■第四章:勉強の時間と彼女を想う時間
「さてと、勉強だな。東大から全部の国公立の大学試験勉強。それに、ついでと言ってはなんだが司法試験も可能な限り受けてみようか。若く瑞々しい頭脳というものは、驚くほど効率よく情報を吸収してくれるというからな」
私はまず週に一冊というペースを自分に課し、全国の難関大学の赤本を祖父や両親にねだり、その中でも特に難解とされる理系・文系の最高峰から順番に総なめにしていくことに決めた。司法試験の対策本や過去の判例集など本格的な難関試験への本格的な着手は、この基礎固めが終わった来年でも十分に間に合う。いや、同時並行が良いだろうか?
自室の机の上に幾重にも積み上げられた、分厚い過去問の山を前にして、私は静かに鉛筆を手に取った。
前世で蓄積し尽くした老練な記憶のデータベースと、周囲の人間が勝手にありがたがって神格化してくれた「事故による急激な知能の覚醒」という都合の良いフィクション。その二つを背景の看板として背負っていれば、これから脳内に流し込むあらゆる知識のインプットは、単なるデータのファイリングや整理作業にすぎない。どれほど複雑怪奇な難解な数式も、何百条にもわたる膨大な法律の条文も、私の冷徹に最適化された脳内では一瞬でカテゴリ分けされ、淀みなく整理されていく。
――だが、それは表向きの話だ。
実際のところ、私の鉛筆が走る速度は、彼女を想う時間の密度に比例していた。
どういうことか。私が難解な数式を解けば解くほど、その空白の時間に彼女の横顔が浮かぶ。数学の二次関数のグラフを描きながら、私は彼女のあの鋭い目つきを思い出す。英文法の構造を解析しながら、私は彼女がもし英語を話したらどんな声だろうと想像する。憲法の条文を暗記しながら、私は彼女が法律をどう解釈するだろうかという無意味な空想にふける。
――つまり、私は勉強をしているのではなかった。
私は彼女を想いながら、その想いを誤魔化すために勉強をしていたのだ。
東京大学をはじめとする全国の主要な国公立大学の二次試験の問題など、かつての記憶の断片を引き出しながら組み立て直すパズルを解くようなものだった。世間の受験生たちが人生の数年間を捧げ、血眼になって挑む受験勉強という名の荒波を、私はただの基礎体力をつけるための退屈なウォーミングアップのように淡々と、そして圧倒的な速度で消化していく。
――だが、その速度は、彼女への想いを逃がすための速度でもあった。
もし私が立ち止まれば、彼女の姿が明確に、そして苦しいほど鮮明に脳内に浮かんでくる。あの春の日の教室、窓際の席、彼女の横顔、風に揺れる髪の先、そしてあの――何かを言いそうで止めた、あの微かな口元の動き。
それを思い出すたびに、私の心臓は、数十年という時間を超えて、まだ小学生だったあの日の鼓動を取り戻す。
だから私は、止まらない。
鉛筆を走らせ、ページをめくり、問題を解き続ける。そうすることでしか、彼女への想いを、理性的な「計画」という形に変換して処理することができなかった。
「――ふむ、こんなものか」
一冊の分厚い赤本を解き終えると、私はそれを雑に机の端へと放り出し、すぐさま次の大学の冊子へと手を伸ばす。
司法試験に向けた膨大な六法全書や、過去数十年分の論文試験の過去問も、来年のスケジュールに確実に組み込むための予定表のひとコマにすぎない。法律の条文のスキマを読み解き、過去の判例が持つ論理の構造を完全に把握することは、将来的に私自身の足元を誰にも揺るがせないレベルで固め、盤石な社会的・経済的インフラを構築するための大切な作業の一環だった。
――だが、その作業のすべてが、彼女のいない時間を埋めるための、ただの砂時計だということを、私は知っていた。
私はふと、鉛筆を置き、机の隅に置いた小さなノートを開いた。
そこには、彼女の名前が何度も何度も、同じ文字で、しかし毎回異なる筆跡で書き殴られていた。私は彼女の名前を書くたびに、その文字の形を変えていた。丸みを帯びた字体、鋭角的な字体、流れるような字体を崩した筆記体――あたかも、彼女の性格の多面性を、文字で表現しようとしているかのように。
これは、私だけの秘密の儀式だった。
誰にも見せない。誰にも知られない。ただ、彼女を想うという行為を、物理的な形に変換するための、歪な手段。
私はそのノートを閉じ、机の引き出しの最も奥深く、メンサの合格通知書の上に仕舞い込んだ。そこは、私の狂気が眠る聖域だった。
外の世界では、春の暖かい風が窓ガラスを揺らしている。誰もいない静まり返った自室で、私は鉛筆を数本削り、未来の防壁を築くための果てしない法的思考の旅へと、単身足を踏み入れたのだった。
――だが、どれほど効率的に世間のあらゆる知識を我が物とし、どれほど圧倒的な実績や肩書を積み上げようとも、私の意識の深層に焼き付いたその目的だけは、一ミリたりともブレることはなかった。
東大もしくは、私の住む地域の国立大学の合格も、最年少クラスでの司法試験の突破も、社会的な信用を得るための無機質な肩書も、すべてはあの過去の記憶の中で取り逃し、すべての色彩を失わせた「たった一つのもの」を再びこの手元へと引き寄せ、私が用意した完璧な箱庭のなかに永遠に迎え入れるための、ほんの小さな通過点でしかなかった。
深夜の静まり返った自室で、未来に作られるLEDではなく、蛍光灯のスタンドライトの光だけを頼りに、私はただ淡々と、未来をたぐり寄せるようにページをめくり続けた。
――そのページの合間合間に、彼女の横顔が、一瞬だけ、幻のように浮かんで消える。
私はその幻を追いかけるために、さらに鉛筆を走らせた。彼女の姿が鮮明になるほど、私はより多くの問題を解かなければならなかった。なぜなら、彼女の姿が明確になればなるほど、私は現実の彼女に会いたくなり、その衝動を抑えるために、より多くの知識を詰め込む必要があったからだ。
これは、自己矛盾の極致だった。
彼女を想えば想うほど、彼女から遠ざかる。彼女に近づくための準備をすればするほど、彼女との時間を先延ばしにする。まるで、無限に続くループのような、そんな自己完結した狂気のサイクル。
――それでも、私は止められなかった。
ある夜のことだ。午前二時を回った頃、私はふと手を止め、窓の外を見た。月明かりが、外の桜の木を銀色に染めている。その光景が、なぜか彼女を思い出させた。彼女は、こんな夜の光をどう見るだろうか。彼女は、月を見て何を思うだろうか。
私は、彼女の思考を、彼女の感情を、彼女の世界を、知りたかった。
だが、そのためには、まず自分が彼女に「知られる」存在にならなければならない。そのためには、社会的な信用と経済的基盤が必要だ。そのためには、司法試験に合格し、大学を飛び級で卒業し、バブル崩壊前に資産を築かねばならない。
――そうして、私は永遠に、彼女に近づくための遠回りを続ける。
それが、私という人間の、おそらく最大の悲劇であり、同時に唯一の幸福だった。
「……今夜は、ここまでにしよう」
私は鉛筆を置き、机の上に広がった膨大なノートと参考書の山を、冷ややかな目で見渡した。
明日も、また同じ日が来る。彼女のいない時間を、知識という名の砂で埋めながら。
そして、いつかその砂の山が、彼女を迎え入れるための土台になることを、私は静かに信じていた。
――半開きの机の引き出しの中で、彼女の名前が書かれたノートが、月明かりに照らされて、淡く光っていた。




