■ 第六章:すれ違い、狂人の自覚
学校という退屈なシステムをいかにして最小限の労力で攻略するか。その一点において、私の日常は極めて合理的かつ無機質に再構築されていた。
元来、運動部で汗を流すような青春のイベントに費やす時間など、今の私には一秒たりとも存在しない。東大をはじめとする難関国公立の受験対策、司法試験の過去問演習、そして将来のインフラを構築するための株や音楽著作権のマネタイズ。それらの膨大なインプットとアウトプットを並行してこなすためには、学校生活の時間の使い方は徹底して効率化されなければならなかった。だからこそ私は、かつてなら選ぶはずもなかった「化学部」へと籍を置くことにした。実験室の片隅で静かに薬品の調合や理論の構築に没頭するほうが、無駄な人間関係に縛られる運動部よりもはるかに有意義だったからだ。
そして、その選択の裏には、もう一つの極めて重要な計算があった。
――予想通り、彼女は体操部に入ったようだった。
校庭の隅や体育館の裏手から聞こえてくる、部活動に励む生徒たちの賑やかな喧騒。その微かな気配を感じ取りながら、私は静かに思考する。歴史の大きなうねりや社会の構造を不必要にいじくり回すつもりは毛頭ない。大局的な歴史の改変はリスクを生むだけだ。しかし、私一人の所属部活を変える程度の極めて局所的な細波であれば、世界という巨大なシステムに波紋を立てることもまいだろう。すべては、あの「たった一つのもの」へと至るための、計算し尽くされた配置にすぎなかった。
――だが、その計算の裏で、私は常に自分自身に問いかけていた。
なぜ、私は彼女と同じ部活を選ばなかったのか?
化学部を選んだのは、確かに効率性の観点からだった。運動部に所属すれば、無駄な人間関係や練習時間にリソースを割かれる。しかし、それだけが理由だったのか?
――違う。私は、彼女と同じ空間にいることを、恐れていたのだ。
彼女の現在を、あまりに近くで見てしまうことを。もし彼女と同じ部活に入り、毎日彼女の姿を間近で見ることになれば、私はおそらく、彼女への執着を制御できなくなる。彼女の一挙一動を観察し、彼女のすべてを把握しようとし、そして――彼女が私の記憶の中の彼女と少しでも違っていたら、そのギャップに耐えられなくなる。
私は、彼女を「記憶の中の彼女」として固定しておきたかったのだ。美化された、理想化された、過去のフィルターを通して見た彼女。その彼女は、安全だ。その彼女は、私を裏切らない。その彼女は、私の想像の中で、いつまでも美しいままだ。
――しかし、現実の彼女は、生きている。成長する。変わっていく。
その事実が、私には恐ろしかった。
そんなある日のことだった。
放課後の廊下を、私は参考書を抱えながら歩いていた。西日の差す窓際、喧騒から少し離れた静かな一角。向こう側から、小さく軽やかな足音が近づいてくる。
ふと顔を上げた私の視線の先に、彼女の姿があった。
――幼いな。
それが、何十年もの時間を経て老いて死んだはずの男が、十代の肉体を通して抱いた最初の、そして極めて冷静な感想だった。考えてみれば当たり前のことだ。私自身がいくら頭の中で過去の老練な記憶や冷徹な知性を保持していようとも、今の彼女はまだ、小学校を卒業したばかりの、純白のキャンバスのような中学一年生にすぎない。身体の線も細く、あどけなさが残るその横顔は、私が人生の終焉間際に脳裏に焼き付けていた「あの記憶の姿」とは、当然ながらまだ大きな隔たりがあった。
――だが、その「隔たり」こそが、私の心臓を締め付けた。
彼女は、私の記憶の中の彼女ではなかった。もっと幼く、もっと無防備で、もっと――現実的だった。彼女の制服の襟は少し歪んでいた。彼女の髪は、風で少し乱れていた。彼女のスニーカーの靴紐は、片方だけ緩んでいた。
それらの「完璧でない部分」が、彼女を「生きた人間」として、私の前に立たせていた。
すれ違いざま、彼女はふとこちらに視線を向け、戸惑ったように小さく会釈をした。その無防備な眼差しを受け止めながら、私の脳内では瞬時に冷徹なデータ分析が行われる。
「ん……? そうか、よく考えれば、私がこれまで知っていたのは、人生の端々で遠くから見つめていた、あるいは失意の中で思い返していた『あの頃の彼女』だったんだな」
かつては絶望的に遠く、そして手に入らなかったからこそすべての色彩を奪っていったその存在。しかし、こうして同じ時間軸の中学校という空間に引き戻してみれば、目の前にいる彼女はまだ、これから世界を知る途上の少女でしかなかった。
「さすがに、大人の心と記憶を持つこの中身のまま、中学一年生の彼女に対して……どうこうしようという気にはならないな。少なくとも、今の彼女に対しては、大人の男としての食指は全く動かない」
それは欲望の欠如ではなく、圧倒的なまでの客観的事実の確認だった。
――しかし、その直後に、私は別の感情が胸の奥から湧き上がるのを感じた。
愛おしい。やはり、私の初恋は間違っていない。
この幼い、無防備な、まだ何も知らない彼女を、私は愛おしいと思った。それは、性的な欲望とはまったく次元が異なる感情だった。むしろ、保護欲に近い。いや、それ以上に――私の所有欲というのが正しいのかもしれない。
彼女を、このまま、何も知らないままで、私だけのものにしたい。彼女が他の誰かに影響を受け、他の誰かに笑顔を向け、他の誰かに心を開く前に、私が彼女の世界のすべてを占有してしまいたい。
――その感情が、私の中で、冷たく、しかし確かに燃え上がった。
私は、その感情を自覚した瞬間、自分がやはり狂人であることを再確認した。正常な人間は、中学生の少女に対して、こんなにも歪な所有欲を抱かない。しかし、私は正常ではない。私は、数十年の後悔と執着を抱えた老人の精神を持つ、十代の怪物だ。
振り返ってみれば、私はこれまでの人生において、数え切れないほどの浮名を流してきた。出会いと別れを繰り返し、およそ百人ほどの女性たちと関係を持ち、付き合ってきた記憶がある。中には一晩限りの関係で終わった者もいれば、一時は深く心を通わせた者もいた。そして、恋が愛に変わる瞬間も、何度か経験した。
愛とは、相手の幸せを願うことだ。相手が自分を選ばなくても、相手が幸せならそれでいいと思うことだ。それが、私が幾度かの愛を通じて学んだ「愛の定義」だった。
――しかし、今の私が彼女に抱いている感情は、その定義からはあまりにも遠かった。
私は、彼女の幸せを願っている。しかし、それは「私とともにいること」が前提だ。私は、彼女が自分を選ばなくても幸せならそれでいいとは思えない。彼女が私を選ばない未来など、想像しただけで胸が引き裂かれる。
これは、愛ではないのかもしれない。これは、強欲だ。執着だ。狂気だ。
――だが、それでも、私はこの感情を手放せなかった。
いや、手放せないのではない。手放すという選択自体を醜悪に、禍々しく、自分勝手に拒否していたのだ。
「しかし……さすがに、幼すぎるか」
廊下の向こうへと遠ざかっていく彼女の小さな背中を見送りながら、私は冷ややかに、しかしどこか落ち着いた足取りで歩き始めた。
年齢のギャップ。経験の非対称性。
そんな状態で、かつて大人の世界で磨いたような口説き文句や、計算ずくの甘い言葉をこの中学一年生の彼女に向けて使ってみろ。そんなものを仕掛けたところで、それは恋愛ではなく、ただの不気味な精神的搾取であり、滑稽な茶番に成り下がるだけだ。大人のアプローチをここに持ち込むのは、あまりにも野暮というものだった。
「慌てる必要はない。時間はいくらでもある」
経済の基盤を固め、社会的な防壁を築き、彼女が大人としての自我を芽吹かせ、私と対等に言葉を交わせるようになるまでの距離を、着実に、そして完璧に詰めていく。
私はあえて、何もせず、ただ静かに「待つ」ことに決めた。
――しかし、その「待つ」という選択が、実は最も残酷な行為であることを、私は自覚していた。
私は、彼女が成長するのを待つ。彼女が私を「対等な存在以上」として認識するようになるのを待つ。その間、私は彼女を観察し、彼女の変化を記録し、彼女のすべてを把握し続ける。
これは、待つことではなく、観察することだ。監視することだ。所有することだ。狂気であることは承知している。しかしこれは、これこそが私の願望なのだ。
私は、彼女の自由を奪っていない。しかし、彼女の自由を、私の都合のいいタイミングでしか認めていない。彼女が私を選ぶことも、選ばないことも、その自由は彼女にある。しかし、私は彼女が「選べる年齢」になるまで、彼女の選択肢を狭め続けている。
――これが、狂人の愛というものか。
私は、自嘲の笑みを浮かべながら、廊下を歩き続けた。
彼女の背中は、もう見えなかった。しかし、彼女の存在は、私の意識のすべてを占めていた。
西日が傾きかけた放課後の校舎に、私の足音だけが静かに、冷徹に響いていた。
完璧な箱庭の主となるための時間は、まだ始まったばかりだ。
――だが、私は知っていた。この箱庭が完成したとき、私は彼女を「所有」するのだろう。そして、その所有が、本当の愛ではないことも、知っていた。
それでも、私は止められなかった。
なぜなら、私は狂人だからだ。そして、狂人であることを自覚している狂人は、もはや戻れない場所に立っている。




