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■ 第五章:金はあったほうが良いだろう、そして彼女は幼い

受験勉強という知的な遊戯の合間を縫うようにして、私は本格的な実務的準備に取り掛かった。生きていくため、そして計画を完璧に遂行するためには、やはりある程度以上の金はあったほうが良い。権力や名誉など無意味だが、資本は絶対的な防壁になる。


株式市場の動向、これから訪れるバブルの崩壊と、その後に来る長い停滞期。そうしたマクロ経済の波を冷静に分析し、最小限の手間で最大限の果実を得るための株の勉強を並行して進める一方で、私はもう一つの確実なマネタイズ手段に思い至っていた。


――作詞と、そして作曲だ。


世の中には才能あるアーティストが星の数ほどいるが、私にあるのは彼らがまだ誰も知らない「未来に大ヒットすることが約束された膨大な楽曲のデータベース」だった。かつての人生で、酒に酔いながら、あるいは暇つぶしにカラオケの画面を見つめながら口ずさんでいた数々の名曲たち。それらのメロディと歌詞は、私の脳裏に鮮明に焼き付いている。


「早い者勝ち、というわけか。申し訳ないが、未来の本当の作者たち。先を越させて頂くよ、ごめんな」


口の端で小さく笑いながら、私は自分の思考のずるさを自嘲した。だが、倫理観の呵責など微塵もない。私にとってこの世界は、あの「たった一つのもの」を取り戻すための舞台装置でしかなく、他人の才能の先取りなど、目標達成のための些末な手順にすぎなかった。


――だが、ふと、私は考えた。


私は今、数十年前の過去に戻り、十三歳の肉体を手に入れた。しかし、精神は老いている。数十年の人生を生き、百人を超える女性と関係を持ち、愛し、傷つけ、傷つき、そして死に接した老人の精神が、この瑞々しい十代の肉体に宿っている。


そして、彼女は――まだ幼い。幼すぎる。


中学生。少女。これから世界を知り、自分という存在を形成していく、まさにその途上にある。


私は、その彼女を愛しているのか?

それとも、私の記憶の中にしか存在しない「かつての彼女」 を愛しているのか?

もし今、目の前に彼女が現れ、私のすべてを知ったとしたら、彼女は私を「気持ちの悪い老人」と思うのではないか?


その思考は、私の冷徹な計算の合間に、蛇のように忍び寄った。


しかし、私はその思考を押し殺した。いや、正確には、狂気という名の鎧で覆った。


――いいだろう。もし私が老人の精神で彼女を愛しているのなら、その愛は純粋なのかもしれない。なぜなら、老人の愛は、若者のような情熱や欲望ではなく、もっと深く、もっと歪で、もっと永続的で、そして恐らく狂気の執着だからだ。


私は彼女に、若い男が求めるような「美しい少女」としての価値を求めているわけではない。彼女に求めているのは、彼女という存在そのものだ。彼女の影、彼女の孤独、彼女の鋭い目つき、彼女が誰にも見せない内面。私は、それらすべてを、数十年という時間をかけて、夢に見続けてきた。

ただし、私にとって、かつての彼女は美しかったのだ。他の誰よりも、過去の人生で私の隣で過ごした数多の女性達よりも、圧倒的に。そう、圧倒的にだ。


そう考えると、むしろ老人の精神で彼女を愛することは、ある種の純粋さかもしれない。若い肉体に宿る欲望は、確かに彼女に向かない。彼女は幼い。私は、彼女に対して欲情しない。そのことは、以前も確認できていた。しかし、欲情しないからこそ、私の愛はより本質的なものになる――そう、私は自分に言い聞かせた。


――だが、それは本当に「愛」なのか、それとも「執着」なのか?


その問いに答えることは、私にはできなかった。


しかし、楽器演奏の技術を身につけるという現実的な問題に、私は意識を戻した。未来のヒット曲のメロディや歌詞の記憶は完璧にある。だが、昔の、未来の、そして今の私には「それを形にして楽器で演奏し、譜面に起こすための具体的な技術」が決定的に欠けていた。つまり、ここで必要なのは頭の中のアイデアではなく、肉体的なフィジカルの訓練、すなわち楽器演奏のスキルだった。


思い立ったら行動は早い。私は全日本メンサの護符など放置して、世間を欺くための「事故後の気まぐれ」として、地元の小さな楽器店へと足を運び、手頃なアコースティックギターを現金で買い求めた。


自室に戻り、真新しいギターの箱を開ける。

塗装の匂いが鼻をつくその木製のボディを抱え、私はスチール製の弦にそっと指を触れた。

コードを押さえる左手の指先に、最初のうちは鋭い痛みが走る。硬い弦に皮膚が擦れ、わずかに血がにじむような感覚もあった。しかし、十代半ばという肉体の若さと、神経の圧倒的な反射速度は、私の想像を遥かに超えて素直だった。かつては不器用にしか動かなかった指が、効率的な練習の積み重ねによって、驚異的な速度でコードの押さえ方、リズムの刻み方、ピッキングの精度を習得していく。


脳裏に鮮明に残る平成初期から平成後期にかけてのミリオンセラーたちのメロディライン。それと、時代の向こう側にあるキャッチーな詩の断片。それらをギターの音色と結びつけるのに、時間はほとんどかからなかった。


――ギターを弾きながら、私はふと彼女を想像した。


もし彼女が、この曲を聴いたら、どう思うだろうか。彼女は音楽を好むだろうか。彼女は、歌詞の意味をどう解釈するだろうか。彼女は、このメロディに何を感じるだろうか。


――彼女はまだ、この曲を知らない。この曲が生まれるよりも前に、彼女は生まれているが、この曲がヒットする未来を知らない。


私は、未来の彼女が好きだったかもしれない曲を、未来の、しかし私にとっては過去の彼女に聴かせるために、この曲を書いている。その考えは、あまりにも歪で、そしてあまりにも哀れだった。


株のチャート分析によって導き出した未来の投資戦略と並行し、私は夜な夜な自室で黙々と五線譜に音符を落とし込んでいく。

未来の記憶という、誰にも破ることのできない絶対的なアドバンテージを換金していくこの作業は、複雑なパズルを解くように、あるいはあらかじめ結末の決まったゲームの攻略法をなぞるように、恐ろしいほど滑らかに進んだ。数年後に日本中のラジオやテレビから流れ、あらゆる人々を熱狂させることになるフレーズや詩の断片が、私の手によって次々と現実の形へと変換されていく。


「――これだけで、恐らく得られる莫大な印税収入と、最小限の株取引による手堅い利益があれば、当座の資金としては余りあるほど十分すぎる」


机の上に積み上げられた譜面の束を見下ろしながら、私は冷めた思考でそう結論づけた。

世間の人間のように、大金持ちになってフェラーリを乗り回し、夜の街で豪遊して世界を牛耳る気など、最初から一片たりともなかった。私が求めているのはそんな表層的な栄華ではない。

ただ、将来の生活基盤を誰にも脅かされないレベルで完全に盤石にし、あの「たった一つのもの」を必ずこの手元へと迎え入れるための、丘の上の静かな土地と、完璧に外部から隔離された三軒分の敷地に建つ広い家。そして、その日常のインフラを半永久的に維持し続けるための燃料。それさえ手に入るのであれば、金などというものは、ただの数字の羅列にすぎなかった。


――しかし、ふと、私はギターを置き、窓の外を見た。


月明かりが、街を静かに照らしている。彼女は今頃、寝ているだろうか。彼女は、どんな夢を見ているだろうか。彼女の夢に、私は出てくるだろうか。いや、出てくるはずがない。彼女はまだ、今の私のことを何も知らないのだから。


私は、その事実を、何度も何度も反芻した。

彼女は私を知らない。

彼女は、私が彼女を何十年も想い続けてきたことを知らない。

彼女は、私が彼女のために司法試験を受け、資産を築き、未来の災害を回避しようとしていることを知らない。

彼女は、ただ、同じ中学校に通う「ちょっと変わった同級生」として、私を認識しているだけだ。


――その非対称性が、私を狂わせる。


私は、彼女にすべてを知ってほしい。しかし、知られたら、彼女は私から逃げるだろう。私は、彼女に近づきたい。しかし、近づけば近づくほど、私は彼女の「現在」を壊してしまうかもしれない。


私は、このジレンマを解決するために、金を稼ぎ、資格を取得し、社会の防壁を築く。そうすることで、彼女に近づくための「正当な理由」を作り出そうとしている。


――しかし、それは本当に、彼女のためなのか?


私は、自分のために、彼女を欲しているだけではないのか?

彼女の幸せよりも、自分の執着を満たすために、彼女を手に入れようとしているだけではないのか?


その問いが頭をよぎるたびに、私はギターの弦を少し弾き、その音で思考を打ち消した。


「……考えるな。行動しろ。考えることは、狂人の特権だ。」


私は、そう自分に言い聞かせ、再び五線譜に向き合った。


そこまでの計算を終えると、私はギターケースをカチリと音を立てて閉じ、まだ全てを一読、二読しただけの机の上の六法全書と難関大学の赤本へと、再び冷ややかな視線を戻した。


音楽の才能の先取りという、世間から見れば強烈すぎるカードですら、私の目的を果たすための単なる一手段、通過点にすぎない。

西神中央の静寂へと至るための準備は、誰に気づかれることもなく、着々と、そして恐ろしいほどの冷徹さで進められていくのだった。


――だが、その夜、私は夢を見た。


彼女が、大人になった姿で、私の前に立っていた。彼女は、私の目をまっすぐに見つめ、こう言った。


「あなたは、私のことを、本当に愛しているの? それとも、あなたの記憶の中の私を愛しているの?」


私は、その問いに答えることができなかった。


目が覚めたとき、私の頬は、涙で濡れていた。


――私は、老人の精神を持つ子供だ。そして、その子供は、幼い少女を愛している。その愛は、純粋なのか、それとも狂気なのか。その答えを、私はまだ知らない。


しかし、私は知っている。この問いに対する答えは、おそらく、この狂気じみた私自身の人生の物語の最後にしか見つからないということを。



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