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■ 第三十一章(最終章):「たった一つのほしいもの」

あれから、長い時間が経った。


窓の外の景色は、何度も変わった。桜が咲き、夏の日差しが降り注ぎ、紅葉が舞い、雪が積もる。その繰り返しが、静かに、しかし確かに、年月を刻んでいった。庭の木々は大きく成長し、かつては小さかった子供たちは、やがてこの家を巣立っていった。私は、彼女と共に生きた。付き合い、結婚し、子供を作り、そして――幸せになった。


それは、かつての人生で手に入れられなかったものだった。数十年の後悔と、死の間際に脳裏をよぎった彼女の横顔。そのすべてが、今、この日常の中にあった。私は、彼女と共に歩んだ日々を、一枚一枚の写真のように、心の中にしまっている。どの瞬間も、決して忘れることのできない大切な記憶だった。


私たちは、西神中央の家で、静かな生活を送った。彼女は、出版社での仕事を続け、私は弁護士としての活動を続けた。子供たちは成長し、やがて独立した。彼らは、それぞれの道を歩み始め、時折この家を訪れては、昔話に花を咲かせた。私たちは、ただ、普通の夫婦として、時間を重ねていった。その「普通」が、私にとっては何よりも尊いものだった。


――しかし、私は、ずっと考えていた。


もし、私がタイムリープしなければ、彼女はどんな人生を歩んでいただろうか。彼女は、私の知らない別の誰かと出会い、別の人生を生きていたかもしれない。それは、彼女の「本来の人生」だったのだろう。私は、その人生を、奪った。その事実は、私の心の奥底で、ずっと燻り続けていた。喜びの中に、いつも混ざる後悔。それが、私の人生の一部だった。


ある日、私はソファに座り、窓の外の庭を眺めていた。秋の日差しが、紅葉した木々を金色に染めている。その光景は、美しく、そしてどこか切なかった。


「何を考えてるの?」


彼女が、ソファに座りながら、私に問いかけた。彼女の髪には、白いものが混じり始めている。しかし、その目は、昔と変わらず、鋭く、そして優しかった。


「いや、何でもない。」


「嘘。あなたは、何かを考えている時、いつもそういう顔をする。」


彼女は、私のことを、よく知っていた。何十年も共に生きてきたからだ。彼女は、私の表情のわずかな変化を見逃さない。その目は、年を重ねるごとに、より深く、私を見つめるようになっていた。


「もし、私と出会わなかったら、君は、どんな人生を歩んでいたと思う?」


彼女は、その言葉に、少しだけ首をかしげた。その仕草は、かつてあの教室で窓の外を見ていた少女の面影を、一瞬だけ蘇らせた。


「考えたことないな。でも、たぶん――」


彼女は、少しだけ間を置いた。その間、風が窓を優しく叩いた。


「――本に関わる仕事をして、誰かと結婚して、普通の人生を送ってたんじゃないかな。」


「それが、君の本来の人生だったかもしれない。」


「そうかもしれないね。でも――」


彼女は、私の手を握った。その手は、昔と同じように温かかった。しかし、その皮膚には、年輪のようなシワが刻まれている。彼女の手が、私の手を包み込む。その感触が、私の胸に、静かに、しかし確かに響いた。


「――私は、今の人生を選んだ。あなたと出会い、あなたと結婚し、あなたと子供を育てた。それが、私の人生の全てだよ。」


その言葉は、私の胸に、静かに、しかし確かに響いた。彼女は、私が奪ったかもしれない人生を、気にしていなかった。彼女は、今の人生を、自分の人生として受け入れていた。その事実が、私に深い安堵と、そして罪悪感をもたらした。


「ありがとう。」


私は、そう言った。それ以上は、何も言えなかった。


――彼女は、私が奪ったかもしれない人生を、気にしていなかった。彼女は、今の人生を、自分の人生として受け入れていた。


私は、今でも、自分が狂人だったことを理解している。未来から来た男が、ただ一人の少女を追いかけ、すべてを犠牲にして、彼女を手に入れた。それは、狂気以外の何ものでもなかった。しかし、それでも、私は彼女を愛した。強欲で、一途で、ただそれだけの理由で、すべてを賭けた。


「ねえ、あなたは、後悔してるの?」


彼女が、ふと、言った。彼女の声は、いつもより少しだけ低く、優しかった。


「何を?」


「私と、一緒になったことを。」


「後悔なんて、するわけがない。」


私は、即座に答えた。それは、心からの言葉だった。


「じゃあ、何を考えてたの?」


「ただ、君と出会えて、よかったと思ってた。」


彼女は、その言葉に、少しだけ笑った。その笑顔は、何十年もの時間を経て、さらに深みを増していた。


「変な人ね。でも、その変な人と、私は、幸せだよ。」


その言葉が、私のすべてを、満たした。


――私は、彼女という幸福を手に入れるために、努力した。それだけだった。狂人でも、強欲でも、ただの普通の人間だった。


季節は巡り、私たちは、さらに歳を重ねた。彼女の髪には白いものが混じり始め、私の足腰も、少しずつ弱くなっていった。しかし、私たちは、それでも、共にいた。彼女は、料理をするとき、包丁を握る手が少し震えるようになった。私は、階段を上るとき、手すりに手をかけるようになった。それでも、私たちは、互いの存在を確かめ合いながら、毎日を過ごしていた。


ある夜、彼女はベッドの上で、静かに言った。


「最後に、一つだけ聞いていい?」


彼女の声は、かすれていた。しかし、その目は、はっきりと私を見つめていた。


「何?」


「あなたの、たった一つのほしいものは、何だったの?」


私は、その問いに、少しだけ考えた。窓の外には、月が静かに輝いている。その光が、彼女の横顔を優しく照らしていた。


「君だよ。最初から、ずっと。」


彼女は、その言葉に、静かに微笑んだ。その微笑みは、かつてあの教室で見た横顔と同じように、静かで、そしてどこか鋭かった。しかし、その中に、確かな温もりがあった。


「……変な人ね。でも、その変な人の、たった一つのほしいものになれて、私は、幸せだよ。」


――それが、私たちの、最後の会話だった。


彼女は、その夜、静かに息を引き取った。私は、彼女の手を握りながら、その瞬間を見送った。彼女の手は、次第に冷たくなっていった。しかし、その温もりは、私の手に、確かに残っていた。


――私は、彼女を手に入れた。しかし、彼女は、私のものではなかった。彼女は、彼女自身の人生を生きた。ただ、その人生に、私が含まれていただけだ。


彼女の死後、私は西神中央の家の書庫に立ち、窓の外の街並みを見下ろした。そこには、彼女と共に生きた記憶が、すべて詰まっていた。彼女が本棚の前に立ち、本の背表紙に指を滑らせたあの日。彼女が庭で子供たちと遊んだあの日。彼女が台所から「ご飯よ」と呼ぶ声が聞こえたあの日々。


――私は、彼女の人生を、捻じ曲げたかもしれない。しかし、彼女は、その捻じ曲げられた人生を、自分のものとして受け入れ、幸せになった。


それが、私の手に入れたものだった。


「……たった一つのほしいもの。」


私は、そう呟きながら、書庫を後にした。


――それは、私の愛の形だった。歪で、醜く、狂気的で、しかし唯一無二の愛が、ここにあった。


私は、彼女と共に生きた。それだけで、十分だった。



「……たった一つのほしいもの。」


私は、そう呟きながら、書庫を後にした。


――それは、私の愛の形だった。歪で、醜く、狂気的で、しかし唯一無二の愛が、ここにあった。


私は、彼女と共に生きた。それだけで、十分だった。



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