新時代
安全保安局長グレイブの死は、オルテリア帝国という巨大で強固な支配の歯車を、完全に、そして劇的に沈黙させた。
翌朝、帝都の地下居住区や防空壕に避難させられていた数万の市民たちは、恐る恐る地上へと姿を現した。彼らの心を支配していたのは、かつて国の教育によって刷り込まれてきた「魔女がもたらす無差別な大虐殺」への恐怖だった。外に出れば、辺りは血の海と化し、家々は魔女の業火に焼かれているのだろうと、誰もが絶望に身を震わせていた。
しかし、彼らを出迎えたのは、あまりにも静謐な朝の光だった。
略奪もなければ、炎上する街並みもない。ただ、帝都の中心にそびえ立つ大理石の宮殿から、これまですべての民を監視し、縛り続けてきた安全保安局の冷酷な紋章旗が乱暴に取り外され、代わりに、静かに風に揺れる銀、金、紫の三色旗が掲げられているだけだった。
「終わったのね、本当に……」
マーリンが、静まり返る宮殿の白いテラスから、眼下に広がる帝都の街並みを見下ろして呟いた。
彼女が周囲に放つ風の結界は、今や帝都全域を優しく包み込み、怒れる暴徒や治安を乱すような混乱を未然に防ぐための、不可視の「目」として機能していた。風は街の温度を伝え、人々の安堵の溜息を彼女の元へと届けている。
「いいえ、マーリン。形ある組織や、グレイブという象徴は滅びましたが、長年人々の心に植え付けられてきた『魔女への恐怖』は、そう簡単に消え去るものではありません」
ユウナが、崩れかけた玉座の間にラビスを伴って現れた。その静かな佇まいは、昨日宿敵を葬った者とは思えないほどに穏やかで、一滴の血の匂いすら感じさせない。
「そうよ。支配者が消えたからといって、はい明日から手を繋いで仲良く暮らしましょう、なんてお花畑な展開にはならないわ」
ラビスは玉座の肘掛けに腰掛け、ぶらぶらと小さな足を揺らした。その目は、この国の未来を冷徹に見据えている。
「人間はね、自分たちとは異なる、理解を超えた強大な力を持つ者を、本能的に排除したがる不完全な生き物なの。私たちがこの帝都に居座り、支配者を名乗り続ければ、今度は国中の人間が『第二の魔女対策課』を秘密裏に組織して、私たちを排除するための泥沼の戦争に突入するだけよ」
マーリンは驚き、大きな青い瞳でラビスを見つめた。
「じゃあ、私たちはどうするんですか? せっかくグレイブを倒して、この国を私たちの手に取り戻したのに……。また森に逃げ帰るんですか?」
「取り戻す? 勘違いしないで、マーリン」
ラビスは悪戯っぽく微笑み、ユウナを見上げた。
「私たちは、この国を支配しにきたんじゃないわ。……歴史の歪みから、すべての魔女を『解放』しにきたのよ。支配という手段では、決して本当の平穏は得られない。それは、あの哀れなグレイブが身を以て証明してくれたでしょう?」
ユウナはラビスの言葉に深く頷き、その知性に満ちた紅い瞳を見つめ返した。彼女たちが辿り着いた答えは、力による屈服ではなく、もっと根本的な宿命の決別だった。
午後。帝都の中央広場には、何万人もの市民が、恐怖と困惑にその身体を震わせながら、水を打ったように集まっていた。
壇上に静かに姿を現したのは、銀髪の魔女ユウナ、金髪の魔女マーリン、そして、その中央に立つ紫髪の幼いラビスだった。
一瞬にして、ざわめきが広場を支配する。誰もが、彼女たちがこれから自分たちにどのような残虐な「報復」を始めるのかと身構え、息を呑んだ。子供を抱きしめる母親、腰の剣に手をかける元近衛兵。張り詰めた糸のような緊張感が漂う。
しかし、ユウナは静かに片手をかざし、その透き通った鈴のような声を、精神魔法を介して帝都にいるすべての民衆の脳内へと直接、優しく響かせた。
『オルテリアの市民たちよ。恐れる必要はありません。私たちは貴方たちを支配することも、奪うことも、傷つけることもしません。本日を以て、不当な魔女狩りを行う安全保安局は完全に解体され、魔女であることを罪とするすべての法は廃止されます』
民衆は呆然とした。耳からではなく、自らの心に直接届いたその声には、憎悪も、怒りも、傲慢さも微塵も含まれていなかったからだ。
『しかし、貴方たちが私たちを恐れ、怪物として憎む気持ちもまた、理解しています。恐怖は一朝一夕で消えるものではありません。だからこそ、私たちはここで、お互いの未来のために一つの『選択』を提示します』
ユウナの言葉に引き継ぐように、ラビスが一歩前に出た。その小さな身体から放たれる圧倒的な魔力の波動が、民衆の魂を平伏させる。
『私たちは、この帝都を去るわ。そして、この国の北部に広がる広大な未開の地――誰も近づこうとしない『永久凍土の森』を、私たち魔女の新しい自治領『ネーベル』として宣言する』
ラビスの紅い瞳が、何万もの民衆の視線を真っ直ぐに見据える。
『魔法の力を恐れ、ただの人間としての平穏を生きたい者は、この温かい帝都で新しい法を作り、自分たちの手で国を治めなさい。誰もそれを邪魔はしないわ。……だけど、もしも魔法の力を持ち、自分の居場所を見失って泣いている者がいるなら、いつでも北の森へ来なさい。そこは、私たちが作った、魔女が魔女として、一人の人間として息を吸える、たった一つの楽園よ』
それは、支配でもなく、服従でもない、人間と魔女との明確な「住み分け」の提案だった。
かつて最愛の母クレアを殺され、すべてを焼き尽くすことでしか自らの怒りを示せなかった九歳のラビスが、ユウナとの長い旅を経て、そしてマーリンたちとの温かな出会いを経て辿り着いた、最も賢明で、最も慈悲深い解決策だった。
民衆の間から、ぽつり、ぽつりと、嗚咽のような泣き声が漏れ聞こえ始めた。それは、長い支配と恐怖の連鎖から、自分たちもまた解放されたのだと理解した瞬間の、安堵の涙だった。
その日の夕方。
黄金色に染まる帝都の美しい夕日を背に、ユウナ、ラビス、マーリンの三人は、早くも帝都の頑丈な北門をくぐり、荒涼とした北の荒野を見上げていた。
「よかったの? ラビス様。あんなにあっさりと、帝都のきらびやかな宮殿を人間に明け渡しちゃって。世界最強の魔女なんだから、女王様にだってなれたのに」
マーリンが、名残惜しそうに遠ざかる帝都の影を振り返りながら、少しだけ寂しそうに尋ねる。
「いいのよ、あんな退屈な石畳の街。私たちが作った温かい結界に守られた森の方が、よっぽど空気も美味しいし、土に眠る魔力も豊かだわ。それに、人間たちの視線に一喜一憂する生活なんて、もう真っ平ごめんだわ」
ラビスはユウナの隣を歩きながら、フンスと鼻を鳴らした。
「マーリンさん、これでいいのです」
ユウナが、前方を歩くラビスの背中を見つめながら、優しい微笑みを浮かべる。
「私たちは、かつての帝国と同じ『恐怖による支配』を繰り返してはなりません。人間たちに『自分たちの力で生きる機会』を与え、私たちは私たちの愛する居場所を守る。これこそが、魔女と人間が未来へと共存するための、唯一の道なのですから」
「そっか……そうだよね。あ、それなら、北の森に着いたら一番に、私の風の魔法で、とびきり大きくて、綺麗な木の家を作らなきゃ! 暖炉もたくさん作ってさ!」
マーリンがいつもの明るい笑顔を取り戻し、風をパタパタと踊らせて楽しそうに笑う。
「それは期待しているわ、マーリン。風避けだけは頑丈に作りなさいよ。……それからユウナ、私の今日の夜ご飯は、少しはマシなものを期待していいかしら? 私ももう五歳よ」
「ラビス様、五歳になられたとはいえ、内臓の成長はまだ発展途上です。少しだけ塩とハーブで味付けをした、温かいおじや程度で妥協してください」
「くっ……この不便な肉体、やっぱりやべーわね……。早く大きくなって、最高級の肉とワインを楽しみたいものだわ」
三人の楽しげな笑い声が、北の荒野に吹く冷たい風に乗って、遥か彼方へと響いていく。
宿敵との決戦を終え、彼女たちが目指すのは、本当の楽園の創設。
しかし、新しい地での生活には、新たな課題や、魔女を頼って集まる同胞たちとの絆、そして依然として残る人間たちの警戒心が、完全に消え去ったわけではなかった。それでも、彼女たちの足取りは、どこまでも軽やかだった。




