君の紅い瞳を見つめ返した。
ラビスは椅子から立ち上がり、テラスの木製の柵に小さな手をかけ、遠くそびえる険しい雪山を見つめた。
「ユウナ、マーリン。あんたたち、私がどうして母を殺されたあの日、王都を壊滅させた後、この国を完全に滅ぼさなかったか、考えたことはある?」
二人は言葉を失った。
当時の九歳のラビスが引き起こした魔力の暴走は、一晩で王都を灰にするほどのものだった。もし彼女がその気になれば、帝国そのものを地図から消し去り、新たな魔女の国を築くことも容易だったはずだ。
「……それは、復讐の虚しさを知ったからですか?」
マーリンが静かに尋ねる。
「ハッ、そんな殊勝な理由じゃないわよ」
ラビスは首を振った。
「あの夜、私は母を殺した兵士たちを、その命令を下した王族を、全て焼き尽くした。怒りのままにね。でも、瓦礫の中で一人立ち尽くした時、気づいてしまったの。私がここで帝国を完全に滅ぼせば、生き残った人間たちは、世界中の人間に『魔女はやはり、人類を滅ぼす悪魔だ』と言い散らす。そうなれば、世界中で、今以上の規模で『徹底的な魔女の根絶やし』が始まるってね」
ラビスの紅い瞳に、底知れない、歴史の重みが宿る。
「魔女が生き延びるためには、人間たちに『絶妙な恐怖』を植え付けておく必要があったのよ。生かさず、殺さず、滅ぼすのでもない。
『あいつらを本気で怒らせたら、国が一つ一晩で消える』
『だから、深追いはするな。手を出してはならない』
……そう思わせるための、絶対的な、不可侵の恐怖の象徴。それが、私が三十年間、世界中から呪われ、悪名を甘んじて受け入れ、演じ続けてきた『世界最悪の魔女ラビス』の真実よ」
ユウナは息を呑んだ。
彼女は、自分一人が「最悪の怪物」として世界から憎まれることで、まだ見ぬ同胞たちが生き延びるための、巨大な「盾」になり続けていたのだ。
「そんなの……悲しすぎるよ……」
マーリンがボロボロと大粒の涙をこぼした。
「たった九歳だったラビス様が、どうして、そんな重いものを一人で背負わなきゃいけなかったの……!」
「泣くんじゃないわよ、マーリン。私はこれでも、結構楽しく女王様を気取っていたんだから。それにね――」
ラビスはくるりと振り返り、今度はユウナを真っ直ぐに見つめた。
「ユウナ。あんた、自分がどうしてあの霧深い森に、赤ん坊として捨てられていたのか、その理由を知りたくない?」
ユウナの凪いでいた瞳が、微かに揺れた。
「私は……ただの捨て子だと、そう思っておりました。両親の顔も、自分がどこから来たのかも、考えたことはありません。私を拾って育ててくださったのは、ラビス様、貴女だけですから」
「ふふ、そうね。でも、あんたのその特異な『銀髪』と、私をも凌駕するほどの規格外の『精神魔法』の才能。それがただの偶然で片付くと思う?」
ラビスはそう言うと、慈しむような笑みを浮かべた。
「私の母クレアと共に戦った、たった百人の魔法部隊。その中に、母の右腕と呼ばれた、美しい銀髪の精神魔法使いがいたの。……彼女の名はエル。彼女もまた、帝国の卑劣な闇討ちによって、最期に殺された魔女の一人よ」
ユウナの喉が、こくりと鳴った。
「エルは殺される直前、まだ生まれて間もない自分の娘を、自らの命と『精神魔法の極致』を代償にして結界に封印した。彼女の肉体と精神の時間を、物理的に完全に停止させたのよ。いつか、魔女が平穏に暮らせる時代が来るまで、その幼い命を守るために。
……その封印が、長い年月の果てに、偶然か、それとも母たちの魂の導きか、十数年の時を経て解けた。あの霧深い森でね。
だからあんたは、あの時代に『赤ん坊』として現れたのよ。エルが命を賭して守り抜いた、奇跡の遺志として」
「――!」
ユウナは、自らの髪をそっと手で触った。
自分がなぜ銀髪なのか。なぜ、あれほど幼い頃から、ラビスの高度な精神魔法をスポンジのように吸収し、自らのものにできたのか。その全ての答えが、五十年前の悲劇の戦場に、自分を愛してくれた母親の祈りにあったのだ。
「あんたは捨てられたんじゃないわ、ユウナ。……世界で最も強い愛によって、守られて、私のもとへ届いたのよ」
ユウナの硝子のような瞳から、静かに、一筋の涙が頬を伝って流れ落ちた。
それは、自らの存在を肯定された安堵と、時を超えて自分を守ってくれた母への、言葉にならない感謝の涙だった。
ラビスはユウナの元へと歩み寄り、その細い腰に、子供の身体のまま、そっと抱きついた。
「そしてね、その孤独な旅の途中で……私はあんたに出会えた。母たちの絆が、私たちを繋いでくれたのよ。それだけで、私の三十年は、何一つ無駄じゃなかった」
ユウナは、自らの腰に抱きつく小さな師を、優しく、壊れ物のように抱き締め返した。
彼女の胸の奥から、言葉にならない温かな感情が、無限の魔力となって溢れ出す。
「ラビス様。貴女が背負ってきたその重すぎる盾を、今度は私たちが、共に支えます。そして、私を守ってくれた母エルの祈りに応えるためにも」
ユウナは、ラビスの紫の髪を優しく撫でながら、静かに、しかし決然と告げた。
「貴女はもう、一人で最悪の魔女を演じる必要はありません。この北の地には、貴女を愛し、守ろうとする仲間がこんなにもたくさんいるのですから」
「そうだよ、ラビス様!」
マーリンも涙を力強く拭い、胸を張った。
「人間たちが、まだ私たちの光を恐れて攻めてくるなら、私の風が、何度でもそれを追い返してみせる。ラビス様には、もうお城の特等席で、温かいお茶を飲んで笑っていてほしいの!」
ラビスはユウナの胸に顔を埋めたまま、小さな肩を微かに震わせた。
それは、三十数年間、誰にも見せることのなかった、最強の魔女の「安堵」の涙だった。
「……本当に、生意気な弟子たちね」
ラビスは顔を上げると、いつものように、しかしこれまでで最も美しく、不敵に微笑んだ。
「いいわ。なら、見せてあげなさい。人間たちに、私たちの新しい『楽園の力』を。
恐怖で縛る時代は終わった。これからは、私たちの『絆』が、この世界を優しく支配する番よ」
ユウナとマーリンは、深く、静かに一礼した。
北の空には、彼らの楽園を妬むかのような、新たな嵐の暗雲が立ち込め始めていたが、三人の魔女の心には、如何なる吹雪をも吹き飛ばす、永遠に消えない温かな灯火が、確かに灯っていた。




