■第三章:メンサという護符、そして空白
事故をきっかけに演出された「頭部外傷後の覚醒」という、世間一般の人間が好む都合の良い誤解は、私の目論見通り、学校や社会からのあらゆる無駄な干渉を綺麗に消し去ってくれた。
教師たちは私を以前とは違う「特別で扱いづらい存在」として視線を逸らし、両親は腫れ物に触るかのように私を丁重に扱い、同級生たちはその不可解な変化に気圧されて自然と距離を置いた。――上等だ。その圧倒的な孤立こそが、当時の私が何よりも望んでいた環境だった。無駄な人間関係や、中学生特有の空虚な同調圧力に割くリソースなど、今の私には一秒たりとも存在しない。
――いや、正確には。
私は、彼女以外の人間との関係に、一切の本気のリソースを割く気がなかったのだ。
彼女以外の同級生たちが、私を「変わったやつ」として距離を置くことに、私はむしろ感謝していた。彼らが私に話しかけてこなければこないほど、私は自分の内面に沈潜し、あの日の彼女の横顔を反芻する時間が増える。それは苦痛ではなく、むしろ甘美な贖罪の時間だった。
高校という退屈な檻を半ば飛び級のような特例の形で通過し、社会的な摩擦を極限まで最小限にするためには、凡人どもが逆らうことすら忘れるような「分かりやすい圧倒的な権威」が一つ必要だった。
だから私は、十二歳という、まだ社会の仕組みすらろくに分かっていないはずの年齢で、ひっそりと、しかし確実にあの一枚のカードを手に入れた。
「全日本メンサ」の合格通知書。
元々メンサには簡単に入れるだけの知能は、確かに持っていた。幼稚園児の時のIQ測定の結果は「親が呼び出される」程の何かだったのだろう。記憶には無いが、親がそう言っていた覚えはある。
郵便受けから抜き取った分厚い封筒を自室に持ち帰り、そこから取り出したそのプラスチック製のカードを、私はデスクのスタンドライトの光の下で冷ややかに見つめる。
世間の一般常識にとらわれた人間からすれば、それは「選ばれた天才の証明」であり、テレビの向こうの出来事のような驚愕と畏怖の対象なのだろう。もしこれがメディアの知るところとなり、雑誌やニュースで取り上げられれば、周囲の人間は「あの事故で頭が覚醒した奇跡の神童だ」と、勝手にドラマチックな物語を補完し、私の持つ異質性を納得するための便利な免罪符としてありがたがるに違いない。人間とは、自分には理解できない存在に出会ったとき、他人が用意した分かりやすいラベルに飛びつく生き物なのだから。
だが、当の本人である私からすれば、そんなものはただの「防壁」にすぎなかった。
――いや、防壁であると同時に、彼女への近づき方を誤った自分への罰でもあったかもしれない。
私はふと、そのカードを光にかざしながら、自嘲の笑みを浮かべた。
メンサという権威は、確かに私を社会のノイズから守ってくれる。しかしその一方で、このカードは「私は普通の人間ではない」という証明書でもある。彼女がもしこのカードの存在を知ったら、どう思うだろうか。彼女は、私を「理解できない存在」として遠ざけるだろうか。いや、恐らく彼女も私と同類のギフテッドなのだろう。それでも――。
いや、考えるのは早すぎる。
私はその思考を、冷徹に打ち消した。今の彼女はまだ中学生だ。私のこのカードの意味を理解できる年齢でもないし、理解する必要もない。私がすべきことは、彼女が高校生になり、対等に言葉を交わせるようになるまでの時間を、ひたすらに埋めることだけだ。
「これで十分だな」
独り言のように呟きながら、私は冷めた目を向ける。
将来的な株の取引や、時代を先回りした社会構造の予測、あるいはこれから待ち受けるであろう様々な法的な手続きの際に、周囲から「若造が何を調子に乗っている」「大人を舐めているのか」といった、低俗で無駄なノイズを完全に排除するためだけの、ただのペーパーテストのスコア。己の知能を誇示したいなどという、プライドばかりが高くて中身のない低俗な目的に使うつもりは最初から微塵もない。これは、あの過去の記憶の中で取り逃し、すべての色を失わせた「たった一つのもの」へと至る道を、誰一人として邪魔させずに踏破するための、硬質で冷たい護符なのだ。
――だが、護符であると同時に、このカードは私の孤独をより深くするものでもある。
メンサの会員証を手にしたことで、私はますます「普通の人間」から遠ざかった。知られたなら、同級生たちは私に近づかない。そして教師たちは私を敬遠する。両親でさえ、私にどう接すればいいのか分からないはずだ。
この世界で、私の孤独を理解できるのは、おそらくあの少女だけだ。あの窓辺で、誰とも話さず、ただ外の作りかけの校庭を見つめていた彼女だけが、私のこの歪な魂の在り方を、言葉にできなくても感覚的に理解できるはずだ。
そう信じている。いや、信じたいのだ。
窓の外に広がる、夕暮れから夜へと移り変わる曖昧な空の色を見つめながら、私はその合格通知書をデスクの引き出しの最も奥深くへと仕舞い込んだ。
経済の基盤を支えるための布石、社会的な信用を担保する肩書、そして周囲の無駄な思考をあらかじめ停止させるための強力な免罪符。
目的を完遂するための準備は、着々と、しかし恐ろしいほどの精度で整いつつあった。
――ただ、そのすべてが、彼女のいない時間を埋めるための砂時計にすぎないということを、私は自覚していた。
メンサという護符は、私を社会から守る。しかし、彼女との距離を縮めるための道具ではない。むしろ、その距離をより明確にするための標識のようなものだ。
私は、このカードを手にすることで、自分が彼女と「恐らく同じ世界」にいることを、より強く自覚するようになった。そして、この事は知られるべきことでも無いだろう。
それでもいい。
私は彼女と同じ世界に立つために、このカードを使うのではない。彼女を、私の世界に迎え入れるために、このカードを盾にするのだ。
誰にも邪魔されない。誰にも干渉されない。
完璧な箱庭の主となるための時間は、まだ始まったばかりだ。
――彼女は今頃、あの教室で、何を考えているだろう。
その問いを、私は何度も何度も繰り返しながら、夜の闇に溶けていく街灯の明かりを見つめていた。メンサの合格通知書が収まった引き出しの奥で、私の孤独と執着が、静かに、しかし確実に熱を帯びていた。




